桟敷ヶ岳〜常照皇寺 ※天皇陵巡礼33(京北井戸町/後花園天皇陵, 光厳天皇陵)


- GPS
- 07:38
- 距離
- 21.6km
- 登り
- 1,023m
- 下り
- 1,067m
コースタイム
- 山行
- 6:46
- 休憩
- 0:57
- 合計
- 7:43
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
●帰り= 山国御陵前 16:54 (京北ふるさとバス・430円) 周山 17:10/17:30 (西日本JRバス・1080円) 京都 18:57 |
写真
感想
初めての桟敷ヶ岳。
「関西ハイキングガイド」に一般的なコースを逆に行くコース (岩屋橋〜祖父谷川の道〜祖父谷峠〜桟敷ヶ岳〜薬師峠〜岩屋橋) が掲載されていて、20年前から行きたいと思っていたが、京都バスの時間が「帯に短し襷に長し」であること、さらに祖父谷川沿いの林道歩きが単調と書かれていて二の足を踏んでいた。
それから長い歳月が流れ、ライフワークに天皇陵参拝が加わり、去年 周山へのバスが1時間半もかかることがネックである後花園天皇陵・光厳天皇陵参拝と、桟敷ヶ岳山頂キャンプで行くことを思いついた。
しかし今年に入ってロングコースを歩きたくなった。キャンプ用を日帰りコースに作り直して行くことに。早朝出発、夜帰宅の一日がかりだ。御陵参拝を先にしたかったが、バスの時間の関係上 後にせざるを得ないが仕方ない。
そしていつの間にやら京都バスは雲ケ畑の路線を廃止。雲ケ畑自治振興会が運営主体の「もくもくバス」となった。4便あったバスは1日2便、午前中は1便のみに。700円也。
マイクロバスの乗客はわたしひとり。30年以上前 大学1年の時に住んでいた場所を通ったので、その感動を運転手のおじさんに伝えると、それからずっと話をすることとなった。数年前 関西を襲った3つの大きな台風のせいで雲ケ畑に行く道がどれだけ荒れてしまったか、その復旧が大変だったかを力説されていた。
終点 雲ケ畑岩谷橋着。トイレを拝借して いざ出発。
最初こそ殺風景な舗装道だが、志明院からは雰囲気のいい山道。ミソサザイの大きな鳴き声が気分を盛り上げてくれる。
暖かで風ひとつないいい天気の中、落ち葉積もる自然林の中の山歩き。いつもの山域とは異なる奥深さがある。
バスの運ちゃんは、台風の影響でまだ倒木があるかもと言っていたが、たいしたことはなかった。
起伏がなだらかなのもいい雰囲気。ただそのこともあって道が分かりにく、踏み痕がはっきりしていない箇所がある。近年はあまり登られないのだろうか。道標もほとんどないのでルート取りは注意が必要。
展望は素晴らしい。特に比良山系の2つの代表的な山が望めたことは感激だった。
広い山頂もいい。去年はテントを張ることを検討していたので、こうして日帰りで来ていてもどこに張ろうかと考えていた。
石仏峠までは鉄塔とともに展望を楽しむ道。祖父谷峠から京北線を使うと早く下れるが、時間が余りそうなので石仏峠へ向かう。
さて問題はここからだった。杉の葉が厚く積もっていて歩きにくい道。ここから地蔵谷に下りる道で迷った。まさしく「山と高原地図」に「迷」マークがついている箇所だ。ズボンを汚しながら道のない急な斜面を強引に下って谷底に下りた。本当に地蔵谷か不安だったが、ほどなく林道に上がることができ、地蔵谷で合っているようで事なきを得た。
井戸町に出た。結局ハイカーにはひとりも会わなかった。道迷いがあったものの時間的には予定通り。国道477号に出ず、川べりの京都一周トレイルを行く。楽しい道だが、歩きにくい “難所” もある。また川に張られた黄色いひもが地面に落ちていて2回 靴に絡んだ。
さて常照皇寺で御陵参拝。寺の参拝時間は4時まで。時刻は3時55分だが、御陵はまた別の道だから問題はないだろう。また寺自体も4時に門が閉められるというようなことはないようだ。
墓所が高いところにあるからか、やっと来ることができたからか、山登りの後の長い道のりであったからか、はたまた それらが入り混じってか、なんだかこみあげてくるものがあった。
天皇陵参拝も淡路島の淳仁天皇陵、香川県坂出市の崇徳天皇陵の二陵を残すのみとなった。
しかしまたまた大きな問題が発生。このあたりで唯一の店で食事をとる予定だったのだが、営業していなかった。昼時を過ぎると閉めてしまうらしい。
バスの時間までは約1時間。バス道を歩くことにした。幸いバス停は短い間隔であるので調整しやすい。食料はパン少しを残すのみ。
塔天満宮社前バス停でバスに乗り、周山で乗換。コンビニがないか近くを歩いてみたがなかった。もう少し行けば道の駅があったのだが。
若い女の子の話し声のうるささに耐えながら1時間半。特に腹が減ることはなく、新大阪駅構内のラーメン屋 (神座) でこの日初めてパン以外の食事にありついた。
帰宅は夜9時。日帰りの山登りでこれだけ遅かったのは2回目だ。
20年ほど前 遅い帰宅だった時も実は周山からだった。雲取山から鞍馬に下る予定が、道を間違い灰屋まで行ってしまった。
