記録ID: 5104785
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ハイキング
京都・北摂
地下鉄椥辻〜山科の名所旧跡[奈良街道/旧東海道線/妙見道]〜地下鉄東野
2023年01月20日(金) [日帰り]

体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:35
- 距離
- 7.7km
- 登り
- 59m
- 下り
- 42m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 2:35
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 2:35
距離 7.7km
登り 59m
下り 57m
13:20
155分
スタート地点
15:55
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2023年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
しかし、通り過ぎてしまった(-_-;)
大宅一里塚
(京都史跡登録)
一六〇四 (慶長九)年に、徳川家康が主要な街道の両側に一里ご とに塚を盛り、大きなエノキを植えて、通行者に距離と位置が分かるように整備させたと『徳川実紀』 にあります。『東海道宿村大概帳』 (江戸末期)には大宅の一里塚に エノキが立っていることが記されています。 市内の一里塚が消滅し現在、江戸時代の交通関連の遺構として価値が高く貴重なもので、地域の有志の方々が「保存会」を 結成し、再整備されました。
(山科検定テキスト)
大宅一里塚
(京都史跡登録)
一六〇四 (慶長九)年に、徳川家康が主要な街道の両側に一里ご とに塚を盛り、大きなエノキを植えて、通行者に距離と位置が分かるように整備させたと『徳川実紀』 にあります。『東海道宿村大概帳』 (江戸末期)には大宅の一里塚に エノキが立っていることが記されています。 市内の一里塚が消滅し現在、江戸時代の交通関連の遺構として価値が高く貴重なもので、地域の有志の方々が「保存会」を 結成し、再整備されました。
(山科検定テキスト)
引っ越ししてきた寺
寺といえば、昔からその場所にあるイメージが強いですが、 大宅奥山田の「歓喜光寺」は、一九七五(昭和五〇)年、東山五条より山科に移転してきた寺です。 その本堂は、移転に際し一旦解体され、現在地に忠実に復元されており、一九八三(昭和五八年)には京都府の指定文化財となってます。また、京都市指定文化財である阿弥衣は、時宗独特の法衣です。
(山科検定テキスト)
寺といえば、昔からその場所にあるイメージが強いですが、 大宅奥山田の「歓喜光寺」は、一九七五(昭和五〇)年、東山五条より山科に移転してきた寺です。 その本堂は、移転に際し一旦解体され、現在地に忠実に復元されており、一九八三(昭和五八年)には京都府の指定文化財となってます。また、京都市指定文化財である阿弥衣は、時宗独特の法衣です。
(山科検定テキスト)
”山の神”を探しますが手掛かりなし(-_-;)
山の神 (小野)
小野地域の山の神の祭りは昭和三〇年代まで続いていました。 毎 年正月四日に御幣をつけた竹を手にして餅を持ち寄り、神木の杉の巨木をお祀りします。時代ととも に炭焼きや薪採りなどで日常、山に入る機会も少なくなり、祀りも 細々となっていました。
近年、小野地域の有志の方々の手によって復興されました。神木の杉の巨木は、エコランド音羽の村入口の東側にあり、区民誇りの木になっています。
(山科検定テキスト)
見えるのは京都橘大学。
山の神 (小野)
小野地域の山の神の祭りは昭和三〇年代まで続いていました。 毎 年正月四日に御幣をつけた竹を手にして餅を持ち寄り、神木の杉の巨木をお祀りします。時代ととも に炭焼きや薪採りなどで日常、山に入る機会も少なくなり、祀りも 細々となっていました。
近年、小野地域の有志の方々の手によって復興されました。神木の杉の巨木は、エコランド音羽の村入口の東側にあり、区民誇りの木になっています。
(山科検定テキスト)
見えるのは京都橘大学。
岩屋神社一の鳥居
岩屋神社
岩屋神社は、宇多天皇時代(八八七~八九七年)の創建とされ、 天忍穂耳命・栲幡千々姫命と、その息子である饒速日命の三柱が祭神として祀られています。
本殿の背後の行者ヶ森の中腹の「奥の院」に陰岩・陽岩と称する 巨岩があり、この神域を「岩屋殿」と呼んでいます。今のような神社がなかった時代の岩座信仰の 名残といえます。社伝によれば岩座信仰は仁徳天皇三一年からと伝えられています。
(山科検定のテキスト)
岩屋神社
岩屋神社は、宇多天皇時代(八八七~八九七年)の創建とされ、 天忍穂耳命・栲幡千々姫命と、その息子である饒速日命の三柱が祭神として祀られています。
本殿の背後の行者ヶ森の中腹の「奥の院」に陰岩・陽岩と称する 巨岩があり、この神域を「岩屋殿」と呼んでいます。今のような神社がなかった時代の岩座信仰の 名残といえます。社伝によれば岩座信仰は仁徳天皇三一年からと伝えられています。
(山科検定のテキスト)
旧東海道線(引上げ線)線路下トンネル跡
