記録ID: 6159895
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ハイキング
御在所・鎌ヶ岳
歩いて辿る大和街道(関〜柘植)
2023年11月08日(水) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 04:20
- 距離
- 16.7km
- 登り
- 308m
- 下り
- 141m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年11月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰り:JR(関西本線)柘植駅 |
その他周辺情報 | 大和街道は関の西の追分で東海道から分岐し、三重県を抜けて奈良へと続き、木津川の水運につながり淀川を経て京都・大坂へと人々を導いた重要ルート。 大海人皇子が壬申の乱の折に、源義経が木曽義仲を討つ折に通ったと言われた、また大和地方諸国の大名が参勤交代に利用したなど、古い歴史を持つ街道。 |
写真
【関宿】
江戸時代の町並みを色濃く残す東海道47番目の宿場町「関宿」。 江戸から明治期にかけての町屋が約200軒も連なる様子は圧巻で、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。 約1.8kmにも及ぶ関宿は、西の追分からは大和街道が、東の追分からは伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、江戸時代にはこれらの街道を往来する人々でにぎわい、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していた。
江戸時代の町並みを色濃く残す東海道47番目の宿場町「関宿」。 江戸から明治期にかけての町屋が約200軒も連なる様子は圧巻で、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている。 約1.8kmにも及ぶ関宿は、西の追分からは大和街道が、東の追分からは伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、江戸時代にはこれらの街道を往来する人々でにぎわい、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していた。
【観音院 略由来】
古くは「関西山 福聚寺」と言います。 嵯峨天皇の御代(820)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。 当時は城山の西方に在り、戦国末期兵災にかかりすべてのものは焼失しましたが幸い御本尊一躰は難を免れました。
徳川家江戸幕府の武運長久を祈願すべしと「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべしと観音山と佛供田を残されたのであります。 寛文年間に至り(四代家綱(1665))当地にお堂を建立し「関西山 観音院」と号するようになりました。
当院は東海道関宿の守り佛としてのちには観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開き、人々の篤い信仰によって支えられて来ました。 今は関町内の信徒講員によって外護せられ昭和五十年四月、平成二十三年三月当宇の大修理が行われました。
八千とせに たのまぬ人も みちびけよ 鈴鹿の関の十一面観世音」
古くは「関西山 福聚寺」と言います。 嵯峨天皇の御代(820)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。 当時は城山の西方に在り、戦国末期兵災にかかりすべてのものは焼失しましたが幸い御本尊一躰は難を免れました。
徳川家江戸幕府の武運長久を祈願すべしと「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべしと観音山と佛供田を残されたのであります。 寛文年間に至り(四代家綱(1665))当地にお堂を建立し「関西山 観音院」と号するようになりました。
当院は東海道関宿の守り佛としてのちには観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開き、人々の篤い信仰によって支えられて来ました。 今は関町内の信徒講員によって外護せられ昭和五十年四月、平成二十三年三月当宇の大修理が行われました。
八千とせに たのまぬ人も みちびけよ 鈴鹿の関の十一面観世音」
【屋渕川(やぶちがわ) 橋梁】
関西本線は、名古屋-JR難波 (大阪市浪速区) 間174.9kmの幹線であり、明治23年(1890) に私鉄の関西(かんせい)鉄道により柘植(伊賀市) 四日 市間が開業した。
屋渕川橋梁は、 加太板屋地内の加太川に架かる。 鋼製3連桁橋、両岸の40フィート級、中央の70フィート級の桁からなり、加太地区最長の橋長59. 7mを測る。 鈑桁に取り付けられた銘板から、大正13年(1924)に大阪鐵工所 (日立造船株式会社の前身)により八幡製鐵所の鉄材を用いて製造され たことなどが詳らかになる。
加太地区の橋梁は、大正後期に鉄道車両の近代化に伴い、さらに強度の高い鈑桁に取り替えられた。
関西本線は、名古屋-JR難波 (大阪市浪速区) 間174.9kmの幹線であり、明治23年(1890) に私鉄の関西(かんせい)鉄道により柘植(伊賀市) 四日 市間が開業した。
屋渕川橋梁は、 加太板屋地内の加太川に架かる。 鋼製3連桁橋、両岸の40フィート級、中央の70フィート級の桁からなり、加太地区最長の橋長59. 7mを測る。 鈑桁に取り付けられた銘板から、大正13年(1924)に大阪鐵工所 (日立造船株式会社の前身)により八幡製鐵所の鉄材を用いて製造され たことなどが詳らかになる。
加太地区の橋梁は、大正後期に鉄道車両の近代化に伴い、さらに強度の高い鈑桁に取り替えられた。
【川俣神社(かわまたじんじゃ)】
川俣神社は、大比古命を祭神とする神社で南北朝時代にこの地を領していた鹿伏兎氏が築いた御霊ヶ丘陣屋を、応永21年(1414)に伊勢国司北畠満雅が川俣城」と名付けたとされ、社殿裏に土塁が残っています。
川俣神社は、大比古命を祭神とする神社で南北朝時代にこの地を領していた鹿伏兎氏が築いた御霊ヶ丘陣屋を、応永21年(1414)に伊勢国司北畠満雅が川俣城」と名付けたとされ、社殿裏に土塁が残っています。
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