記録ID: 6182358
全員に公開
ハイキング
御在所・鎌ヶ岳
歩いて辿る大和街道(柘植〜島ヶ原)
2023年11月15日(水) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 07:46
- 距離
- 28.4km
- 登り
- 165m
- 下り
- 297m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 7:35
- 休憩
- 0:10
- 合計
- 7:45
距離 28.4km
登り 170m
下り 297m
過去天気図(気象庁) | 2023年11月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰り:JR(関西本線)島ヶ原駅 |
写真
御由緒
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないかと思われる。 我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊賀津彦の神に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、元の名に伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い勝たずして還り却りき、困りて名を為しと云々」とあることからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実のようだ。
この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神といって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永二十一年(1644)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (1646)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌年8月27日)も町文化財として今日残されている。
この神社の祭神は栲(たく)幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外の三十三柱となっているが、他の一本によるともとの
祭神は木花開部姫であったとも伝えられている。
都美恵の社号については一村一社の合祀(明治42年4月)後、大正11年7月に現社号に改称されたもので、倭姫世紀、伊势御鎮座遵幸囲略、二所皇太神宫還幸要略等にある「敢都美意宮」から「敢」をとって選定されたもので、即ち都美恵は柘植の古語であり神縁りの地でもある。
都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないかと思われる。 我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊賀津彦の神に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、元の名に伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い勝たずして還り却りき、困りて名を為しと云々」とあることからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実のようだ。
この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神といって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永二十一年(1644)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (1646)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌年8月27日)も町文化財として今日残されている。
この神社の祭神は栲(たく)幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外の三十三柱となっているが、他の一本によるともとの
祭神は木花開部姫であったとも伝えられている。
都美恵の社号については一村一社の合祀(明治42年4月)後、大正11年7月に現社号に改称されたもので、倭姫世紀、伊势御鎮座遵幸囲略、二所皇太神宫還幸要略等にある「敢都美意宮」から「敢」をとって選定されたもので、即ち都美恵は柘植の古語であり神縁りの地でもある。
