難波橋の南詰のライオン。今の橋は明治45年のもの。それ以前は25mほど下流に架かっていました。
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難波橋の南詰のライオン。今の橋は明治45年のもの。それ以前は25mほど下流に架かっていました。
中之島。かつての淀川です。
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中之島。かつての淀川です。
ここが元の難波橋の北詰。街道はここよりスタートです。
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ここが元の難波橋の北詰。街道はここよりスタートです。
街道は旧淀川(堂島川)沿いに進みます。この付近は蔵屋敷が立ち並んでいました。
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街道は旧淀川(堂島川)沿いに進みます。この付近は蔵屋敷が立ち並んでいました。
天満宮の立派な鳥居。天神祭りの時は鉾流橋から神事が行なわれます。
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天満宮の立派な鳥居。天神祭りの時は鉾流橋から神事が行なわれます。
台座の乾物商の文字。商売の組合が建立したものでしょう。
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台座の乾物商の文字。商売の組合が建立したものでしょう。
川沿いには案内看板がたくさんあります。
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川沿いには案内看板がたくさんあります。
ビジネス街の中を進みます。休日はとても静かな雰囲気です。
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ビジネス街の中を進みます。休日はとても静かな雰囲気です。
堂島掘割(梅田入堀)という大阪駅付近まで掘られた堀がありました。かつて大阪にはこのような運河が多くありましたが現在は埋め立てられているものが多いです。
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堂島掘割(梅田入堀)という大阪駅付近まで掘られた堀がありました。かつて大阪にはこのような運河が多くありましたが現在は埋め立てられているものが多いです。
明治天皇聖蹟。
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明治天皇聖蹟。
古くからある田蓑橋で右に曲がります。
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古くからある田蓑橋で右に曲がります。
ここで右に曲がると出入橋。出入橋を通らず真っ直ぐ進む道もあったと思いますが川があった影響で曲がっていたと思われます。
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ここで右に曲がると出入橋。出入橋を通らず真っ直ぐ進む道もあったと思いますが川があった影響で曲がっていたと思われます。
正面に出入橋。街道は左に入ります。道路の右手(ちょうど歩道付近)に川がありました。
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正面に出入橋。街道は左に入ります。道路の右手(ちょうど歩道付近)に川がありました。
出入橋は舗装されず石造りのまま残っているので貴重です。現在の橋は堂島掘割(梅田入堀)が出来た時に作られています。
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出入橋は舗装されず石造りのまま残っているので貴重です。現在の橋は堂島掘割(梅田入堀)が出来た時に作られています。
斜め真っ直ぐ方向に進みますが左側の横断歩道を利用します。
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斜め真っ直ぐ方向に進みますが左側の横断歩道を利用します。
この辺りの地名も梅田。梅田は元々湿地帯だったのを埋めて埋田となり後年に梅田となっています。右手は梅田入堀があった場所で船溜まりになっていました。
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この辺りの地名も梅田。梅田は元々湿地帯だったのを埋めて埋田となり後年に梅田となっています。右手は梅田入堀があった場所で船溜まりになっていました。
梅田貨物線沿いに進み踏切を渡ります。
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梅田貨物線沿いに進み踏切を渡ります。
斜め方向にある白いビルの中を通っていたようですが迂回するしかありません。
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斜め方向にある白いビルの中を通っていたようですが迂回するしかありません。
その先にある公園の中を斜めに横切っていきます。ここにはトイレがあります。
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その先にある公園の中を斜めに横切っていきます。ここにはトイレがあります。
振り返って。このビルが道の境目であったと思われます。
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振り返って。このビルが道の境目であったと思われます。
公園の奥に旧道の痕跡。ビルとビルの間の道を進みます。
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公園の奥に旧道の痕跡。ビルとビルの間の道を進みます。
つき当たりを右へ。目の前の広い土地は今は公園と高校になっており中ほどに古くからの神社があります。ここは昔からT字路だったようです。
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つき当たりを右へ。目の前の広い土地は今は公園と高校になっており中ほどに古くからの神社があります。ここは昔からT字路だったようです。
ここを斜め左へ弧を描くように公園内を進みます。
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ここを斜め左へ弧を描くように公園内を進みます。
寺が多い通りに入ります。つき当たりを右へ。
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寺が多い通りに入ります。つき当たりを右へ。
工場横の旧道を進みます。ここの右手に旧道の痕跡のようなものがありますが明治の地図では載っておらず後年のものなのでしょう。昔のこの辺りは広大な田畑だったようです。
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工場横の旧道を進みます。ここの右手に旧道の痕跡のようなものがありますが明治の地図では載っておらず後年のものなのでしょう。昔のこの辺りは広大な田畑だったようです。
旧道を進みます。右手に明治からあった広大な工場があります。
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旧道を進みます。右手に明治からあった広大な工場があります。
今も煉瓦の壁が残っています。
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今も煉瓦の壁が残っています。
