吉田城(愛知県豊橋市)



- GPS
- 01:52
- 距離
- 5.5km
- 登り
- 13m
- 下り
- 4m
過去天気図(気象庁) | 2022年12月の天気図 |
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アクセス |
写真
江戸時代の諸藩は,優秀な人材養成のため,藩士の子弟を教育をするために藩校をもった。吉田藩校時習館は,藩主松平信復によって1752年(宝暦2)に創設された。三河地方では最も早く設立された藩校で,尾張・三河両国をあわせても,尾張藩校の明倫堂(現愛知県立明和高等学校の前身)に次いで二番目の藩校である。時習館は,現在の国道一号に面した豊橋市公会堂辺りに,敷地1400坪・建物93坪で設置された。廃藩置県後の1872年(明治5)に廃校となり,その後,私立補習学校時習館をへて,豊橋尋常中学時習館として復興した。その後,移転・改称をへて,1946年(昭和21),富本(とみもと)町に移転し,愛知県立時習館高等学校として今日に至っている
1869年(明治2年)最後の城主大河内信古は版籍奉還を受け入れ、新政府から藩名替えを命ぜられて吉田改豊橋藩知事となります。それ以降、城郭や武家屋敷などは官公庁用地として利用されました。
1884年(明治18年)吉田城址は歩兵第18聯隊の屯営となり、1945年(昭和20年)第二次世界大戦終結まで陸軍省の用地として、普段は一般人の入場はできませんでした。1949年に豊橋公園として一般に開放されました。
吉田城北側に流れる豊川の対岸(下地町)方面から撮影。写真右手の櫓は川手櫓で、その後ろ(南側)にあった鉄櫓はすでに解体されたのか写っていない。江戸時代には、河岸から吉田城を見れば、川手櫓と鉄櫓が重なり、鉄櫓は天守としての勇姿を見せたと思われる。写真左は入道櫓。
1564年の徳川家康による吉田城攻めの様子を描いた時のもの。吉田城は櫓や石垣で描かれていますが、当時は土塁や塀のみの城でした。
争乱に明け暮れた吉田城にピリオドを打ったのは岡崎城を本拠とする松平家康でした。家康は1565年今川方の城代小原鎮実の守る吉田城を攻略し信頼のおける重鎮酒井忠次を吉田城主に置きます。忠次の夫人は家康の叔母碓井姫で、家康の家臣で城が与えられたのは忠次が初めてでした。
吉田の地は西に対する備えのため、豊川に橋がありませんでしたが、1570年関屋口に土橋を作りました。これが吉田橋の始まりです。
写真は1575年長篠の戦いの後信長に「背に目を持つごとし」と賞賛され授かった物。白色の皮に裏地は朱色の絹地、見返しは草花模様の金襴、裾に赤黒の亀甲の織田家の家紋が描かれています。お洒落なデザインは信長の好みとされています
一向一揆では家康に刃向かった半之丞だが、帰参を許された後は三河武士団の一人として活躍した。1564年の夏には吉田城攻めに参加し、本多平八郎忠勝と一番鑓の功を争い、河井正徳の鉄砲に顔面を撃ち抜かれ最後を飾ることになった。同時に半之丞の刀は正徳の片足を根元から切り落とす相打ちを決めており、家康にも、母親にも自分が敵よりも長く生きていたことを宣言して三河武士の意地を示したそうである。 〜「家康の足跡IN東海」より引用いたしました。
ただし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣をとりながらも、背後からも川を渡られ、本丸を直接攻撃されやすいことにありました。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く堅固なものとしてその弱点を補っています。吉田城の範囲は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手(かねんて)町から呉服町、西は関屋町に達し、東西約1400メートル、南北約600メートル、城郭規模は内部で84ヘクタールに及ぶ広大なものでした。
現在建っている鉄櫓は戦後(1954年)に豊橋公園で開催された豊橋産業文化大博覧会に併せて模擬再建されたものです。
