南海 三日市町駅
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南海 三日市町駅
延命寺への道沿いの川
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延命寺への道沿いの川
延命寺 山門
延命寺は、弘仁年間(810から823年)、弘法大師が一寺を建立し、自ら地蔵菩薩の尊像を刻んで本尊としたのが起こりとされています。
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6/7 9:03
延命寺 山門
延命寺は、弘仁年間(810から823年)、弘法大師が一寺を建立し、自ら地蔵菩薩の尊像を刻んで本尊としたのが起こりとされています。
延命寺
江戸時代に当地に誕生された浄厳和尚が「薬樹山延命寺」として中興されます。浄厳師は五代将軍綱吉公の信任を得て、江戸湯島に「霊雲寺」を開創し、その開山となります。
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6/7 9:06
延命寺
江戸時代に当地に誕生された浄厳和尚が「薬樹山延命寺」として中興されます。浄厳師は五代将軍綱吉公の信任を得て、江戸湯島に「霊雲寺」を開創し、その開山となります。
延命寺の夕照もみじ
弘法大師御手植えと伝えられ、晩秋の夕陽に映える姿が一段と美しいため夕照の楓という。
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延命寺の夕照もみじ
弘法大師御手植えと伝えられ、晩秋の夕陽に映える姿が一段と美しいため夕照の楓という。
延命寺の蓮池
花菖蒲を植えているようです。
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延命寺の蓮池
花菖蒲を植えているようです。
大楠公(楠正成)銅像
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大楠公(楠正成)銅像
観心寺中院
大楠公(楠正成)が8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学んだところです。
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観心寺中院
大楠公(楠正成)が8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学んだところです。
観心寺拝殿
観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていたそうです。
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観心寺拝殿
観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていたそうです。
星塚1 貪狼星
平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。
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星塚1 貪狼星
平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。
星塚2 巨門星
弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。
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6/7 10:10
星塚2 巨門星
弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。
星塚3 禄存星
金堂をとりまく7つの星塚(北斗七星)は、弘法大師が厄除けのために本尊と一緒におまつりしたもので、この星塚を一巡することで、その年の厄が払われると云っています。
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6/7 10:11
星塚3 禄存星
金堂をとりまく7つの星塚(北斗七星)は、弘法大師が厄除けのために本尊と一緒におまつりしたもので、この星塚を一巡することで、その年の厄が払われると云っています。
星塚4 文曲星
貪狼星(子)巨門星(丑亥)禄存星(寅亥)文曲星(卯酉)廉貞星(辰申)武曲星(巳未)破軍星(午)と巡り、鎮守の訶梨帝母天堂で完結。
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6/7 10:12
星塚4 文曲星
貪狼星(子)巨門星(丑亥)禄存星(寅亥)文曲星(卯酉)廉貞星(辰申)武曲星(巳未)破軍星(午)と巡り、鎮守の訶梨帝母天堂で完結。
星塚5 廉貞星
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6/7 10:14
星塚5 廉貞星
星塚6 武曲星
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6/7 10:16
星塚6 武曲星
星塚7 破軍星はぐん
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6/7 10:20