新淀川とぶつかります。川は明治になって開削されたので江戸時代はそのまま真っ直ぐ進んでいました。
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新淀川とぶつかります。川は明治になって開削されたので江戸時代はそのまま真っ直ぐ進んでいました。
橋を渡ります。
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橋を渡ります。
ここには水路がありました。
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ここには水路がありました。
ちょうど鉄橋の横までほぼ真っ直ぐ道がありました。新淀川が出来てからしばらくは渡し船があったようです。
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ちょうど鉄橋の横までほぼ真っ直ぐ道がありました。新淀川が出来てからしばらくは渡し船があったようです。
開削当時の新淀川は現在よりさらに川幅が狭いもので随分奥まで歩いていけたようです。
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開削当時の新淀川は現在よりさらに川幅が狭いもので随分奥まで歩いていけたようです。
国道2号線の淀川大橋で迂回します。
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国道2号線の淀川大橋で迂回します。
奥に見える鉄橋あたりに梅田街道が通っています。
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奥に見える鉄橋あたりに梅田街道が通っています。
橋を渡り終えたら右に曲がります。新淀川開削時に現在の橋の左手に西成大橋が架けられています。
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橋を渡り終えたら右に曲がります。新淀川開削時に現在の橋の左手に西成大橋が架けられています。
その欄柱が鼻川神社に保存されています。本来の鼻川神社の場所は新淀川の河川敷にありました。またこの付近で中津川(旧淀川の一つ)と新淀川が合流しています。
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その欄柱が鼻川神社に保存されています。本来の鼻川神社の場所は新淀川の河川敷にありました。またこの付近で中津川(旧淀川の一つ)と新淀川が合流しています。
鼻川神社の拝殿。
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鼻川神社の拝殿。
ここから旧道が復活します。ここを左へ。
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ここから旧道が復活します。ここを左へ。
このような感じの道が続います。
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このような感じの道が続います。
この地点が新淀川開削後の渡し跡。
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この地点が新淀川開削後の渡し跡。
街道に戻って静かな町中を進んでいきます。
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街道に戻って静かな町中を進んでいきます。
柏里付近。大阪市編入後も田畑が広がっていたそうです。
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柏里付近。大阪市編入後も田畑が広がっていたそうです。
ここを左へ。サンリバーの看板が中津川を意識しているものと思われます。ちょうどこの辺りが堤防になっていました。
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ここを左へ。サンリバーの看板が中津川を意識しているものと思われます。ちょうどこの辺りが堤防になっていました。
この付近が河川敷。野里の渡しがありました。
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この付近が河川敷。野里の渡しがありました。
右に曲がります。この付近が対岸の堤防でした。曲がると旧堤防沿いに進んでいきます。
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右に曲がります。この付近が対岸の堤防でした。曲がると旧堤防沿いに進んでいきます。
野里の渡しのモニュメント。明治9年に「槲(かしわ)の橋」が架けれられています。
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野里の渡しのモニュメント。明治9年に「槲(かしわ)の橋」が架けれられています。
かつての川の流れに沿う道筋。
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かつての川の流れに沿う道筋。
阪神高速の高架下をくぐって左へ。
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阪神高速の高架下をくぐって左へ。
阪神高速沿いに進みます。明治に右手に大きな紡績工場がありました。
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阪神高速沿いに進みます。明治に右手に大きな紡績工場がありました。
八丁橋。この付近の住民は梅田街道を八丁街道と呼ぶ人が多かったそうです。橋は延宝6年(1678)に出来た中島大水道に架けられていました。
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八丁橋。この付近の住民は梅田街道を八丁街道と呼ぶ人が多かったそうです。橋は延宝6年(1678)に出来た中島大水道に架けられていました。
八丁温泉の前の道を進みます。
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八丁温泉の前の道を進みます。
中島大水道の跡は緑道になっています。この地域の悪水を海に流すために作られていました。新淀川開削後に埋められています。
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中島大水道の跡は緑道になっています。この地域の悪水を海に流すために作られていました。新淀川開削後に埋められています。
ここを左へ。
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ここを左へ。
歌島公園付近。この辺りは街道が消滅しています。右斜め方向に弧を描いて進んでいたようです。
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歌島公園付近。この辺りは街道が消滅しています。右斜め方向に弧を描いて進んでいたようです。
この付近より街道が復活。
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この付近より街道が復活。
小学校前の道路が旧道。つき当たりまで進みます。
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小学校前の道路が旧道。つき当たりまで進みます。
つき当たりが佃の渡し跡になりますが名残りがありません。
