JR紀勢線 御坊駅
0
11/10 9:13
JR紀勢線 御坊駅
湯川子安神社
湯川氏が当地を支配していた時、邸の一隅に明神社を祀っていたが、天正年間に静岡県は大宮に鎮座の
元官幣大社浅間神社より、そのご分霊を、亀山城内の明神社と共に勧請し、城主湯川直春公が、息女の安産をご祈願され、無事安産なされました。
0
11/10 9:29
湯川子安神社
湯川氏が当地を支配していた時、邸の一隅に明神社を祀っていたが、天正年間に静岡県は大宮に鎮座の
元官幣大社浅間神社より、そのご分霊を、亀山城内の明神社と共に勧請し、城主湯川直春公が、息女の安産をご祈願され、無事安産なされました。
湯川子安神社
天正十三年(1585年)豊臣の兵火にかかり全焼した後、現在の地に再興して、子安神社を創建せられ、多数の参拝者がご加護を賜って居ります。
0
11/10 9:30
湯川子安神社
天正十三年(1585年)豊臣の兵火にかかり全焼した後、現在の地に再興して、子安神社を創建せられ、多数の参拝者がご加護を賜って居ります。
岩内王子跡
『紀伊続風土記』に「也久志波王子社、境内周三十四間、村中にあり岩内王子を祀るという。『御幸記』に岩内王子は、「此地河流変遷し、岩内王子の社没して、後に小社を此に建しという。」とあります。
0
11/10 10:27
岩内王子跡
『紀伊続風土記』に「也久志波王子社、境内周三十四間、村中にあり岩内王子を祀るという。『御幸記』に岩内王子は、「此地河流変遷し、岩内王子の社没して、後に小社を此に建しという。」とあります。
岩内王子跡
王子跡の滅没は、元和元年(1615年)の大洪水で名屋浦が全滅した時と言われています。岩代のコミュニティセンターの敷地に王子跡の石柱が立てられています。
0
11/10 10:27
岩内王子跡
王子跡の滅没は、元和元年(1615年)の大洪水で名屋浦が全滅した時と言われています。岩代のコミュニティセンターの敷地に王子跡の石柱が立てられています。
道案内の看板
この様な道案内の看板が、随所に付けられています。
0
11/10 10:45
道案内の看板
この様な道案内の看板が、随所に付けられています。
塩屋王子跡
熊野古道紀伊路の日高川を渡って海沿いに近い王子社。熊野九十九王子社は最初に七社造られたそうですが、塩屋王子はその一社で特別古く由緒あるお宮です。
0
11/10 11:06
塩屋王子跡
熊野古道紀伊路の日高川を渡って海沿いに近い王子社。熊野九十九王子社は最初に七社造られたそうですが、塩屋王子はその一社で特別古く由緒あるお宮です。
御所の芝
後鳥羽殷の行在所の跡
0
11/10 11:11
御所の芝
後鳥羽殷の行在所の跡
塩屋王子跡
祭礼時には七人の美人さんが入っていたので美人王子の別名があります。
0
11/10 11:12
塩屋王子跡
祭礼時には七人の美人さんが入っていたので美人王子の別名があります。
光専寺のイブキ
新日本名木100選に「光専寺のイブキ」として選ばれています。幹周/5. 65m、樹高/14m、樹齢/約600年。
0
11/10 11:35
光専寺のイブキ
新日本名木100選に「光専寺のイブキ」として選ばれています。幹周/5. 65m、樹高/14m、樹齢/約600年。
祓井戸観音
0
11/10 11:51
祓井戸観音
清姫草履塚
安珍を追いかけてきた清姫は、御坊市に入り草履を脱ぎ捨て松の木に引っ掛けたと言われている松の木があった場所だそうです。
0
11/10 12:07
清姫草履塚
安珍を追いかけてきた清姫は、御坊市に入り草履を脱ぎ捨て松の木に引っ掛けたと言われている松の木があった場所だそうです。
上野王子跡
JAガソリンスタンドの裏側、名田漁民センターの前に石碑と説明板があります。
0
11/10 13:02
上野王子跡
JAガソリンスタンドの裏側、名田漁民センターの前に石碑と説明板があります。
上野王子跡
0
11/10 13:03
上野王子跡
清姫の腰掛石
清姫さんが安珍さんを追いかける際に休憩を取ったとされる場所。
0
11/10 13:14
清姫の腰掛石
清姫さんが安珍さんを追いかける際に休憩を取ったとされる場所。
叶王子(津井王子)跡
叶王子は、土地では「おかのさん」で通っている。明治41年(1908)、山口八幡社に合祀され、その跡地に大正3年(1914)建立の「叶王子神社旧跡」の標石が建てられている。
0
11/10 13:59
叶王子(津井王子)跡
叶王子は、土地では「おかのさん」で通っている。明治41年(1908)、山口八幡社に合祀され、その跡地に大正3年(1914)建立の「叶王子神社旧跡」の標石が建てられている。
叶王子(津井王子)跡
