記録ID: 7203112
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ハイキング
京都・北摂
法然上人/浄土宗のお寺・上京区 清浄華院+歴史ウォーク
2024年09月07日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:21
- 距離
- 3.7km
- 登り
- 15m
- 下り
- 0m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
高瀬川一之舟入(船入)
(中京区木屋町通一一条下ル)
高瀬川は、角倉了以・素庵の父子が開いた運河で、二条から鴨川の水を引き、伏見まで通じている。慶長十六年(一六一一)から同十九年頃にかけて完成したとされる。
この運河が開通したことによって、大坂・伏見から京都への物資運搬が活発になり、近世京都の都市形成に大きな役割を果たした。
川の水深は浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられたことから、高瀬川と呼ばれるようになった。
高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所のことを「舟入(船入)」といい、数ヵ所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが一之舟入で、国の史跡に指定されている。
二之舟入から九之舟入にはその場所を示す石碑が建立されている。
かつては一之舟入に隣接して、角倉邸が存在した。
角倉氏は江戸時代を通じて高瀬川水運の権益を持っていた。
角倉邸にあった庭石は、昭和四十年(一九六五)に造営された二条城清流園に移されている。
高瀬川の水運は、大正九年(一九二〇)に廃止された。
(中京区木屋町通一一条下ル)
高瀬川は、角倉了以・素庵の父子が開いた運河で、二条から鴨川の水を引き、伏見まで通じている。慶長十六年(一六一一)から同十九年頃にかけて完成したとされる。
この運河が開通したことによって、大坂・伏見から京都への物資運搬が活発になり、近世京都の都市形成に大きな役割を果たした。
川の水深は浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられたことから、高瀬川と呼ばれるようになった。
高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所のことを「舟入(船入)」といい、数ヵ所の舟入が設けられたが、唯一当時の姿を留めているのが一之舟入で、国の史跡に指定されている。
二之舟入から九之舟入にはその場所を示す石碑が建立されている。
かつては一之舟入に隣接して、角倉邸が存在した。
角倉氏は江戸時代を通じて高瀬川水運の権益を持っていた。
角倉邸にあった庭石は、昭和四十年(一九六五)に造営された二条城清流園に移されている。
高瀬川の水運は、大正九年(一九二〇)に廃止された。
島津製作所創業記念資料館
(中京区木屋町通二条南)
島津製作所が昭和五十年(一九七五)、創業百年を記念して開設した資料館。
初代島津源蔵が京都府の殖産興業政策などに呼応し、国民への科学知識の普及と教育振與を図る目的から、明治八年(一八七五)、教育用理化学器械の製造を開始。
これが島津製作所の始まりとなる。
資料館の建つ木屋町通二条は島津創業の地であり、建物は創業当時の姿を今に伝えている。
館内には理化学器械・医療用X線装置・標本・産業機器といった、創業以来の製品や関係文書、文献など約六百五十点を展示している。
(中京区木屋町通二条南)
島津製作所が昭和五十年(一九七五)、創業百年を記念して開設した資料館。
初代島津源蔵が京都府の殖産興業政策などに呼応し、国民への科学知識の普及と教育振與を図る目的から、明治八年(一八七五)、教育用理化学器械の製造を開始。
これが島津製作所の始まりとなる。
資料館の建つ木屋町通二条は島津創業の地であり、建物は創業当時の姿を今に伝えている。
館内には理化学器械・医療用X線装置・標本・産業機器といった、創業以来の製品や関係文書、文献など約六百五十点を展示している。
女紅場
女紅は、裁縫をはじめ手芸、手工をいい、女紅場は明治5年(1872)丸太町通土手町に女子教育の機関として生まれたのが始まり。
京都の勧業政策の一つとして各区に生まれ、祇園・島原・上七軒・宮川町などの花街にも設立された。
