久保田宿のバス停。この付近は道路が拡張されていて昔の道筋は向って左側になります。
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5/3 7:24
久保田宿のバス停。この付近は道路が拡張されていて昔の道筋は向って左側になります。
祇園社。ちょうどこの辺りが町の中心部だったようで数多くの家が軒を並べていたといいます。きっと祇園祭りも華やかだったことでしょう。
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5/3 7:26
祇園社。ちょうどこの辺りが町の中心部だったようで数多くの家が軒を並べていたといいます。きっと祇園祭りも華やかだったことでしょう。
境川を渡れば小城市。小京都小城と呼ばれる場所は北の山際に位置しています。
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5/3 7:38
境川を渡れば小城市。小京都小城と呼ばれる場所は北の山際に位置しています。
左へ。
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5/3 7:48
左へ。
牛津宿に入ります。
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5/3 7:51
牛津宿に入ります。
長崎街道は砂糖が運ばれた道でもあって街道沿いには菓子文化が花開きました。小城といえば羊羹が有名ですが小城羊羹も原点を辿れば長崎街道が関係していると言えるでしょう。
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5/3 7:53
長崎街道は砂糖が運ばれた道でもあって街道沿いには菓子文化が花開きました。小城といえば羊羹が有名ですが小城羊羹も原点を辿れば長崎街道が関係していると言えるでしょう。
ここを右へ。ちょうど左手の学校の前あたりが高札場があった場所。
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5/3 7:58
ここを右へ。ちょうど左手の学校の前あたりが高札場があった場所。
牛津宿は小城藩の港も整備され様々な産物の集積地としても栄えていました。それは西の浪花と呼ばれるほど。宿場中心部は昭和末期に区画整理が行われています。
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5/3 8:05
牛津宿は小城藩の港も整備され様々な産物の集積地としても栄えていました。それは西の浪花と呼ばれるほど。宿場中心部は昭和末期に区画整理が行われています。
脇道に逸れると区画整理から免れた建物が点在しています。牛津町会館や牛津赤れんが館は代表的なものです。
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5/3 8:12
脇道に逸れると区画整理から免れた建物が点在しています。牛津町会館や牛津赤れんが館は代表的なものです。
JRの踏切を渡って左へ。
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5/3 8:18
JRの踏切を渡って左へ。
牛津駅前には往時の賑わいを感じられる絵図が飾られていました。
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5/3 8:23
牛津駅前には往時の賑わいを感じられる絵図が飾られていました。
駅前から先は区画整理が行われず昔ながらの光景が広がっています。
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5/3 8:26
駅前から先は区画整理が行われず昔ながらの光景が広がっています。
旧道は直進。牛津川とぶつかります。
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5/3 8:33
旧道は直進。牛津川とぶつかります。
牛津川。かつて牛津港があった場所。川の流れは昔と大きく変わり現在中州になっているあたりが川筋にあたります。
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5/3 8:38
牛津川。かつて牛津港があった場所。川の流れは昔と大きく変わり現在中州になっているあたりが川筋にあたります。
橋を渡って左手に旧道が残ります。
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5/3 8:40
橋を渡って左手に旧道が残ります。
麦畑とかもめ号。新幹線が開業するとリレーかもめになるみたいです。
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5/3 8:40
麦畑とかもめ号。新幹線が開業するとリレーかもめになるみたいです。
国道と合流します。左へ。
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国道と合流します。左へ。
寺町集落のあたりに旧道が残されています。左へ。
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5/3 9:08
寺町集落のあたりに旧道が残されています。左へ。
突き当りを右へ。寺町は牛津宿と小田宿の中継地点になっていました。
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5/3 9:17
突き当りを右へ。寺町は牛津宿と小田宿の中継地点になっていました。
再び国道と合流。右手の山にカンカン石があるので寄ってみましょう。
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5/3 9:27
再び国道と合流。右手の山にカンカン石があるので寄ってみましょう。
江戸時代の長崎街道の珍名所と知られ珍石を小石で叩けばカンカンと音が鳴るというもの。その石の正体はサヌカイトになるのですが当時の人にとっては摩訶不思議で仕方なかったでしょうね。
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5/3 9:30
江戸時代の長崎街道の珍名所と知られ珍石を小石で叩けばカンカンと音が鳴るというもの。その石の正体はサヌカイトになるのですが当時の人にとっては摩訶不思議で仕方なかったでしょうね。
国道脇の道を直進。
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5/3 9:40
国道脇の道を直進。
この辺りで向こう側に行けば旧道が残っています。
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5/3 9:50
