記録ID: 5271993
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ハイキング
近畿
信貴山
2023年03月15日(水) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 05:09
- 距離
- 8.9km
- 登り
- 536m
- 下り
- 535m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年03月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
王子駅から徒歩で登山口に
向かったせいで川近くの住宅街の
行き止まりに悩まされて
橋を渡る為に遠回りして
やっと信貴山下駅前に
着きました、完全に時間も体力もロス。
素直にここまで電車乗り継ぎで
来れば良かったと思いました。
そして、登山口までは登り坂を
ずっと歩きます。
昔は参拝のケーブルカーが
あったのですが
今は廃止されてしまったそうです。
向かったせいで川近くの住宅街の
行き止まりに悩まされて
橋を渡る為に遠回りして
やっと信貴山下駅前に
着きました、完全に時間も体力もロス。
素直にここまで電車乗り継ぎで
来れば良かったと思いました。
そして、登山口までは登り坂を
ずっと歩きます。
昔は参拝のケーブルカーが
あったのですが
今は廃止されてしまったそうです。
毘沙門天様は七福神の1人で
インド人(神)。
ちなみに七福神の神様で
唯一の日本人(神)は恵比寿天様。
以下、引用。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK27028_X21C13A2000000/#:~:text=幸福をもたら%
インド人(神)。
ちなみに七福神の神様で
唯一の日本人(神)は恵比寿天様。
以下、引用。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK27028_X21C13A2000000/#:~:text=幸福をもたら%
頂上下のところに城址の碑が。
石碑によると標高455メートルの雄嶽を
中心に南東から北西に放射線状に
北方には峯に廓がたてられて
海を遡上し東西500メートル
南北に600?(680?碑の数字見えにくく判らず)
そういう規模の要害の山城らしいです。
石碑によると標高455メートルの雄嶽を
中心に南東から北西に放射線状に
北方には峯に廓がたてられて
海を遡上し東西500メートル
南北に600?(680?碑の数字見えにくく判らず)
そういう規模の要害の山城らしいです。
古くは天智天皇が築いた
高安城の一角がこの地域の
はじまりらしいです。
その後中世には砦がたびたび築かれて
楠木正成もここを一時拠点とした
歴史があるそう。
天文5年に河内を治めていた
木沢長政という人がここにはじめて
城を築いて住んだがすぐ亡くなってしまい
永禄はじめに三好長慶家臣の松永家が
支配したそうでその後、ここを足がかりにする
近畿支配を夢見て立派な信貴山城が
築かれたようです。
しかし、10数年後の天正5年に
織田信長に攻められて城は落ち
松永久秀と久通父子が自害して
大名家としての松永家は滅亡。
今に至るそうです。
(この文章は石碑の内容です)
高安城の一角がこの地域の
はじまりらしいです。
その後中世には砦がたびたび築かれて
楠木正成もここを一時拠点とした
歴史があるそう。
天文5年に河内を治めていた
木沢長政という人がここにはじめて
城を築いて住んだがすぐ亡くなってしまい
永禄はじめに三好長慶家臣の松永家が
支配したそうでその後、ここを足がかりにする
近畿支配を夢見て立派な信貴山城が
築かれたようです。
しかし、10数年後の天正5年に
織田信長に攻められて城は落ち
松永久秀と久通父子が自害して
大名家としての松永家は滅亡。
今に至るそうです。
(この文章は石碑の内容です)
少し先を下ると松永家の遺跡があります。
信貴在城衆の1人家臣の
立入勘介さんの邸跡があった
ところと言われているそうです。
説明を読んでると松永家は
重臣何人かによる
合議制で城内の政務を
行っていたみたいですね。
信貴在城衆の1人家臣の
立入勘介さんの邸跡があった
ところと言われているそうです。
説明を読んでると松永家は
重臣何人かによる
合議制で城内の政務を
行っていたみたいですね。
感想
謎の戦国武将の松永久秀が気になり
奈良の信貴山までちょこっと遠征してきました。
歴史あり、山門の寅🐯の振り子?が有名な
朝護孫子寺ありの、おすすめの山です。
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