この絵図は1684から87年の間に描かれたものと推定されています。黄色は表御殿、紅色は勝手口と色で塗り分け、空き地は白色としています。周囲は掛塀と土塀で取り囲まれており、二の丸の中でも他と区別されていました。
吉田城本丸御殿は、この建物(鉄櫓)の南側の広場にありました。1622年に完成したものとみられ、その後80年を経た1707年の大地震で倒壊しました。本丸御殿はこれ以降を再建されませんでした。
これらの刻印は大阪城や名古屋城などにもあり、築城工事を分担した大名と家臣らの印であると思われます。吉田城の石垣は名古屋城創設後の残石を転用したものです。
1707年の大地震では二の丸から三の丸に至る建物・櫓・門を始め石垣、土塀が破壊されました。本絵図はその破損箇所を朱線により示し、被害状況を詳細に記入し、幕府に報告した絵図の控えです。本丸御殿が描かれていますが、この地震で倒壊し、以後再建される事はありませんでした。
船町は吉田24町の西北端に位置し吉田川の下流に臨む町です。古くは四ツ屋と呼ばれ、河原と同様の荒地でしたが、浅井与次右衛門の一族が開発し、1590年に当時の城主池田輝政による城下の整備の際に船町と改められました。
1600年の関ヶ原の戦いの時に徳川方に加担して船を出した代償として、以後船町は船役を務めることになり、代わって街道の宿駅で公的な貨客輸送を行うための伝馬役が免除されました。
田町は船町の東に東西に続く町で、1688年には道幅が約6メートルあり、4750年の記録では戸数76軒、人口356人、伝馬約100のうち7匹を負担していました。
藩士の居住地域であった武家屋敷は12の小路で街が形成されていました。足軽の屋敷は、武家屋敷とは塀と堀で区別された城外の東西二箇所に配置されていました。
吉田の宿は東海道ができた当初からの宿場で、江戸日本橋から34番目の位置にあります。宿は東海道沿いの町を表町12町、東海道の南にある街を裏町12町といい、計24町で構成していました。表町には本陣が2件、脇本陣が1軒、旗籠屋は65件(1802年の記録)ありました。宿場町の戸数は約1000軒で人口は5000から7000人ほどでした。吉田宿の中心は本陣があった札木町でした。
街道は東から吉田城東惣門の南を通過し、吉田町の総堀に沿って続き、吉田城西惣門西側を北上し、幕府直轄の橋である吉田大橋で豊川を渡り、下地へとつながっていました。軍事上の観点から曲尺手町と言う町名が今なお残っているように曲がり角が多く作られた宿場町でした。
祭りも多く、天王祭の立物花火、鬼祭り、おんぞ祭りは吉田の3大祭りと言われました。
また飯盛女が多かったことでも知られて、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」などの歌が広く知られています。
感想
【城名】吉田城(愛知県豊橋市)
【別名】今橋城
【場所】愛知県豊橋市今橋町(豊橋公園)
【形式】平城
【地目】公園
【立地】ーー
【標高(比高)】10m(-m)
【規模】ーー
【時代】明応5年(1496年)〜明治2年(1869年)
【築城】牧野古白(成時)、池田輝政(照政)
【城主】牧野古白(成時)、戸田憲光、、牧野成三、牧野伝蔵信成、牧野成敏、大原知尚、戸田金七郎宣成、酒井忠次・家次、池田照政、松平(竹谷)家清・忠清、松平(深溝)忠利・忠房、水野忠清、水野忠善、小笠原忠知・長矩・長祐・長重、久世重之、牧野成春・成央、松平(大河内)信祝、松平(本庄)資訓、松平(大河内)信復・信札・信順・信宝・信璋・信古
【遺構他】石垣、土塁、曲輪、堀
【訪城日】2022年12月24日
【訪城時間】1時間53分01秒
【備考】ーー
【歴史】吉田城は1505年に牧野古白が今橋城として築きました。この頃ヨーロッパではルネサンスや宗教改革が行われ、アメリカ大陸ではスペインがインカ帝国を滅ぼした頃で、アメリカ合衆国はまだありませんでした。