祇園では下京第十五区女紅場と呼ばれ、明治14年に八坂女紅場と改称された。
各区の女紅場は種々の学校に発展解消したが、八坂女紅場は八坂女紅場学園となり、芸舞妓の歌舞音曲・茶道・生け花など研鑽の場として継続されている。
女紅は、裁縫をはじめ手芸、手工をいい、女紅場は明治5年(1872)丸太町通土手町に女子教育の機関として生まれたのが始まり。
京都の勧業政策の一つとして各区に生まれ、祇園・島原・上七軒・宮川町などの花街にも設立された。
祇園では下京第十五区女紅場と呼ばれ、明治14年に八坂女紅場と改称された。
各区の女紅場は種々の学校に発展解消したが、八坂女紅場は八坂女紅場学園となり、芸舞妓の歌舞音曲・茶道・生け花など研鑽の場として継続されている。
山紫水明処
(上京区東三本木通丸太町上ル南町)
丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面してある頼山陽の書斎。
頼山陽は、江戸時代後期の儒学者で、文化八年(一八一一)、三十二歳の時に広島から京都に出て、文政五年(一八二二)から没する天保三年(一八三二)までをこの地で暮らした。
山陽は邸宅を「水西荘」と名付け、文政十一年に増築した書斎を「山紫水明処」と名付けた。
京都の形容詞ともいえる「山紫水明」という言葉はこれ以降使われるようになったといわれる。
山陽を慕って、多くの文人墨客がここを訪ねた。
広島にいた頃に草稿の完成していた著作『日本外史』もここで完成し、文政十年には松平定信に提出された。
没後に刊行され、ロングセラーとなり、幕末期には尊攘派志士の精神的な支えとなった。
そのような由緒から、国の史跡に指定されている。
(上京区東三本木通丸太町上ル南町)
丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面してある頼山陽の書斎。
頼山陽は、江戸時代後期の儒学者で、文化八年(一八一一)、三十二歳の時に広島から京都に出て、文政五年(一八二二)から没する天保三年(一八三二)までをこの地で暮らした。
山陽は邸宅を「水西荘」と名付け、文政十一年に増築した書斎を「山紫水明処」と名付けた。
京都の形容詞ともいえる「山紫水明」という言葉はこれ以降使われるようになったといわれる。
山陽を慕って、多くの文人墨客がここを訪ねた。
広島にいた頃に草稿の完成していた著作『日本外史』もここで完成し、文政十年には松平定信に提出された。
没後に刊行され、ロングセラーとなり、幕末期には尊攘派志士の精神的な支えとなった。
そのような由緒から、国の史跡に指定されている。
法成寺跡
(上京区荒神口通寺町東入)
藤原道長が創建した大寺院の跡。
出家した道長は、寛仁四年(一〇二〇)に邸宅土御門殿に隣接した場所に九体阿弥陀堂(無量寿院)を創建した。
治安二年(一〇二二)に金堂、万寿元年(一〇二四)に薬師堂、同二年に三昧堂、同四年に釈迦堂の供養と、続々と堂舎が建立され、寺名も法成寺となった。
道長が臨終を迎えたのも、この法成寺であった。
天喜六年(一〇五八)に全焼。
後年、吉田兼好が『徒然草』に九体阿弥陀堂などが残っていることを記しており、十四世紀前半には荒廃していたもののわずかに堂宇が存在したことが知られるが、現在は石碑がその場所を示すのみである。
なお、道長の邸宅土御門殿の場所は、現在の京都御苑の中であり、比定されている場所に駒札が立っている。
(上京区荒神口通寺町東入)
藤原道長が創建した大寺院の跡。
出家した道長は、寛仁四年(一〇二〇)に邸宅土御門殿に隣接した場所に九体阿弥陀堂(無量寿院)を創建した。
治安二年(一〇二二)に金堂、万寿元年(一〇二四)に薬師堂、同二年に三昧堂、同四年に釈迦堂の供養と、続々と堂舎が建立され、寺名も法成寺となった。
道長が臨終を迎えたのも、この法成寺であった。
天喜六年(一〇五八)に全焼。
後年、吉田兼好が『徒然草』に九体阿弥陀堂などが残っていることを記しており、十四世紀前半には荒廃していたもののわずかに堂宇が存在したことが知られるが、現在は石碑がその場所を示すのみである。
なお、道長の邸宅土御門殿の場所は、現在の京都御苑の中であり、比定されている場所に駒札が立っている。
梨木神社
(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
祭神
三條實萬、三條實美
明治十八年(一八八五)に三條(三条)家の邸宅跡の東に創建された。