星塚7 破軍星はぐん
楠木正成首塚
1336年(延元3年)5月25日、湊川の合戦で破れた楠木正成は、弟正季と差し違えて自刃した。
正成の首は一度は六条河原に梟首されるが、その後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ首塚として祀られた。
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6/7 10:22
楠木正成首塚
1336年(延元3年)5月25日、湊川の合戦で破れた楠木正成は、弟正季と差し違えて自刃した。
正成の首は一度は六条河原に梟首されるが、その後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ首塚として祀られた。
道興大師御廟
空海の弟子である道興大師の御廟です。
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6/7 10:23
道興大師御廟
空海の弟子である道興大師の御廟です。
新待賢門院(阿野 廉子)墓
後醍醐天皇の側室かつ後村上天皇の国母
阿野廉子の墓所
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6/7 10:26
新待賢門院(阿野 廉子)墓
後醍醐天皇の側室かつ後村上天皇の国母
阿野廉子の墓所
新待賢門院(阿野 廉子)墓
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6/7 10:26
新待賢門院(阿野 廉子)墓
後村上天皇檜尾陵参道
後村上天皇(1328〜1368、享年41歳)は、後醍醐天皇を父に持つ南朝2代、第97代天皇です。
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6/7 10:33
後村上天皇檜尾陵参道
後村上天皇(1328〜1368、享年41歳)は、後醍醐天皇を父に持つ南朝2代、第97代天皇です。
後村上天皇檜尾陵
父後醍醐天皇同様、「反北朝」は徹底していた。幼少から戦塵の中で育ち、歴代天皇の中では珍しい武闘派である。
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6/7 10:38
後村上天皇檜尾陵
父後醍醐天皇同様、「反北朝」は徹底していた。幼少から戦塵の中で育ち、歴代天皇の中では珍しい武闘派である。
後村上天皇檜尾陵
1333年わずか6歳で北畠親房・顕家に擁せられて陸奥へ参戦、東国の武士を統合する。1339年12歳で父後醍醐天皇の後を受け吉野で即位した。
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6/7 10:39
後村上天皇檜尾陵
1333年わずか6歳で北畠親房・顕家に擁せられて陸奥へ参戦、東国の武士を統合する。1339年12歳で父後醍醐天皇の後を受け吉野で即位した。
観心寺建掛塔
楠木正成が建武中興の無事を祈って三重塔を建立しようとしたが湊川で自刃したため初重のみで建築が中断、このような形になったといわれているそうです。
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6/7 10:45
観心寺建掛塔
楠木正成が建武中興の無事を祈って三重塔を建立しようとしたが湊川で自刃したため初重のみで建築が中断、このような形になったといわれているそうです。
金堂と弘法大師礼拝石
弘法大師が礼拝をおこなったとされる大きな石が敷かれています。
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6/7 10:47
金堂と弘法大師礼拝石
弘法大師が礼拝をおこなったとされる大きな石が敷かれています。
訶梨帝母天堂
弘法大師が勧請された観心寺の鎮守堂だそうです。春日造、桧皮葺の建物で後村上天皇の命によって楠木正行が修理したそうです。
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6/7 10:49
訶梨帝母天堂
弘法大師が勧請された観心寺の鎮守堂だそうです。春日造、桧皮葺の建物で後村上天皇の命によって楠木正行が修理したそうです。
訶梨帝母天堂
慶長19年(1614)豊臣秀頼の命により片桐且元修理の棟札が残存しているそうです。
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6/7 10:49
訶梨帝母天堂
慶長19年(1614)豊臣秀頼の命により片桐且元修理の棟札が残存しているそうです。
後村上天皇御旧跡
後村上天皇が正平14年(1357)12月から翌年9月まで行宮としたところだそうです。
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6/7 10:51
後村上天皇御旧跡
後村上天皇が正平14年(1357)12月から翌年9月まで行宮としたところだそうです。
後村上天皇御旧跡
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6/7 10:51
後村上天皇御旧跡
檜尾塚陵墓参考地
陵墓参考地という名前の通り、皇族ゆかりの陵墓とされていますが、被葬者は分かっていません。