この地域は軍事、経済的に東三河地方の重要な地理的位置にありました。その為吉田城の争奪戦が繰り返されました。城主も目まぐるしく代わり、名称も今橋城から吉田城に改められました。
1564年に松平家康は吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置き、酒井は25年間城主を務めました。
※ネットで検索してみると家康の吉田城攻めの年が永禄7年(1564年)とされているものと永禄8年(1565年)とされているものと2説あります。ちなみに当日鉄櫓でいただいた印刷された豊橋市文化財センター発行のパンフレット(令和4年3月31日再訂)には1565年とありますが、同じところのウェブページでは1564年とあります。→これについて当該センターに問い合わせたところ本稿末尾記載ような丁寧な回答がありました。ありがとうございました。
1590年に池田輝政(当時は照政)が入城し、11年に渡り城主を務めました。池田は吉田城を近代城郭として改修し、城下町を整備しましたが、1600年の関ヶ原合戦の後に姫路に国替えとなります。そこで、池田が日本の国宝になった姫路城を築いたことは知られています。
徳川幕府成立後に、22代の譜代大名が吉田を支配し、吉田城主になることが出世の登竜門とも言われていました。
吉田城は明治維新を迎え1873年の廃城令によって取り壊しになりました。その跡地に1885年(明治18年)に日本陸軍名古屋鎮台の歩兵第18連隊が置かれました。1945年の敗戦後この地は豊橋公園として整備されて現在に至っています。
【概要】吉田城は永正2年(1505年)に築城されたとされる今橋城が後に改名された城で、池田輝政が城主の時代に大きく整備・拡張された。戦国時代には軍事、経済、交通の要として三河の重要拠点でした。
吉田城には天守はないと言われていましたが、数ある吉田城図の中で本丸鉄櫓を「天守」と書かれた絵図面が少なくとも7点は確認されています。城郭研究者の中には鉄櫓は、天守であると言われる方も少なくありません。それは香川県の丸亀城天守等と構造が類似していることや、四方に窓があり本丸御殿も見下ろせることなどからです。鉄櫓は実質的に天守であるが、(幕府に遠慮して)天守とは呼ばれていなかっただけのようです。鉄櫓の高さは15メートル、石垣は9メートル、その最下部に川手三重櫓が建ち、吉田大橋や対岸から見る鉄櫓は高さ30メートル余りの「五重天守」として勇姿を誇っていました。
【訪城記録】
翌25日の大井川河川敷のランニングコースで開催されるマラソン大会出場のため前泊するついでに訪城。
四日市駅を過ぎてから雪が舞い始め、桑名駅に着く頃にはすっかり雪化粧して10cmくらいの積雪。道路も白いところが目立っている。
鉄道もダイヤが乱れて名古屋から乗車した名鉄の特急も20分以上の遅れ、しかも説明はなかったが、豊橋駅の2つ手前の国府駅止まりとなり、寒風吹き荒ぶ中待たされた後急行に乗り換えて11:00過ぎようやく豊橋駅に着く。
駅ビルの開明軒で定食を食べて清源寺砦跡に向かう。砦との関係は不明ながら清源寺を経由して砦跡とされる城海津交差点で写真を撮る。遺構はない。
ついで喜見寺(きけんじ)砦跡に向かう。ここも遺構はない。砦は喜見寺の南50mほどに砦はあったとされるが、今は店舗・住宅地にかわっているとのことである。喜見寺の写真を撮って吉田城に向かう。
鉄櫓(くろがねやぐら)で配布されている冊子『吉田城』(愛知県豊橋市教育委員会 豊橋市文化財センター編集・発行)によると吉田城は全国でも十指に入る巨大城郭だったそう。
趣のあるたたずまいの豊橋市公会堂東を北に進むと吉田城跡にできた吉田公園の入り口。入口の両脇に東西に伸びる三の丸土塁が残る。旧三の丸南西に市役所、北西に豊橋中学校東に美術博物館がある。三の丸口が公園入り口で東側の石垣に巨石が1つ使われている。
二の丸土塁にあった評定櫓跡や着到櫓跡を過ぎて二の丸跡に入る。二の丸土塁の内側を6時の方向から反時計回りに3時方向に周って、東側から本丸に入る。本丸周囲には深い内堀が残り、内堀の本丸側には石垣が四方を囲む。