祭神の三條實萬(三条実万)・實美(実美)父子は明治維新の功労者。
萩の名所としても知られ、萩の宮とも呼ばれる。
境内には名水として知られる「染井」の井戸があり、この水を使った茶会が開かれている。
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通広小路上ル染殿町)
祭神
三條實萬、三條實美
明治十八年(一八八五)に三條(三条)家の邸宅跡の東に創建された。
祭神の三條實萬(三条実万)・實美(実美)父子は明治維新の功労者。
萩の名所としても知られ、萩の宮とも呼ばれる。
境内には名水として知られる「染井」の井戸があり、この水を使った茶会が開かれている。
(京都検定テキスト)
盧山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
本尊 阿弥陀如来
天台圓浄宗の大本山。
正式には盧山天台講寺。
前身は天慶年間(九三八〜四七)に良源(慈恵大師・元三大師)が北山に創建した与願金剛院。
応仁・文明の乱後も再々の火災で焼失したが、その後に再建され、天正年間(一五七三〜九二)に現在地へ移った。
当地は紫式部の邸宅跡と伝え、源氏の庭には「紫式部邸宅址」の石碑が立つ。
二月三日の節分会は「鬼法楽」の名で知られ、鬼に豆を撒いて悪疫退散を祈願する。
かつて金山天王寺の本尊であった如意輪観音半跏像(重要文化財)が伝来し、その観音は洛陽三十三所観音霊場第三十二番札所の本尊となっている。
(京都検定テキスト)
本尊 阿弥陀如来
天台圓浄宗の大本山。
正式には盧山天台講寺。
前身は天慶年間(九三八〜四七)に良源(慈恵大師・元三大師)が北山に創建した与願金剛院。
応仁・文明の乱後も再々の火災で焼失したが、その後に再建され、天正年間(一五七三〜九二)に現在地へ移った。
当地は紫式部の邸宅跡と伝え、源氏の庭には「紫式部邸宅址」の石碑が立つ。
二月三日の節分会は「鬼法楽」の名で知られ、鬼に豆を撒いて悪疫退散を祈願する。
かつて金山天王寺の本尊であった如意輪観音半跏像(重要文化財)が伝来し、その観音は洛陽三十三所観音霊場第三十二番札所の本尊となっている。
(京都検定テキスト)
清浄華院
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
本尊 阿弥陀如来
浄土宗京都四ヵ本山の一つ。山号・寺号はなく、浄華院と略称する。貞観二年
(八六〇)、清和天皇の勅願で、円仁(慈覚大師)が四宗兼学道場として禁裏内に開山し、十二世紀後半、法然が浄土宗に改めたという。寺地は、三条坊門高倉(高倉御池付近)、土御門室町(室町上立売付近)を経て、天正十三年(一五八五)に現在地に移転した。皇室や公家の崇敬が篤く、墓地には皇子や皇女の墓が数多くある。寺宝に南宋仏画の優品である阿弥陀三尊像(国宝)や、大殿(御影堂)に安置される秘仏泣不動尊の物語を描いた「泣不動縁起絵巻」(重要文化財)などがある。
(京都検定テキスト)
(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)
本尊 阿弥陀如来
浄土宗京都四ヵ本山の一つ。山号・寺号はなく、浄華院と略称する。貞観二年
(八六〇)、清和天皇の勅願で、円仁(慈覚大師)が四宗兼学道場として禁裏内に開山し、十二世紀後半、法然が浄土宗に改めたという。寺地は、三条坊門高倉(高倉御池付近)、土御門室町(室町上立売付近)を経て、天正十三年(一五八五)に現在地に移転した。皇室や公家の崇敬が篤く、墓地には皇子や皇女の墓が数多くある。寺宝に南宋仏画の優品である阿弥陀三尊像(国宝)や、大殿(御影堂)に安置される秘仏泣不動尊の物語を描いた「泣不動縁起絵巻」(重要文化財)などがある。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
われながら今朝の散策は充実していました♫
こんな予定ではなかったのですが・・・。
鴨川も久しぶりに歩きました。
大学時代によく歩いたところだったので懐かしい。
散策が過ぎて予定オーバー
阿弥陀寺は訪れることができませんでした(-_-;)
その他の写真
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/d6a1adfa29d60a6f15c2801e5d28ca82
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