鎌倉時代の建仁元年(1201)の「御幸記」に「次ツイの王子」とあり、王子名は所在の集落名から来ているから「ツイ」は津井である。
0
11/10 14:00
叶王子(津井王子)跡
鎌倉時代の建仁元年(1201)の「御幸記」に「次ツイの王子」とあり、王子名は所在の集落名から来ているから「ツイ」は津井である。
かつおぶし発祥之地の碑
いまに通じるかつお節が出回り出したのは江戸時代中期。その製法を考案したのが印南の漁民である「角屋甚太郎」と伝わっています。
0
11/10 14:08
かつおぶし発祥之地の碑
いまに通じるかつお節が出回り出したのは江戸時代中期。その製法を考案したのが印南の漁民である「角屋甚太郎」と伝わっています。
冨王子神社(斑鳩王子 跡)イカルガ王子は印南町光川に鎮座し、近世「富王子」といわれた。
熊野九十九王子の中でも最も創立の古い神社で、平安時代、塩屋、切目、岩代の各王子とともに栄えていた。
0
11/10 14:40
冨王子神社(斑鳩王子 跡)イカルガ王子は印南町光川に鎮座し、近世「富王子」といわれた。
熊野九十九王子の中でも最も創立の古い神社で、平安時代、塩屋、切目、岩代の各王子とともに栄えていた。
冨王子神社(斑鳩王子 跡)
この辺りの地名を光川というのは「イカルガ」から転じて光川の字を当てたからであろう。川の名光川も「名所図絵」にイカルガ河の訛れるもので、またこの川を「富川」というと記されている。
0
11/10 14:41
冨王子神社(斑鳩王子 跡)
この辺りの地名を光川というのは「イカルガ」から転じて光川の字を当てたからであろう。川の名光川も「名所図絵」にイカルガ河の訛れるもので、またこの川を「富川」というと記されている。
切目王子跡
熊野九十九王子社の中でも格式高い五躰王子社の一つです。熊野古道紀伊路では海南市にある藤代王子と切目王子が五躰王子となります。
0
11/10 14:55
切目王子跡
熊野九十九王子社の中でも格式高い五躰王子社の一つです。熊野古道紀伊路では海南市にある藤代王子と切目王子が五躰王子となります。
切目神社
社伝によれば、大和時代の崇神天皇のころ当村太鼓屋敷(当地より北東3丁、現在は畑)に地神五代を創立し、社号も五体王子宮と称した。
その後多くの星霜を経て、現在地に移転したと伝えられている。
0
11/10 14:57
切目神社
社伝によれば、大和時代の崇神天皇のころ当村太鼓屋敷(当地より北東3丁、現在は畑)に地神五代を創立し、社号も五体王子宮と称した。
その後多くの星霜を経て、現在地に移転したと伝えられている。
切目神社
熊野詣途上にあった平清盛が、源義朝挙兵の報を受けて京に引き返したのも切目王子とされる。
0
11/10 14:58
切目神社
熊野詣途上にあった平清盛が、源義朝挙兵の報を受けて京に引き返したのも切目王子とされる。
JR切目駅
0
11/11 7:30
JR切目駅
若宮社遺跡
古くから熊野古道,当地の守護神として郷人,旅人の信仰を集めた。後に合祀される中山王子よりも古いとみられる。明治41年の神社統合令により中山王子に合祀された。
0
11/11 7:39
若宮社遺跡
古くから熊野古道,当地の守護神として郷人,旅人の信仰を集めた。後に合祀される中山王子よりも古いとみられる。明治41年の神社統合令により中山王子に合祀された。
宝篋印塔
町指定の石像建造物で室町時代のものだそうです。
0
11/11 7:49
宝篋印塔
町指定の石像建造物で室町時代のものだそうです。
中山王子神社・中山王子跡
中山王子は熊野九十九王子社の1つで、建仁2年(1201)の後鳥羽上皇の「熊野御幸記」に、「先陣また山を越えて切部中山王子に参る」と記されている。
0
11/11 7:50
中山王子神社・中山王子跡
中山王子は熊野九十九王子社の1つで、建仁2年(1201)の後鳥羽上皇の「熊野御幸記」に、「先陣また山を越えて切部中山王子に参る」と記されている。
中山王子神社・中山王子跡
中山王子社の旧地がどこであったかは不詳であるが、現在地より東約1キロメートルの中山谷に「王子谷」という地名があり、小祀の跡が残っていることから、一般にはこの地にあったのではないかと考えられている。
0
11/11 7:52
中山王子神社・中山王子跡
中山王子社の旧地がどこであったかは不詳であるが、現在地より東約1キロメートルの中山谷に「王子谷」という地名があり、小祀の跡が残っていることから、一般にはこの地にあったのではないかと考えられている。
徳本上人名号碑
徳本上人は宝暦8(1758)年、紀州日高郡志賀谷久夫村(現田辺市)に生まれ、木魚と鉦(かね)を激しく叩く独自の徳本念佛をひろめ、各地に「念佛講」を作った。
0
11/11 8:22
徳本上人名号碑