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つき当たりが佃の渡し跡になりますが名残りがありません。
神崎川の堤防上に登ろうとも登れないようになっています。下流の神崎大橋まで迂回します。
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神崎川の堤防上に登ろうとも登れないようになっています。下流の神崎大橋まで迂回します。
この道筋がかつての神崎川の堤防に沿っていると思われます。
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この道筋がかつての神崎川の堤防に沿っていると思われます。
右へ。クランク状になっています。
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右へ。クランク状になっています。
国道2号線の交差点。右に曲がって神崎大橋を渡ります。
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国道2号線の交差点。右に曲がって神崎大橋を渡ります。
左が佃島。右が御幣島。佃島の左手には左門殿川が流れていて佃島は中州のような土地になっています。
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左が佃島。右が御幣島。佃島の左手には左門殿川が流れていて佃島は中州のような土地になっています。
橋を渡った後は堤防沿いに進んでここで左に曲がります。この辺りが佃島側の渡し場跡と思われます。
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橋を渡った後は堤防沿いに進んでここで左に曲がります。この辺りが佃島側の渡し場跡と思われます。
弧を描いたような道筋。地盤が安定せず砂地でもあったので右側に長屋があったそうですが阪神大震災で崩壊しています。
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弧を描いたような道筋。地盤が安定せず砂地でもあったので右側に長屋があったそうですが阪神大震災で崩壊しています。
田蓑神社。街道沿いにおいて住吉神社が村ごと存在していましたが現在は合祀されたりと少なくなってしまっています。
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3/8 14:32
田蓑神社。街道沿いにおいて住吉神社が村ごと存在していましたが現在は合祀されたりと少なくなってしまっています。
田蓑神社。拝殿の上には改名前の住吉神社の文字が残っています。
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田蓑神社。拝殿の上には改名前の住吉神社の文字が残っています。
街道に戻って左へ。ちなみに佃煮は江戸の佃が発祥ですが元々は大阪の佃の漁民が江戸の佃に移ってのものとなります。現在も学校では交換授業ということで東京の佃と交流があるそうです。
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街道に戻って左へ。ちなみに佃煮は江戸の佃が発祥ですが元々は大阪の佃の漁民が江戸の佃に移ってのものとなります。現在も学校では交換授業ということで東京の佃と交流があるそうです。
左は旧道っぽい雰囲気ですが川沿いの道を進みます。明治の地図では左の道はどうも存在していないようです。
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左は旧道っぽい雰囲気ですが川沿いの道を進みます。明治の地図では左の道はどうも存在していないようです。
ここで左へ下ります。
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ここで左へ下ります。
国道2号線との交差点。右斜め奥への道を川沿いに進みます。
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国道2号線との交差点。右斜め奥への道を川沿いに進みます。
右手の川が左門殿川。
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右手の川が左門殿川。
左下へ進みます。
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左下へ進みます。
現在の堤防から離れましたが昔はこの道沿いに堤防がありました。
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現在の堤防から離れましたが昔はこの道沿いに堤防がありました。
少しクランクになっています。
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少しクランクになっています。
かつての堤防からの眺めはよかったことでしょう。
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かつての堤防からの眺めはよかったことでしょう。
マンションの建物の形がちょうど街道の痕跡になってると思われます。
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マンションの建物の形がちょうど街道の痕跡になってると思われます。
阪神なんば線の高架をくぐり再び現在の堤防へ。
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阪神なんば線の高架をくぐり再び現在の堤防へ。
古地図ではこの辺りが膨らんでいるので左は旧道の痕跡だと思われます。
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古地図ではこの辺りが膨らんでいるので左は旧道の痕跡だと思われます。
辰巳橋を渡ると尼崎の大物です。かつては大きな港がありました。梅田街道は辰巳橋が終点ですが中国街道とつなげるため尼崎中心部まで歩いています。
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辰巳橋を渡ると尼崎の大物です。かつては大きな港がありました。梅田街道は辰巳橋が終点ですが中国街道とつなげるため尼崎中心部まで歩いています。
国道43号横にある旧道。色が変わっています。
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3/8 15:27
国道43号横にある旧道。色が変わっています。
レンガ造りの工場跡。
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3/8 15:32
レンガ造りの工場跡。
この辺りは尼崎城の堀の跡。
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3/8 15:44
この辺りは尼崎城の堀の跡。
橋を渡ってゴールとしました。
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3/8 15:50
橋を渡ってゴールとしました。
自転車でウロウロしたところだらけなのですが、全く目にしていないのだらけです
講演会がなかったら歩いてない街道だったのですが
意外と遺構が結構残っているもので楽しいものでした。
橋がなく大きく迂回するのはちとつらいですけど
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