この辺りで向こう側に行けば旧道が残っています。
右の道が旧道です。
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5/3 9:51
右の道が旧道です。
新緑の季節は山がパッチワークのようで美しいです。
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5/3 9:57
新緑の季節は山がパッチワークのようで美しいです。
佐留志村の道路元標。佐賀県に入ってからは石質が違うのかどれも何が書いてあるか分かりにくいものが多い気がします。地元の人と話をしましたが道路元標という代物で大正時代のものと説明すると大変驚かれていました。
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5/3 10:02
佐留志村の道路元標。佐賀県に入ってからは石質が違うのかどれも何が書いてあるか分かりにくいものが多い気がします。地元の人と話をしましたが道路元標という代物で大正時代のものと説明すると大変驚かれていました。
旧道は車が滅多に来ず静かな空間です。
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5/3 10:05
旧道は車が滅多に来ず静かな空間です。
国道と合流します。
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5/3 10:21
国道と合流します。
肥前山口駅。新幹線が開業する時期に江北駅に改名されるとのこと。すでに山口村の自治体名はとっくの昔にないので令和までよく名前が残っていたなと思います。
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5/3 10:24
肥前山口駅。新幹線が開業する時期に江北駅に改名されるとのこと。すでに山口村の自治体名はとっくの昔にないので令和までよく名前が残っていたなと思います。
旧道を右へ。
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5/3 10:25
旧道を右へ。
長崎街道の別ルート鹿島道(浜通り)との追分。本道は直進。
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5/3 10:28
長崎街道の別ルート鹿島道(浜通り)との追分。本道は直進。
この追分には山口村の道路元標と思われる石がありますが判読不能。
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5/3 10:29
この追分には山口村の道路元標と思われる石がありますが判読不能。
ここは左へ。この先の左手に歴史資料館がありますが当日は休館でした。
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5/3 10:32
ここは左へ。この先の左手に歴史資料館がありますが当日は休館でした。
本来は突き当りを真っすぐ道があったのですが工場の敷地になっています。道なりに進んで国道に迂回します。
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5/3 10:34
本来は突き当りを真っすぐ道があったのですが工場の敷地になっています。道なりに進んで国道に迂回します。
ここを右へ。旧道復活。
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5/3 10:38
ここを右へ。旧道復活。
朝鍋宿。間の宿です。しばらく行けば小田宿があるので需要は少なかったようで古地図を見ても人家は少ないように描かれています。
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5/3 10:41
朝鍋宿。間の宿です。しばらく行けば小田宿があるので需要は少なかったようで古地図を見ても人家は少ないように描かれています。
麦畑の横を真っすぐいけば小田宿です。
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5/3 10:44
麦畑の横を真っすぐいけば小田宿です。
旧道は直進。
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5/3 10:54
旧道は直進。
小田宿の風情。古い家が少ないのが残念ですが道筋と家の敷地に面影が感じられます。
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5/3 10:59
小田宿の風情。古い家が少ないのが残念ですが道筋と家の敷地に面影が感じられます。
ここを左へ。宿場中心部で直角に曲がっています。これは他の宿場でもよくあることです。
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5/3 11:00
ここを左へ。宿場中心部で直角に曲がっています。これは他の宿場でもよくあることです。
一見すると普通の田舎町のように見えますが往時の旅人にとっては前後の宿場とは距離があることから大いなる休息場となっていたと思われます。
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5/3 11:04
一見すると普通の田舎町のように見えますが往時の旅人にとっては前後の宿場とは距離があることから大いなる休息場となっていたと思われます。
茶屋岩見屋の池園は扇状地から流れ出る湧水を利用したもので藩主もたびたび休息していたそうです。
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5/3 11:11
茶屋岩見屋の池園は扇状地から流れ出る湧水を利用したもので藩主もたびたび休息していたそうです。
この大楠の下でしばし休憩をしました。なかなか目立つ巨木でシーボルトやケンベルも日記に書いているほどです。
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5/3 11:12
この大楠の下でしばし休憩をしました。なかなか目立つ巨木でシーボルトやケンベルも日記に書いているほどです。
たんたんと道なりに進めば右手に代官所跡。財政難の佐賀藩を立て直すために作った代官所のシステムで横辺田の代官所は最初の三つのうちの一つ。
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5/3 12:00
たんたんと道なりに進めば右手に代官所跡。財政難の佐賀藩を立て直すために作った代官所のシステムで横辺田の代官所は最初の三つのうちの一つ。