徳本上人は宝暦8(1758)年、紀州日高郡志賀谷久夫村(現田辺市)に生まれ、木魚と鉦(かね)を激しく叩く独自の徳本念佛をひろめ、各地に「念佛講」を作った。
岩代の結松
有間皇子は、蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕えられ、白浜の天皇・中大兄皇子のもとに護送された。
その途中紀の湯を眼前に望み、当地の松の枝を結び岩代の神に自分の命の平安無事を祈って次の和歌を詠んだ。
0
11/11 8:43
岩代の結松
有間皇子は、蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕えられ、白浜の天皇・中大兄皇子のもとに護送された。
その途中紀の湯を眼前に望み、当地の松の枝を結び岩代の神に自分の命の平安無事を祈って次の和歌を詠んだ。
岩代王子跡
熊野九十九社の中でも1083年の「熊野本宮記」に記す古くて有名な王子社。
0
11/11 9:04
岩代王子跡
熊野九十九社の中でも1083年の「熊野本宮記」に記す古くて有名な王子社。
岩代王子跡
現在の本殿は安永5年(1776)に再建されたもので、熊野九十九王子社の本殿の中でも、切目(きりめ)、三鍋(みなべ)王子社と共に古い建造物です。
0
11/11 9:05
岩代王子跡
現在の本殿は安永5年(1776)に再建されたもので、熊野九十九王子社の本殿の中でも、切目(きりめ)、三鍋(みなべ)王子社と共に古い建造物です。
JR岩代駅
0
11/11 9:09
JR岩代駅
梅干し干し
古道の道沿いにあったビニールハウスには多くの梅が干してありました。
0
11/11 9:46
梅干し干し
古道の道沿いにあったビニールハウスには多くの梅が干してありました。
千里王子跡
桓武天皇が廷暦年問(782〜806)に鎮座したと伝えられている千里王子神社。
0
11/11 10:05
千里王子跡
桓武天皇が廷暦年問(782〜806)に鎮座したと伝えられている千里王子神社。
千里王子跡
千里王子の歴史は桓武天皇が廷暦年問(782〜806)に創建されたと伝えられています。花山法皇が熊野参詣の際に立ち寄られたという逸話もあります。
0
11/11 10:06
千里王子跡
千里王子の歴史は桓武天皇が廷暦年問(782〜806)に創建されたと伝えられています。花山法皇が熊野参詣の際に立ち寄られたという逸話もあります。
千里海岸
千里王子の前の海岸です。
0
11/11 10:12
千里海岸
千里王子の前の海岸です。
千里観音
本尊は、厄除け観音として名高い馬頭観音。明治7年に神仏分離の命により、千里王子神社より分祀されました。
0
11/11 10:13
千里観音
本尊は、厄除け観音として名高い馬頭観音。明治7年に神仏分離の命により、千里王子神社より分祀されました。
千里観音
近西国三十三箇所札所のひとつで、参道には三十三体の石造観音が祀られています。
0
11/11 10:14
千里観音
近西国三十三箇所札所のひとつで、参道には三十三体の石造観音が祀られています。
南部峠の石造地蔵菩薩像
南部峠は熊野古道の要地で、峠を往来する人々はこの地蔵にお祈り捧げました。
0
11/11 10:38
南部峠の石造地蔵菩薩像
南部峠は熊野古道の要地で、峠を往来する人々はこの地蔵にお祈り捧げました。
丹河地蔵堂(丹川地蔵尊)のイチョウ
環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/4. 30m、樹高/20m。 推定樹齢/約300年
小さな地蔵堂境内をイチョウの巨樹が覆い被さっています。
0
11/11 11:23
丹河地蔵堂(丹川地蔵尊)のイチョウ
環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/4. 30m、樹高/20m。 推定樹齢/約300年
小さな地蔵堂境内をイチョウの巨樹が覆い被さっています。
三鍋王子跡
熊野九十九王子社の一社で、建仁元年(1201)、後鳥羽上皇が当社に参詣の砌りに、絹6疋・綿150両・馬3疋を奉納したほどの大社です。
0
11/11 11:27
三鍋王子跡
熊野九十九王子社の一社で、建仁元年(1201)、後鳥羽上皇が当社に参詣の砌りに、絹6疋・綿150両・馬3疋を奉納したほどの大社です。
三鍋王子跡
明治10年に鹿島神社に合祀されるまで南部三社の一つと称せられていました。
0
11/11 11:27
三鍋王子跡
明治10年に鹿島神社に合祀されるまで南部三社の一つと称せられていました。
JR南部駅
0
11/11 11:41
JR南部駅