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6/7 11:10
檜尾塚陵墓参考地
陵墓参考地という名前の通り、皇族ゆかりの陵墓とされていますが、被葬者は分かっていません。
檜尾塚陵墓参考地
ただ、阿野廉子もしくは長慶天皇の陵墓との説があります。
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6/7 11:11
檜尾塚陵墓参考地
ただ、阿野廉子もしくは長慶天皇の陵墓との説があります。
檜尾塚陵墓参考地
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檜尾塚陵墓参考地
楠妣庵観音寺
楠木正成の妻で、正行(まさつら)の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔ったところです。
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6/7 11:41
楠妣庵観音寺
楠木正成の妻で、正行(まさつら)の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔ったところです。
楠妣庵門前の母子像
久子は「敗鏡尼」を名乗り、楠妣庵(なんぴあん)を建てたといわれています。
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6/7 11:41
楠妣庵門前の母子像
久子は「敗鏡尼」を名乗り、楠妣庵(なんぴあん)を建てたといわれています。
楠妣庵門前の楠公象
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6/7 11:43
楠妣庵門前の楠公象
この地には正行が建てた観音殿もあり、弟・正儀が敗鏡尼の没後に「観音寺」と改めて、一族の菩提寺としました。その後、観音寺、楠妣庵ともに兵火によって焼失しましたが、大正6年(1917)に楠妣庵が再興し、次いで観音寺も再建されました。
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6/7 11:45
この地には正行が建てた観音殿もあり、弟・正儀が敗鏡尼の没後に「観音寺」と改めて、一族の菩提寺としました。その後、観音寺、楠妣庵ともに兵火によって焼失しましたが、大正6年(1917)に楠妣庵が再興し、次いで観音寺も再建されました。
楠妣庵
楠木正成の正室久子が隠棲した草庵
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6/7 11:47
楠妣庵
楠木正成の正室久子が隠棲した草庵
敗鏡尼の墓?
この地は敗鏡尼の故郷でもあり、境内にある石造りの五輪塔は、その墓とも伝えられています。
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6/7 11:47
敗鏡尼の墓?
この地は敗鏡尼の故郷でもあり、境内にある石造りの五輪塔は、その墓とも伝えられています。
楠母神社跡
大阪府南河内郡東条村字甘南備小字矢佐利(現富田林市甘南備)は楠木正成夫人の久子の誕生地と伝わり、
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6/7 12:02
楠母神社跡
大阪府南河内郡東条村字甘南備小字矢佐利(現富田林市甘南備)は楠木正成夫人の久子の誕生地と伝わり、
楠母神社跡
この地にかっては楠木久子を祭神としたその名も「楠母神社」という神社が存在した。
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6/7 12:06
楠母神社跡
この地にかっては楠木久子を祭神としたその名も「楠母神社」という神社が存在した。
楠母神社跡
神社の管理に当たっていた人に後継者がなく、今から30年ほど前に廃社となり、取り壊されてしまった。
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6/7 12:06
楠母神社跡
神社の管理に当たっていた人に後継者がなく、今から30年ほど前に廃社となり、取り壊されてしまった。
甘南備城跡
富田林市甘南備1660周辺一帯が甘南備城であったと考えられる。明治以前は式内咸古佐備神社が在った場所で、「尾上垣内」・「城之越」「ドイ」などの小字名が残ります。
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6/7 12:28
甘南備城跡
富田林市甘南備1660周辺一帯が甘南備城であったと考えられる。明治以前は式内咸古佐備神社が在った場所で、「尾上垣内」・「城之越」「ドイ」などの小字名が残ります。
甘南備城跡
寛正年間の嶽山合戦のさい畠山政長によって築かれた金胎寺城の向城、または永禄三年(1560)三好勢によって築かれた向城の可能性が高い。
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6/7 12:28
甘南備城跡
寛正年間の嶽山合戦のさい畠山政長によって築かれた金胎寺城の向城、または永禄三年(1560)三好勢によって築かれた向城の可能性が高い。
甘南備城跡から見た嶽山
南北朝時代には、楠木正成が嶽山城を築いた場所で、一時の城には正成の子、正儀がたてこもり、北朝方は今の廿山のあたりに陣をとっていた。