天守は最初からなかったようでかつては本丸の四隅に櫓が建っていた。そのうち昭和29年に再建された西北隅の鉄櫓(くろがねやぐら)が実質的な天守だったとのこと。
本丸の北縁を豊川が流れていて、いわゆる「後ろ堅固の城」と言われる縄張りとなっている。この背水の陣となる縄張りは逃げ場がない点と舟で攻められる恐れがあるという点が弱点となる。
鉄櫓は入館無料。さまざまな絵図による解説、天守模型、城主で徳川四天王筆頭の酒井忠次が長篠の戦い後織田信長から贈られた陣羽織のレプリカなど展示。最上階は展望台。
北多門から鉄櫓北側の豊川左岸近くに降りる。鉄櫓を見上げると石垣に迫り出した形になっている「石落とし」がある。
見残し
水門、金柑丸(馬出し)、土橋
【豊橋市文化財センターご回答】
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■参考1■
パンフレットの記載について
【旧パンフレット】平成22年発行・平成27年改訂
(前略)永禄7年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、酒井忠次を吉田城主においた。
【新パンフレット】令和4年再訂
(前略)永禄8年(1565)に松平(徳川)家康が今川方の吉田城代・小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、重臣である酒井忠次を城主とした。
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■参考2■
松平(徳川)家康による吉田城支配までの流れについて。
【家康による吉田攻めの端緒】
パンフレットでは紙幅の都合で省略していますが、松平家康が初めて吉田の地を攻めたのは、永禄5年(1562)とされています(これ以前にも、援軍と考えられる出陣を行っています)。さらに翌年にも吉田攻めを行っていますが、西三河で一向一揆が起こり撤退を余儀なくされるなど、吉田支配には至っていません。
【永禄7年(1564)の出来事】
家康は再度、吉田を攻めます。この年の戦いを家康は有利に進め、在地勢力を傘下におさめ、周囲に砦を築き、守りを固めるなど、吉田地域の攻略が着実に進んでいったことが分かります。実際この年には、酒井忠次に吉田の地を与えることを約束した古文書が残されています。
ただし注意すべきは、この年には今川氏の城代は吉田城を退去していない点です。これは、家康による吉田城攻略は成し遂げられてはいなかったことを意味します。
【永禄8年(1565)の出来事】
その後、家康は吉田城を9ヶ月にわたり兵糧攻めにしたとされます。最終的に、家康は今川方の吉田城代、大原資良に和談を持ちかけ、条件を呑んだ今川方は永禄8年3月に吉田城を退去したとされます。よって家康が最終的に吉田城を攻略し、酒井忠次が吉田城に入城するのは、この年のこととなります。
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■上記を踏まえたご回答■
【旧パンフレット】にある「永禄7年(1564)に松平家康が吉田城を攻めた」ことは、事実としては間違いありませんが、酒井忠次が城主となった年は、厳密には異なってしまいます。また家康が吉田地域に兵を送った端緒は、さらにさかのぼった年の出来事となってしまいます。この時代の出来事には断片的な記録も多く、詳細が分からない事象が多いという問題もあります。
そうした中、近年の傾向として、来訪者の方は「城主となった年」を気にかけられることが多いです。このため【新パンフレット】では、家康が最終的に吉田城を攻略し、酒井忠次が吉田城主となった永禄8年(1565)に寄せた表記としています。こうした前後関係については、パンフレット裏面の『吉田城関連略年表』に示しておりますので、併せてご確認頂けますと幸いです。
今後とも、よろしくお願い致します。
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