19世紀前半に建てられたと見られる土井家住宅。今も実際に住まわれていて見学は叶いませんが街道を歩いていてひと際目立っているのは言うまでもありません。
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5/3 12:08
19世紀前半に建てられたと見られる土井家住宅。今も実際に住まわれていて見学は叶いませんが街道を歩いていてひと際目立っているのは言うまでもありません。
大町町役場付近では街道がカラー塗装になっています。飲食店もちらほら。
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5/3 12:24
大町町役場付近では街道がカラー塗装になっています。飲食店もちらほら。
この先で国道に合流。
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5/3 12:56
この先で国道に合流。
今回の道中で一番危険な場所。歩道がないので注意しましょう。
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5/3 13:00
今回の道中で一番危険な場所。歩道がないので注意しましょう。
ここを右へ。旧道に入ります。
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5/3 13:01
ここを右へ。旧道に入ります。
右手は石切場跡。建築用材として広く利用されたもので舟を使って積み出していました。享保年間の佐賀城普請にも使われていたそうです。古代まで遡れば赤坂砦として有名な場所でもあります。
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5/3 13:07
右手は石切場跡。建築用材として広く利用されたもので舟を使って積み出していました。享保年間の佐賀城普請にも使われていたそうです。古代まで遡れば赤坂砦として有名な場所でもあります。
右手は焼米池。江戸時代中期に農業用として作られた溜池で当時は龍王池と呼ばれていました。
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5/3 13:09
右手は焼米池。江戸時代中期に農業用として作られた溜池で当時は龍王池と呼ばれていました。
近代になって拡張して大きな池になっています。
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5/3 13:10
近代になって拡張して大きな池になっています。
再び国道と合流。
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5/3 13:13
再び国道と合流。
焼米宿。間の宿にも関わらず旅籠があり日用雑貨店など十数軒ある庶民的な町で先ほどの赤坂(石切場)や炭鉱のおかげで昭和初期まで賑わっていたといいます。
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5/3 13:17
焼米宿。間の宿にも関わらず旅籠があり日用雑貨店など十数軒ある庶民的な町で先ほどの赤坂(石切場)や炭鉱のおかげで昭和初期まで賑わっていたといいます。
北方駅前。この膨らみは旧道の痕跡でしょうね。
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5/3 13:21
北方駅前。この膨らみは旧道の痕跡でしょうね。
ここを右へ。
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5/3 13:24
ここを右へ。
右手に追分観音。ここが塩田道との追分の場所にあたります。長崎街道開設当初は塩田道が本道でしたが度重なる水害で武雄温泉を経由する道が本道となります。
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5/3 13:25
右手に追分観音。ここが塩田道との追分の場所にあたります。長崎街道開設当初は塩田道が本道でしたが度重なる水害で武雄温泉を経由する道が本道となります。
ここは直進。ちなみに右の道も絵図に残る古い道です。
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5/3 13:33
ここは直進。ちなみに右の道も絵図に残る古い道です。
十三塚。十三仏信仰として室町時代に作られたもの。
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5/3 13:35
十三塚。十三仏信仰として室町時代に作られたもの。
墓場の中を進みます。
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5/3 13:41
墓場の中を進みます。
国道を横切って向こう側へ。
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5/3 13:42
国道を横切って向こう側へ。
木ノ元集落。道なりに進み再び国道と交差します。
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5/3 13:48
木ノ元集落。道なりに進み再び国道と交差します。
稲主神社の手前で左へ。
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5/3 13:51
稲主神社の手前で左へ。
北方宿。右が本陣跡で左が脇本陣跡。手前の川が東溝口にあたります。立派な白壁の建物は天保10年のもの。
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5/3 14:11
北方宿。右が本陣跡で左が脇本陣跡。手前の川が東溝口にあたります。立派な白壁の建物は天保10年のもの。
北方宿付近では江戸中期から石炭の採掘が盛んで街道には石炭を山積みにした人馬が往来していたといいます。
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5/3 14:16
北方宿付近では江戸中期から石炭の採掘が盛んで街道には石炭を山積みにした人馬が往来していたといいます。
八幡社にはその時の光景を描いた珍しい絵馬が奉納されています。
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5/3 14:19
八幡社にはその時の光景を描いた珍しい絵馬が奉納されています。
ここを左へ。北方宿の中心で直角に曲がります。ちなみに直進方向は唐津街道で追分には追分石が置かれています。
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5/3 14:24
ここを左へ。北方宿の中心で直角に曲がります。ちなみに直進方向は唐津街道で追分には追分石が置かれています。