大和街道は、関から大和に向い 街道で古代から交通の要衝であり、江戸時代に宿場として整えられた。
本陣は、開口39間 、奥行23間、地積3反余、物資を継立する問屋も兼業していた。
左図は,加太越奈良道見取図の上柘植宿であるが、本陣前に高札場、西に火除堤があり、街道は宿場独特の鍵計となり宿場町を形成していた。
本陣は、開口39間 、奥行23間、地積3反余、物資を継立する問屋も兼業していた。
左図は,加太越奈良道見取図の上柘植宿であるが、本陣前に高札場、西に火除堤があり、街道は宿場独特の鍵計となり宿場町を形成していた。
徳永寺(とくえいじ)
徳川家康と忍者を結ぶ縁の寺
徳永寺は、天正10年 (1582)に本能寺の変が起きた時、徳川家康が滞在中の和泉国堺から本拠地 三河国岡崎への逃避行の際に立ち寄った寺院と言われている。 家康は後年、その礼として、寺周りの山林田畠等を寄進した。
藤堂藩制下においても、家康の窮地を救った寺院として、歴代藩主から山 林田畠等が改めて寄進・安堵された。 また、当寺の本堂には、徳川家の許しを得たと される葵の紋の瓦が使われ ている。
徳川家康と忍者を結ぶ縁の寺
徳永寺は、天正10年 (1582)に本能寺の変が起きた時、徳川家康が滞在中の和泉国堺から本拠地 三河国岡崎への逃避行の際に立ち寄った寺院と言われている。 家康は後年、その礼として、寺周りの山林田畠等を寄進した。
藤堂藩制下においても、家康の窮地を救った寺院として、歴代藩主から山 林田畠等が改めて寄進・安堵された。 また、当寺の本堂には、徳川家の許しを得たと される葵の紋の瓦が使われ ている。
横光利一ゆかりの梅田竹次郎宅跡
文豪・横光利一は少年時代この場に住んでいた。
父・ 梅次郎が鉄道の仕事で京城へ赴任した後、母・こぎく、姉・しずこと共に母の実家へ帰り、近く駄菓子屋をしていた梅田竹次郎宅の二階を借りて住みました。
東柘植小学校の一年生に転校してきた明治37年(1904)6月から5年生の9月までまる4年間です。 昭和51年(1976)に利一が少年時代を過ごした建物は取り壊されましたが、利一少年が毎朝顔を洗った石積みの井戸が残っており、当時を偲ばせている。
〈利一と柘植〉
父・横光梅次郎(大分県宇佐出身)は、明治21年(1888)関西鉄道が始めた四日市、草津間の工事中の難関・加太隧道工事に従事するため柘植に来ていたとき、柘植郵便局に勤めていた梅田竹次郎の仲立ちで野村の富農・中田小平の四女・こぎくと結婚した。 利一は父が鉄道の測量業務に携わって各地を転々としていたため、たまたま福島県で生れた。 明治37年(1904)、 日露戦争勃発により父が朝鮮の軍事鉄道建設に赴いたので母と共に母の実家がある野村に戻り、筋向いの親戚の梅田竹次郎の家に住むことになった。
文豪・横光利一は少年時代この場に住んでいた。
父・ 梅次郎が鉄道の仕事で京城へ赴任した後、母・こぎく、姉・しずこと共に母の実家へ帰り、近く駄菓子屋をしていた梅田竹次郎宅の二階を借りて住みました。
東柘植小学校の一年生に転校してきた明治37年(1904)6月から5年生の9月までまる4年間です。 昭和51年(1976)に利一が少年時代を過ごした建物は取り壊されましたが、利一少年が毎朝顔を洗った石積みの井戸が残っており、当時を偲ばせている。
〈利一と柘植〉
父・横光梅次郎(大分県宇佐出身)は、明治21年(1888)関西鉄道が始めた四日市、草津間の工事中の難関・加太隧道工事に従事するため柘植に来ていたとき、柘植郵便局に勤めていた梅田竹次郎の仲立ちで野村の富農・中田小平の四女・こぎくと結婚した。 利一は父が鉄道の測量業務に携わって各地を転々としていたため、たまたま福島県で生れた。 明治37年(1904)、 日露戦争勃発により父が朝鮮の軍事鉄道建設に赴いたので母と共に母の実家がある野村に戻り、筋向いの親戚の梅田竹次郎の家に住むことになった。
孝子留松
安永4年(1175年) 上野市東条の農家の祖父忠七、母小りん、婿養子左吉の次男として生まれた。
父の左吉は、難病の母小りんや祖父忠七、幼い留松などを残して旅に出たまま帰らなかった。 残された留松にできることは、物乞いだけである。 父が出た後病気になった祖父と母の看病をして物乞いに歩き、病気の母や祖父に与えていた。
留松9歳の時、孝行の甲斐も無く母は他界した。 これらの行いが、藩主の耳に達し天明3年(1783年)上野城に召され、お褒めの言葉と米5俵を賜った。
寛政元年11月(1789年)15歳に達した留松に米10俵賜ったと言うが、留松一家の最後は詳らかではない。
この留松の孝行を顕彰するため、東条の人たちが明治41年『孝子留松之碑」を建立された。