天童山・飯盛山の長い尾根など歩いてみたいが、遠いなぁ。
なおマスクはしていたが ゴーグルは付けず。現在 翌日。目が痒く、鼻もグシュグシュ。顔に痒みもある。まぁひどくはないのでゴーグルをして登る煩わしさを考えると許容範囲内か。しかしヒノキのほうが症状は強く出るので、4月いっぱいは注意が必要だろう。
***
●第102代 後花園 (ごはなぞの) 天皇
諱:彦仁 (ひこひと) 別称:円満智 (法名)
生没年:1419年7月〜1471年1月(満52歳)
在位期間:1428年9月〜1464年8月(35年間)
父親:伏見宮貞成親王、母親:庭田幸子 (敷政門院)
先代: 称光天皇、次代:後土御門天皇
皇居:京都御所
陵所:常照皇寺内にある後山国陵 (のちのやまくにのみささぎ)。宮内庁上の形式は石造宝篋印塔。光厳天皇陵と同域に所在。
本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、傍系で三従兄弟にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため皇位を継いだ。先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代 (称徳天皇→光仁天皇) 以来658年ぶりで、かつ南北朝合一時の「明徳の和約」(皇位は両統迭立とする) にも反するため、旧南朝勢力の激しい反発を招き、以後 約60年にわたって南朝復興運動 (いわゆる後南朝) が繰り広げられる引き金になった。
この時代は室町幕府の力が衰え、土一揆が頻発し、永享の乱や嘉吉の乱などの政変が起こった動乱の時代。1443年には後南朝が天皇の内裏を襲撃し、三種の神器のうちの宝剣と神璽を奪うという事件が勃発した (禁闕(きんけつ)の変)。しかし時の将軍 足利義政に政治への意欲はなく遊興・数寄の道に沈潜。後花園天皇はこの義政の時代に30年を超える天皇親政を続け、子の成人 (ふさひと) (後土御門天皇) に譲位してからも院政を敷いた。
応仁元年 (1467年) 応仁の乱が勃発し、兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも同年出家。文明2年 (1470年) 12月27日 中風のため室町第で崩御。宝算53。
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●北朝初代 光厳 (こうごん) 天皇
諱:量人 (かずひと) 別称:勝光智 (法名)
生没年:1313年8月〜1364年8月(満51歳)
在位期間:1331年9月〜1333年7月(1年10ヶ月間)
父親:後伏見天皇 (第三皇子)、母親:西園寺寧子
先代: 後醍醐天皇、次代:光明天皇
皇居:京都御所
陵所:常照皇寺内にある山国陵 (やまくにのみささぎ)。宮内庁上の形式は円丘。
在位期間は鎌倉時代末に後醍醐天皇が元弘の乱で配流されてから鎌倉幕府滅亡により復権するまでの間で南北朝時代より前だが、明治時代以降 歴代天皇から除外され便宜的に北朝初代天皇とされる。
鎌倉幕府の推戴により即位したが、隠岐に流された後醍醐天皇が再挙して討幕に成功すると光厳天皇も廃された (1333年)。しかし建武の新政は破綻。足利尊氏が室町幕府を開き、光厳天皇の弟の光明天皇を即位させると光厳は院政を開始した。
1352年 南朝方が京都を奪回。戦乱の中で南朝方に捕らえられ、5年余の軟禁生活を送る。晩年は禅僧となった。宝算52。
光厳天皇は歌道に秀で、後期京極派の重要な歌人のひとりに数えられるほど優れた才能を発揮。花園院の指導のもと「風雅和歌集」を編纂したほか、自身の歌が「光厳院御集」に残されている。
三条公秀の娘 秀子 (陽禄門院)との間に、北朝第3代 崇光天皇、北朝第4代 後光厳天皇がある。
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惟喬親王 (これたかしんのう) は文徳天皇の第一皇子 (844-897)。母は紀名虎の娘 紀静子。官位は四品・弾正尹。小野宮を号す。
天安2年 (858年) 14歳で大宰権帥に任ぜられ、その後 大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任。貞観14年 (872年) 病のため出家して素覚と号し、小野 (近江? 大原?) に隠棲した。その後 雲ケ畑の岩屋山金峯寺 (志明院) に宮を建て移り住んだとのこと。ただしその後も居を移したとされる。寛平9年 (897年) 薨去。享年54歳。
鞍馬貴船町にある夜泣峠は、幼少の惟喬親王が乳母に抱かれて二ノ瀬へ出る時に山で一夜を明かしたが、親王が夜泣きしたため峠にあったお地蔵に願をかけた。するとすぐに泣き止んだことからその名があると伝えられている。
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