天皇陵巡礼31(田原/ 光仁天皇陵)+太安万侶墓+志貴皇子墓〜奈良公園


- GPS
- 03:18
- 距離
- 14.4km
- 登り
- 112m
- 下り
- 434m
コースタイム
天候 | 晴れ 午前中 風やや強い |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
●帰り= 近鉄奈良駅 |
写真
感想
光仁天皇陵は2017年11月に行こうとしたのだが、なんとバスが出発早々 恐ろしい渋滞に巻き込まれて進まず、30分経っても街中を抜けなかった。その時は参拝後 国立博物館の正倉院展を観覧する予定だったので、数少ない帰りのバスに間に合わないということで 泣く泣く天皇陵参拝を断念。正倉院展だけで帰った。
後回しになっていた光仁天皇陵、ついに。今回は歩いて下ることにしたのでいくらバスが遅れようとも大丈夫。
3分遅れで日笠バス停着。冷たく強い風が吹く。
ずっと舗装道歩き。風もおさまり、ウグイスやカエルの鳴き声が聞こえるのどかな風景。
わたしは黒ずくめのいでたちにマスク。地元の人に怪しまれないように挨拶をする。さすがにコロナ禍とは無縁で 誰もマスクなどしていない。私がマスクしているのは花粉症対策だが、田舎の野外でのマスクを奇妙に感じられただろう。
光仁天皇陵、志貴皇子墓、ともに墓 (古墳) の周りをぐるりと回ることができた。光仁天皇陵は生け垣がしっかりとしていたが、志貴皇子墓の生け垣は部分的に傷んでいて、容易に中に入ることができるようであったのは残念だった。
志貴皇子墓参拝を終えればあとは帰るだけ。鉢伏町への道からはずっと下り。
下り終えて護国神社へ。
計画では護国神社前のバス停をゴールとしていて、ちょうどぴったりの時間に着いたと思ったが、なんとバス停がない。反対方向行きのバス停はあるのに。
無情にもバスは通り過ぎて行ってしまった。
奈良駅方向のバス停はかなり南の方にあるのだろうか?
しかしこれでよかった。久しぶりの奈良公園歩きを楽しんだ。
これで御陵巡りも残り3ヶ所 (四天皇) となった。長岡京の土御門天皇陵、京北井戸町の常照皇寺の後花園天皇陵, 光厳天皇陵 (北朝)、淡路島の淳仁天皇陵。
本当はもうひとつ、香川坂出市の崇徳天皇陵も参拝していないが、場所が不便すぎて行けない。京都祇園町の御廟は参拝済みなので、それで納得しておこうと思う。
2017年5月に開始した御陵巡りもいよいよ大詰めというところだ。
***
●第49代 光仁天皇
和風諡号:天宗高紹天皇 (あまつむねたかつぎのすめらみこと)
諱:白壁 (しらかべ)
生没年:709年10月〜781年12月(72歳)
在位期間:770年10月〜781年4月(10年間)
父親:志貴皇子 (第6皇子)、母親:紀橡姫 (きのとちひめ)
先代: 称徳天皇、次代:桓武天皇
皇居:平城宮
陵所:奈良市日笠町の田原東陵 (たはらのひがしのみささぎ)。円丘。遺跡名は「田原塚ノ本古墳」。
天智天皇の第7皇子 施基親王 (志貴皇子) の第6皇子として生まれる。
天平宝字8年 (764年) 藤原仲麻呂の乱 (恵美押勝の乱) 鎮圧で功績を挙げ、称徳天皇の信任を得て、天平神護2年 (766年) 大納言に昇進。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
神護景雲4年 (770年) 称徳天皇が崩御。生涯独身の称徳天皇に後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていた。しかし妃の井上 (いのえ) 内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸 (おさべ) 親王は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族のひとりであった。このことから天皇の遺宣 (遺言) に基づいて立太子がおこなわれ、同年10月 即位。62歳という高齢での即位だった。元号は宝亀と改められた。
しかし後継者問題では陰謀めいた事件がいくつも起きた。皇后の井上内親王が天皇の同母姉 難波 (なにわ) 内親王を呪詛して殺害したとして、他戸親王とともに廃され ともに変死した。
天皇は70歳を超えても政務に精励したが、天応元年 (781年) に第1皇女 能登内親王に先立たれてから衰え、皇太子に譲位し、太上天皇となった。同年12月 崩御。宝算73。
***
志貴皇子 (しきのみこ) は日本の飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族 (?〜716年) 。施基皇子 (親王) などとも記す。天智天皇の第7皇子。
壬申の乱によって皇統が天武天皇の系統に移ったことから、天智天皇系皇族であった志貴皇子は皇位継承とは無縁で、文化人としての人生を送った。「万葉集」に6首の和歌を残している。
しかしその薨去から54年後に息子の白壁王 (光仁天皇) が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。
御陵所の田原西陵 (奈良市矢田原町) にちなんで田原天皇とも称される。
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太安万侶 (おおのやすまろ) は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族 (?〜723)。名は安麻呂とも。
和銅4年 (711年)、元明天皇から稗田阿礼の誦習する「帝紀」「旧辞」を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌年「古事記」として天皇に献上した。
養老4年 (720年) に完成した「日本書紀」の編纂にも加わったとされる。
養老7年 (723年) 卒去。
※太安萬侶墓から出土した墓誌・真珠は国の重要文化財。橿原考古学研究所附属博物館展示。
1979年 (昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と青銅製の墓誌が出土。墓誌には左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載されていた。
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