安永4年(1175年) 上野市東条の農家の祖父忠七、母小りん、婿養子左吉の次男として生まれた。
父の左吉は、難病の母小りんや祖父忠七、幼い留松などを残して旅に出たまま帰らなかった。 残された留松にできることは、物乞いだけである。 父が出た後病気になった祖父と母の看病をして物乞いに歩き、病気の母や祖父に与えていた。
留松9歳の時、孝行の甲斐も無く母は他界した。 これらの行いが、藩主の耳に達し天明3年(1783年)上野城に召され、お褒めの言葉と米5俵を賜った。
寛政元年11月(1789年)15歳に達した留松に米10俵賜ったと言うが、留松一家の最後は詳らかではない。
この留松の孝行を顕彰するため、東条の人たちが明治41年『孝子留松之碑」を建立された。
史跡:芭蕉翁生家
この処は俳聖松尾芭蕉の生家である。 芭蕉翁は正保元年(1644) ここで生まれた。
父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に従い伊予国宇和島から名張に随従して来た桃地氏の女と伝えられる。
与左衛門夫婦には三男四女があり、長男は平左衛門命清、次男はのちの芭蕉翁で幼名を金作、長じて宗房を名乗った。 ほかに通称を甚七郎、別に忠右衛門といった。
芭蕉翁が19歳の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の待人将新七郎家の息主計良忠は蝉吟と号して、北村季吟一門に俳諧を学んでいた。 その集大成ともいうべきものは、後の処女撰集「貝おほひ」の版行であった。
生家の後園に建つ釣月軒は若き日の芭蕉翁の書斎である。 芭蕉翁は、ここで「貝おほひ」(俳諧発句合)を 編み、寛文十ニ年正月二十五日、上野天神宮 (上野天満宮ともに奉納して文運を祈願し、その春江戸へと赴いた。 江戸で俳諧宗匠となった芭蕉翁は故郷に幾度となく帰省したが、その故郷観は「代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。 我今ははじめの老も四とせ過ぎて、何事につけうえも昔のなつかしきままに(以下略)」という心情にしめされている。
この処は俳聖松尾芭蕉の生家である。 芭蕉翁は正保元年(1644) ここで生まれた。
父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に従い伊予国宇和島から名張に随従して来た桃地氏の女と伝えられる。
与左衛門夫婦には三男四女があり、長男は平左衛門命清、次男はのちの芭蕉翁で幼名を金作、長じて宗房を名乗った。 ほかに通称を甚七郎、別に忠右衛門といった。
芭蕉翁が19歳の頃に仕えた藤堂藩伊賀附の待人将新七郎家の息主計良忠は蝉吟と号して、北村季吟一門に俳諧を学んでいた。 その集大成ともいうべきものは、後の処女撰集「貝おほひ」の版行であった。
生家の後園に建つ釣月軒は若き日の芭蕉翁の書斎である。 芭蕉翁は、ここで「貝おほひ」(俳諧発句合)を 編み、寛文十ニ年正月二十五日、上野天神宮 (上野天満宮ともに奉納して文運を祈願し、その春江戸へと赴いた。 江戸で俳諧宗匠となった芭蕉翁は故郷に幾度となく帰省したが、その故郷観は「代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。 我今ははじめの老も四とせ過ぎて、何事につけうえも昔のなつかしきままに(以下略)」という心情にしめされている。
菅原神社
天正十三年(1585年) 筒井定次が伊賀の領主となり菅原神社別名「上野天満宮」)を祀ったことに起源を発し、慶長十三年(1808年) 伊賀・伊勢国藩主・藤堂高虎が天満宮の新改築、寄進に力を注ぎ、慶長十六年(一六一一年)外堀向かい側の現在地に遷 (棟札には奉再興南無天満大自在天神宮と銘記)され上野の町の産土神・氏神と称えられ崇敬は広く、奈良、京都、滋賀に及んでいます。秋祭りは「上野天神祭」の名で知られ、四百年続く絢爛豪華鬼・ダンジリ神幸祭は、平成二十八年にユネスコ無形文化遺産に登録され愈々賑わいを増している。
また寛文十二年・俳聖松尾芭蕉が俳諧の道に生きると立志祈願し、初の白薦俳諧発句合「貝おほひ」一巻を奉納された神社。
天正十三年(1585年) 筒井定次が伊賀の領主となり菅原神社別名「上野天満宮」)を祀ったことに起源を発し、慶長十三年(1808年) 伊賀・伊勢国藩主・藤堂高虎が天満宮の新改築、寄進に力を注ぎ、慶長十六年(一六一一年)外堀向かい側の現在地に遷 (棟札には奉再興南無天満大自在天神宮と銘記)され上野の町の産土神・氏神と称えられ崇敬は広く、奈良、京都、滋賀に及んでいます。秋祭りは「上野天神祭」の名で知られ、四百年続く絢爛豪華鬼・ダンジリ神幸祭は、平成二十八年にユネスコ無形文化遺産に登録され愈々賑わいを増している。