西溝口を経て直進。
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5/3 14:26
西溝口を経て直進。
高速道路と交差します。
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5/3 14:46
高速道路と交差します。
右の旧道へ。
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5/3 14:51
右の旧道へ。
右の旧道へ。
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5/3 14:57
右の旧道へ。
高橋宿。橋は地名の謂れとなる高橋で古くは石橋でしたが現在はコンクリート製になっています。右に曲がります。
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5/3 14:58
高橋宿。橋は地名の謂れとなる高橋で古くは石橋でしたが現在はコンクリート製になっています。右に曲がります。
間の宿として賑わいました。古い家がいくつか残っています。
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5/3 15:05
間の宿として賑わいました。古い家がいくつか残っています。
ここを左へ。
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5/3 15:10
ここを左へ。
享保橋。名前からして長崎街道がこちらを経由することになった頃に架けられたものと思われます。
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5/3 15:11
享保橋。名前からして長崎街道がこちらを経由することになった頃に架けられたものと思われます。
麦畑と御船山。今回のゴールが見えてきました。
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5/3 15:13
麦畑と御船山。今回のゴールが見えてきました。
街道は平坦なJR線沿いには行かず丘を越える道筋をとります。 詳しくはわかりませんが昔は入江が多かったという話があるので古来からの道を踏襲しているのではと思います。
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5/3 15:23
街道は平坦なJR線沿いには行かず丘を越える道筋をとります。 詳しくはわかりませんが昔は入江が多かったという話があるので古来からの道を踏襲しているのではと思います。
左側に旧道が残っていました。
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5/3 15:36
左側に旧道が残っていました。
ここは左へ。写真には撮っていませんがお墓の花が全て綺麗なものでした。鹿児島ではよく見られる光景ですがこの辺りも同じ文化があるのでしょうか。
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5/3 15:37
ここは左へ。写真には撮っていませんがお墓の花が全て綺麗なものでした。鹿児島ではよく見られる光景ですがこの辺りも同じ文化があるのでしょうか。
坂道を下って車道と合流。
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5/3 15:41
坂道を下って車道と合流。
ここを左斜め方向の旧道へ。川に旧橋の跡があります。
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5/3 15:48
ここを左斜め方向の旧道へ。川に旧橋の跡があります。
左へ。
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5/3 15:53
左へ。
八並地区。この辺りになると平坦です。
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5/3 15:56
八並地区。この辺りになると平坦です。
案内板によるとかなり古いもので1200年頃のもの。ただ風化が激しく何が書いてあるのか読めないのが残念なところです。
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5/3 15:58
案内板によるとかなり古いもので1200年頃のもの。ただ風化が激しく何が書いてあるのか読めないのが残念なところです。
桝形の跡。この辺りは既に塚崎宿に入っていると思われます。武雄は温泉場として開かれた町で古くからの地名ではあるのですが広域においては「塚崎」「柄崎」と呼ばれるのが一般的だったようです。
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5/3 16:13
桝形の跡。この辺りは既に塚崎宿に入っていると思われます。武雄は温泉場として開かれた町で古くからの地名ではあるのですが広域においては「塚崎」「柄崎」と呼ばれるのが一般的だったようです。
街の雰囲気がにぎやかになってきました。武雄が全国的に認知されるようになったのは鉄道の開業によるものが大きいそうです。
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5/3 16:17
街の雰囲気がにぎやかになってきました。武雄が全国的に認知されるようになったのは鉄道の開業によるものが大きいそうです。
江戸時代の塚崎宿の絵図。有名な武雄温泉のシンボルの楼門は当然のことながらありません。
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5/3 16:18
江戸時代の塚崎宿の絵図。有名な武雄温泉のシンボルの楼門は当然のことながらありません。
ここを左。右に曲がれば楼門。
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5/3 16:21
ここを左。右に曲がれば楼門。
蓬莱門は大正期のもので辰野金吾の設計。本陣はこの中にありました。
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5/3 16:23
蓬莱門は大正期のもので辰野金吾の設計。本陣はこの中にありました。
この先で右に曲がり今回のゴールとしました。
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5/3 16:28
この先で右に曲がり今回のゴールとしました。
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