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6/7 12:28
甘南備城跡から見た嶽山
南北朝時代には、楠木正成が嶽山城を築いた場所で、一時の城には正成の子、正儀がたてこもり、北朝方は今の廿山のあたりに陣をとっていた。
龍泉寺 仁王門
本柱の前後4本の控柱で門を支えるという構造になっており、八脚門と呼ばれる古来の一般的な形式の門ですが、現存のものは珍しいです。
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6/7 13:06
龍泉寺 仁王門
本柱の前後4本の控柱で門を支えるという構造になっており、八脚門と呼ばれる古来の一般的な形式の門ですが、現存のものは珍しいです。
龍泉寺 大日如来堂
佐備川の東側の山の中腹にある高野山真言宗の寺院。
推古天皇の御代、聖徳太子と蘇我馬子が勅命によって594年に建立したという大阪府内屈指の古刹。
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6/7 13:07
龍泉寺 大日如来堂
佐備川の東側の山の中腹にある高野山真言宗の寺院。
推古天皇の御代、聖徳太子と蘇我馬子が勅命によって594年に建立したという大阪府内屈指の古刹。
伝尊性法親王御墓
「後醍醐天皇皇子尊性法親王が天皇御二十五年忌に当り大和国塔尾陵に詣厨る路すがら当寺に於いて逝去せられた。
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6/7 13:07
伝尊性法親王御墓
「後醍醐天皇皇子尊性法親王が天皇御二十五年忌に当り大和国塔尾陵に詣厨る路すがら当寺に於いて逝去せられた。
伝尊性法親王御墓
深慮の御遺戒により随身等身分を明かさずただ尊性として葬り里人御墓を崇め(シガサン)として大祭を相伝え今に至る」(現地説明板)
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6/7 13:08
伝尊性法親王御墓
深慮の御遺戒により随身等身分を明かさずただ尊性として葬り里人御墓を崇め(シガサン)として大祭を相伝え今に至る」(現地説明板)
龍泉寺庭園
池を中心に周囲を木立に囲まれた庭園は、南北朝以前のものと言われ、龍泉の名が示すとおり、龍にまつわる伝統が伝えられています。
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6/7 13:11
龍泉寺庭園
池を中心に周囲を木立に囲まれた庭園は、南北朝以前のものと言われ、龍泉の名が示すとおり、龍にまつわる伝統が伝えられています。
龍泉寺庭園
三つの島には水神である弁財天(べんざいてん)、その両側に茶枳尼天(だらにてん)と聖天(しょうでん)の社が祭られています。
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6/7 13:14
龍泉寺庭園
三つの島には水神である弁財天(べんざいてん)、その両側に茶枳尼天(だらにてん)と聖天(しょうでん)の社が祭られています。
雨井戸(龍王井戸)
弘法大師が龍王を祀ったといわれる井戸は「雨乞井戸」として現在も残されています
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6/7 13:13
雨井戸(龍王井戸)
弘法大師が龍王を祀ったといわれる井戸は「雨乞井戸」として現在も残されています
咸古神社 鳥居
式内社、御祭神は神八井耳命、創建年月は不明だが、龍泉寺の鎮守として古くは牛頭天王とも呼ばれいたが、
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6/7 13:16
咸古神社 鳥居
式内社、御祭神は神八井耳命、創建年月は不明だが、龍泉寺の鎮守として古くは牛頭天王とも呼ばれいたが、
咸古神社 拝殿
本来は古代の豪族紺口県主がその祖神を祀った神社ともいわれている。
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6/7 13:17
咸古神社 拝殿
本来は古代の豪族紺口県主がその祖神を祀った神社ともいわれている。
瀧谷不動尊
平安時代 弘仁12年(西暦821年)に弘法大師こうぼうだいしが国家の安全と国民の幸せを祈るために開かれた道場です。
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6/7 14:09
瀧谷不動尊
平安時代 弘仁12年(西暦821年)に弘法大師こうぼうだいしが国家の安全と国民の幸せを祈るために開かれた道場です。
瀧谷不動尊
日本三不動の1つでもあります。目の神様で商売繁盛や交通安全のご祈祷もやってます。
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瀧谷不動尊
日本三不動の1つでもあります。目の神様で商売繁盛や交通安全のご祈祷もやってます。
近鉄 瀧谷不動駅
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6/7 14:27
近鉄 瀧谷不動駅
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