また寛文十二年・俳聖松尾芭蕉が俳諧の道に生きると立志祈願し、初の白薦俳諧発句合「貝おほひ」一巻を奉納された神社。
幸福寺駒止延命地蔵と地蔵堂
此処は江戸時代に栄え、明治に入って廃寺となった真言宗金龍山幸福寺の旧址で、現存の建物は、その一部の地蔵堂の遺構である。 本尊は永禄三年(一五六〇年八月廿四日の室町時代末期の刻銘のある等身大の地蔵石仏寺伝に依れば、慶長年間伊予より入国後の藤堂高虎公の伊州巡視に際し、墓の谷の溝に架かりし石仏を止めの霊異によりて発掘し、当寺に安置したものといわれているが、地蔵堂の創建は高虎公晩年の寛永元年(一六二四年)頃と伝えられ、その後元禄十年(一六九七年) 幸福寺住法印栄俊による堂の再興。 嘉永六年(一八五三年八月、明治二十八年二月などの修理を経て今日に至った。
堂内地蔵尊の左右には、両脇侍の形で、真言宗高弘法大師像元禄三年金剛仏子快盛造像、延享五年真栄補修の墨あり、新義真言開祖興教大師像真栄の墨書銘ありとが安置され、内陣厨子周辺や天井などの桃山風荘厳は、当時の全盛を彷彿させる。 江戸時代を通じ里人の地蔵信仰は驚く、そのためか顔面は磨滅し、顔のないお地蔵さんの名は、世々の人の間に伝承されて来た女人泰彦、衆病悉除、寿命長遠、聡明智恵、財宝盈 穀物成就などその功徳の深遠なる有難さ延命地蔵尊として、広く伊州一円の募集を得ていたのであるが、時の流れはすべてを忘却の彼方へおしやり、現在では松ぎの音もまばらに、境内は閑寂の気につつまれている。
此処は江戸時代に栄え、明治に入って廃寺となった真言宗金龍山幸福寺の旧址で、現存の建物は、その一部の地蔵堂の遺構である。 本尊は永禄三年(一五六〇年八月廿四日の室町時代末期の刻銘のある等身大の地蔵石仏寺伝に依れば、慶長年間伊予より入国後の藤堂高虎公の伊州巡視に際し、墓の谷の溝に架かりし石仏を止めの霊異によりて発掘し、当寺に安置したものといわれているが、地蔵堂の創建は高虎公晩年の寛永元年(一六二四年)頃と伝えられ、その後元禄十年(一六九七年) 幸福寺住法印栄俊による堂の再興。 嘉永六年(一八五三年八月、明治二十八年二月などの修理を経て今日に至った。
堂内地蔵尊の左右には、両脇侍の形で、真言宗高弘法大師像元禄三年金剛仏子快盛造像、延享五年真栄補修の墨あり、新義真言開祖興教大師像真栄の墨書銘ありとが安置され、内陣厨子周辺や天井などの桃山風荘厳は、当時の全盛を彷彿させる。 江戸時代を通じ里人の地蔵信仰は驚く、そのためか顔面は磨滅し、顔のないお地蔵さんの名は、世々の人の間に伝承されて来た女人泰彦、衆病悉除、寿命長遠、聡明智恵、財宝盈 穀物成就などその功徳の深遠なる有難さ延命地蔵尊として、広く伊州一円の募集を得ていたのであるが、時の流れはすべてを忘却の彼方へおしやり、現在では松ぎの音もまばらに、境内は閑寂の気につつまれている。
見とどけ地蔵(笠地蔵・おもん地蔵)
三軒家の集落の西に射手神社旧社地がある。 旧社地のある旧 街道(加太越え奈良道)沿いに、花崗岩を舟形に彫り、三体の地蔵 立像が表現された南北朝期の石仏があった。 右手に錫、左手に 宝珠をもった地蔵(像高六十四秒)を中央に、その左に宝珠をもった地蔵、右には合掌する地蔵(像高三十二型)がそれぞれ蓮華座上に配置されている。 天正の伊賀乱に射手神社が焼かれたとき心霊が火だるまとなって東の仏性寺の方向へ飛んでいったのをこの地蔵が見とどけたという伝説がある。 旧街道を旅する人々の心を休める信仰の対象であった。 見とどけ地蔵と呼ばれ、現在は稲荷社の前でまつられている。
なお、国道一六三号線の南にある川の対岸の山裾には、東へ千三百m進んだところに笠地蔵、さらに八百m先にはおもん地蔵がまつられていて、三つの地蔵は奈良道の三地蔵として市の有形文化財 (彫刻)に指定されている。
三軒家の集落の西に射手神社旧社地がある。 旧社地のある旧 街道(加太越え奈良道)沿いに、花崗岩を舟形に彫り、三体の地蔵 立像が表現された南北朝期の石仏があった。 右手に錫、左手に 宝珠をもった地蔵(像高六十四秒)を中央に、その左に宝珠をもった地蔵、右には合掌する地蔵(像高三十二型)がそれぞれ蓮華座上に配置されている。 天正の伊賀乱に射手神社が焼かれたとき心霊が火だるまとなって東の仏性寺の方向へ飛んでいったのをこの地蔵が見とどけたという伝説がある。 旧街道を旅する人々の心を休める信仰の対象であった。 見とどけ地蔵と呼ばれ、現在は稲荷社の前でまつられている。
なお、国道一六三号線の南にある川の対岸の山裾には、東へ千三百m進んだところに笠地蔵、さらに八百m先にはおもん地蔵がまつられていて、三つの地蔵は奈良道の三地蔵として市の有形文化財 (彫刻)に指定されている。
芭蕉の尻もち坂