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
海の上に浮かぶひょっこりひょうたん島のような無人島の「鹿島」にある鹿島神社をこの地にもってきたそうです。
0
11/11 11:52
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
海の上に浮かぶひょっこりひょうたん島のような無人島の「鹿島」にある鹿島神社をこの地にもってきたそうです。
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
「鹿島」はみなべ町を津波から三度も救った神の島だそうです。
0
11/11 11:53
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
「鹿島」はみなべ町を津波から三度も救った神の島だそうです。
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
0
11/11 11:55
鹿島神社(みなべ鹿島えびす)
芳養王子跡
藤原宗忠が天仁2年(1109)10月に参詣したと日記「中右記」に記すなど、多くの文献に名が残る王子です。
0
11/11 13:03
芳養王子跡
藤原宗忠が天仁2年(1109)10月に参詣したと日記「中右記」に記すなど、多くの文献に名が残る王子です。
芳養王子跡
現在芳養王子跡は、大神社となっています。
0
11/11 13:03
芳養王子跡
現在芳養王子跡は、大神社となっています。
芳養一里塚 跡
0
11/11 13:19
芳養一里塚 跡
牛ノ鼻聖徳地蔵
0
11/11 13:24
牛ノ鼻聖徳地蔵
潮垢離浜跡史跡
熊野詣での巡礼者は田辺市江川の浜で「潮垢離」をして身を清め、山岳路の中辺路ルートに進みました。
0
11/11 13:55
潮垢離浜跡史跡
熊野詣での巡礼者は田辺市江川の浜で「潮垢離」をして身を清め、山岳路の中辺路ルートに進みました。
出立王子跡
0
11/11 14:04
出立王子跡
出立王子跡
出立王子の鎮座地は特定できませんが、龍泉寺のすぐそばの田辺第三小学校に向かう坂道の途中に小祠が祀られています。
0
11/11 14:04
出立王子跡
出立王子の鎮座地は特定できませんが、龍泉寺のすぐそばの田辺第三小学校に向かう坂道の途中に小祠が祀られています。
田辺城 水門跡
元和5年(1619年)安藤直次によって築かれた。
和歌山に入部した徳川頼宣の付家老で、田辺三万石を賜り田辺城を築いた。
0
11/11 14:15
田辺城 水門跡
元和5年(1619年)安藤直次によって築かれた。
和歌山に入部した徳川頼宣の付家老で、田辺三万石を賜り田辺城を築いた。
田辺城 水門跡
明治初年に廃城となり城郭は解体され、その後、堀も埋められました。今では、会津川に面した水門跡がわずかに昔の面影を残しています。
0
11/11 14:17
田辺城 水門跡
明治初年に廃城となり城郭は解体され、その後、堀も埋められました。今では、会津川に面した水門跡がわずかに昔の面影を残しています。
道分け石
紀伊路 大辺路 中辺路 この3つの道路標識です
0
11/11 14:35
道分け石
紀伊路 大辺路 中辺路 この3つの道路標識です
鬪雞神社
社伝によると允恭天皇8年(419年)に創建。
白河天皇の時代(1073~1087)に熊野三所権現を勧請し、熊野参詣の折には鬪雞神社に参拝して心願成就を祈願したと言います。
0
11/11 14:48
鬪雞神社
社伝によると允恭天皇8年(419年)に創建。
白河天皇の時代(1073~1087)に熊野三所権現を勧請し、熊野参詣の折には鬪雞神社に参拝して心願成就を祈願したと言います。
鬪雞神社
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の別宮的存在として熊野信仰の一翼を担っていました。
社殿は熊野本宮大社が川の増水で流失する以前と同じ配置をしており、熊野信仰の歴史をいまに伝える貴重な場所です。
0
11/11 14:51
鬪雞神社
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の別宮的存在として熊野信仰の一翼を担っていました。
社殿は熊野本宮大社が川の増水で流失する以前と同じ配置をしており、熊野信仰の歴史をいまに伝える貴重な場所です。
鬪雞神社
境内の武蔵坊弁慶と熊野別当湛増の像
0
11/11 14:51
鬪雞神社
境内の武蔵坊弁慶と熊野別当湛増の像
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する