旧東海道線の山科駅(現在の小 野小学校北側付近)から大谷駅 (現在の京阪大谷駅付近)の間は、 上り方向に向かって急な上り勾配 が続いており、当時の時刻表によ れば、汽車は下りの一〇分に対し、上りは一七分も時間を要していま した。
一九一三 (大正二)年、東海道線の列車本数増加による、線路容量不足を緩和するため、大塚地域に「大塚信号所」が設置されまし た。信号所には、スイッチバック 式の引上げ線が設けられました。 妙見寺の南にある大鳥居の奥の東側に、煉瓦づくりの壁面がありますが、これは引上げ線の線路下にあったトンネルの入口跡と伝えられており、当時の痕跡を残す貴重な物といえます。
(山科検定のテキスト)
旧東海道線の山科駅(現在の小 野小学校北側付近)から大谷駅 (現在の京阪大谷駅付近)の間は、 上り方向に向かって急な上り勾配 が続いており、当時の時刻表によ れば、汽車は下りの一〇分に対し、上りは一七分も時間を要していま した。
一九一三 (大正二)年、東海道線の列車本数増加による、線路容量不足を緩和するため、大塚地域に「大塚信号所」が設置されまし た。信号所には、スイッチバック 式の引上げ線が設けられました。 妙見寺の南にある大鳥居の奥の東側に、煉瓦づくりの壁面がありますが、これは引上げ線の線路下にあったトンネルの入口跡と伝えられており、当時の痕跡を残す貴重な物といえます。
(山科検定のテキスト)
妙見寺
山門不幸。
中に入れませんでした(-_-;)
妙見寺・妙見大菩薩
日蓮宗護法山妙見寺は、江戸時代中期に妙見信仰で賑わった所で す。「妙見信仰」の原型は、北辰あるいは北斗七星を神格化した妙見大菩薩で、その姿は玄武 (空想上の亀=北を意味する) に乗っているものが多く、平安遷都にあたって、都の四方を守護する意味で、東西南北に四つの妙見寺が建立されたと いわれています。北は船山の霊巌寺 (現存せず)、東は山科大塚の妙見寺とされています(西・南は不明)。
(山科検定テキスト)
山門不幸。
中に入れませんでした(-_-;)
妙見寺・妙見大菩薩
日蓮宗護法山妙見寺は、江戸時代中期に妙見信仰で賑わった所で す。「妙見信仰」の原型は、北辰あるいは北斗七星を神格化した妙見大菩薩で、その姿は玄武 (空想上の亀=北を意味する) に乗っているものが多く、平安遷都にあたって、都の四方を守護する意味で、東西南北に四つの妙見寺が建立されたと いわれています。北は船山の霊巌寺 (現存せず)、東は山科大塚の妙見寺とされています(西・南は不明)。
(山科検定テキスト)
国道一号を横切り新幹線の下を通り抜けると西側の塚の上に大きな松の古株が祀ってあります。 この地には、直径二〇mほどの円墳があり、大塚・王塚・皇塚などと呼ばれ、六世紀前半ごろのものと推定されますが、原型を留めていません。 「大塚」という地名は、 もとは「御塚村」と称され、この 古墳があることから呼ばれたと伝えられています。この石標は大塚 (王塚皇塚)の跡を示すもので、 東に「皇塚」北に「明治百年記念 四月十三日建之」とあり、南に発起人が記されています。
(山科検定のテキスト)
(山科検定のテキスト)
称名寺と鍬形(鍬痕)観音
称名寺は浄土宗西山禅林派に属し、禅林寺 (永観堂)の末寺です。 寺伝によれば創建は一六六一年、松声上人の開基で称(稱)名寺と名づけられたとのことです。昔から十一面千手観音像は「鍬形(痕) 観音」と呼ばれ信仰されてきました。 その昔、小山地域の十住心院に安置されていた千手観音が、土石流で流されてしまいました。 それが東野で見つかって、一度は元の寺に帰ったそうですが、再び東野まで流されてしまったとのことです。
(山科検定のテキスト)
称名寺は浄土宗西山禅林派に属し、禅林寺 (永観堂)の末寺です。 寺伝によれば創建は一六六一年、松声上人の開基で称(稱)名寺と名づけられたとのことです。昔から十一面千手観音像は「鍬形(痕) 観音」と呼ばれ信仰されてきました。 その昔、小山地域の十住心院に安置されていた千手観音が、土石流で流されてしまいました。 それが東野で見つかって、一度は元の寺に帰ったそうですが、再び東野まで流されてしまったとのことです。
(山科検定のテキスト)
三之宮
三之宮は平安時代前期に三之宮大明神として創建されました。三 九六年に後小松天皇より大般若経六百巻が下賜され、その転読会から山科七郷の結束が強まったといわれています。 七郷の各地で会合が行われ、野村郷 (現在の西野 ・東野)の三之 宮がその中心 的役割を果たしました。 今も宝物庫には、大般若経六百巻が納められています。
(山科検定のテキスト)
三之宮は平安時代前期に三之宮大明神として創建されました。三 九六年に後小松天皇より大般若経六百巻が下賜され、その転読会から山科七郷の結束が強まったといわれています。 七郷の各地で会合が行われ、野村郷 (現在の西野 ・東野)の三之 宮がその中心 的役割を果たしました。 今も宝物庫には、大般若経六百巻が納められています。
(山科検定のテキスト)
撮影機器:
感想
今日も山科散策。
前回チェックできなかった”山の神”、今日も見つけることができなかった(-_-;)
今日の予定コースとは反対に歩き無駄な時間を費やしました。
この辺りはほとんど知らないところばかり、少しづつつながっていくのが面白い。
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