大和街道は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、関の西の追分で東海道から分岐し、加太峠を越え、伊賀国上野宿から当島ヶ原宿に入り山城国加茂宿を経て奈良に出、さらに生駒山を越え、河内の枚岡、松原(現東大阪市)に至る道が大和街道である。
ここで「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」と俚謡にうたわれたのは急坂与右衛門坂をさす。 大和街道を通った松尾芭蕉翁がこの坂道で尻もちついたので「芭蕉の尻もち坂」ともいわれている。
芭蕉翁が貞享二年(一六八五)に上野から奈良へ向かった「野ざらし紀行」が記録に出る最初の島ケ原越えだ。
元禄七年(一六九四) 閏(うるう) 五月には、京都の 加茂へ出かけている。 加茂の親類の松村平兵衛宅に一泊したあと、滋賀・膳所でしばらく過ごし、七月再び上野へ戻った九月にはまた奈良を通って、大阪へ出かけている。 大阪へ出かけ、急病で亡くなっている。
この街道は芭蕉翁ならずとも一句浮かんできそうなムードに包まれる。
大和街道は、江戸時代には加太越奈良道と呼ばれ、関の西の追分で東海道から分岐し、加太峠を越え、伊賀国上野宿から当島ヶ原宿に入り山城国加茂宿を経て奈良に出、さらに生駒山を越え、河内の枚岡、松原(現東大阪市)に至る道が大和街道である。
ここで「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」と俚謡にうたわれたのは急坂与右衛門坂をさす。 大和街道を通った松尾芭蕉翁がこの坂道で尻もちついたので「芭蕉の尻もち坂」ともいわれている。
芭蕉翁が貞享二年(一六八五)に上野から奈良へ向かった「野ざらし紀行」が記録に出る最初の島ケ原越えだ。
元禄七年(一六九四) 閏(うるう) 五月には、京都の 加茂へ出かけている。 加茂の親類の松村平兵衛宅に一泊したあと、滋賀・膳所でしばらく過ごし、七月再び上野へ戻った九月にはまた奈良を通って、大阪へ出かけている。 大阪へ出かけ、急病で亡くなっている。
この街道は芭蕉翁ならずとも一句浮かんできそうなムードに包まれる。
与右衛門坂記
この大和街道は江戸時代には加太超奈良道と呼ばれ、明治以後は大和街道と称せられる。 伊賀上野宿三家を通り当島ヶ原宿に入り、山城大河原宿を経て奈良へと続く街道である。 この道の歴史は古く、ここが急坂な与右衛門坂である。
「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」と俚謡にうたわれた。 与右衛門坂は正確には一町二十間ほどの急坂を指す。 与右衛門坂は三本松坂、長坂を含めての、上野、島ヶ原間の長い険しい急坂を総称したようである。
ちなみにこの与右衛門坂の名称は、藤堂高虎の通称が与右衛門だったからとう説もあるが、実際は高虎の弟て藤堂出雲の初祖高清らしい。 高清も与右衛門を通称とした。 寛永年間にこの道が開かれたという。
この大和街道は江戸時代には加太超奈良道と呼ばれ、明治以後は大和街道と称せられる。 伊賀上野宿三家を通り当島ヶ原宿に入り、山城大河原宿を経て奈良へと続く街道である。 この道の歴史は古く、ここが急坂な与右衛門坂である。
「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」と俚謡にうたわれた。 与右衛門坂は正確には一町二十間ほどの急坂を指す。 与右衛門坂は三本松坂、長坂を含めての、上野、島ヶ原間の長い険しい急坂を総称したようである。
ちなみにこの与右衛門坂の名称は、藤堂高虎の通称が与右衛門だったからとう説もあるが、実際は高虎の弟て藤堂出雲の初祖高清らしい。 高清も与右衛門を通称とした。 寛永年間にこの道が開かれたという。
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昔近鉄奈良駅を起点に鹿伏兎越えで関宿まで自転車で走りました🚲
島ヶ原では名物『やぶっちゃ』というヨモギ餅がとてもコシがあり美味でした👍
途中木津橋から月ヶ瀬辺り(やったかな?)までの道は歩道がなくとても恐ろしい思いをしました😱あのコースはやはり歩く方がいいですね!
懐かしい風景の数々、ありがとうございました
コメントありがとうございます。
「関〜柘植」および「柘植〜島ヶ原」を歩きましたが、歩道の無いところが多くありました。 大型トラックが直ぐ横を通り、怖い思いをしました。
「島ヶ原〜木津」も同様なので歩くのを躊躇しています。 ネガティブな気持ちが薄らいだら、続きを歩きます。
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