記録ID: 7277202
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ハイキング
京都・北摂
所用の後 法然上人ゆかりの寺へ [熊野神社、聖護院、須賀神社] 金戒光明寺、西雲院 [真如堂、吉田山]
2024年09月24日(火) [日帰り]


- GPS
- 02:36
- 距離
- 4.4km
- 登り
- 87m
- 下り
- 61m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:56
- 休憩
- 0:41
- 合計
- 2:37
距離 4.4km
登り 87m
下り 61m
11:24
33分
スタート地点
14:01
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
熊野神社
(左京区聖護院山王町)
祭神
伊弉冉命(イザナミノミコト)、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、天照大神、速玉男命、事解男命
熊野若王子神社(↓69頁)・新熊野神社(↓73頁)とともに京都三熊野社といわれており、中でも当社が最古の神社である。
弘仁二年(八一一)に修験道の始祖役行者の十世僧日圓が国家護持のために紀州熊野大神を勧請したといわれている。
応仁・文明の乱で荒廃したが、寛文六年(一六六六)には聖護院宮道寛法親王によって再興された。
本殿は天保六年(一八三五)に下鴨神社旧本殿を移築。
聖護院(↓175頁)の鎮守社であり、天台宗系本山派修験道の守護神として崇敬された。
長らく白川熊野社または熊野権現社といわれたが、明治維新以後は神仏分離により熊野神社と改称された。
縁結び・健康長寿・安産の神として信仰されている。
(京都検定テキスト)
(左京区聖護院山王町)
祭神
伊弉冉命(イザナミノミコト)、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、天照大神、速玉男命、事解男命
熊野若王子神社(↓69頁)・新熊野神社(↓73頁)とともに京都三熊野社といわれており、中でも当社が最古の神社である。
弘仁二年(八一一)に修験道の始祖役行者の十世僧日圓が国家護持のために紀州熊野大神を勧請したといわれている。
応仁・文明の乱で荒廃したが、寛文六年(一六六六)には聖護院宮道寛法親王によって再興された。
本殿は天保六年(一八三五)に下鴨神社旧本殿を移築。
聖護院(↓175頁)の鎮守社であり、天台宗系本山派修験道の守護神として崇敬された。
長らく白川熊野社または熊野権現社といわれたが、明治維新以後は神仏分離により熊野神社と改称された。
縁結び・健康長寿・安産の神として信仰されている。
(京都検定テキスト)
聖護院
本尊 不動明王
本山修験宗総本山。
円珍(智証大師)の流れを継ぐ三井寺(園城寺・滋賀県大津市)の増誉を開基とする。
昭和二十年(一九四五)まで天台宗寺門派(園城寺)に属していた。
増誉は寛治四年(一〇九〇)に白河上皇の熊野御幸の時に先達を承り、その功によって聖護院と熊野三山検校職を賜わり、あわせて修験道を統括した。
第四世に静恵法親王(後白河天皇の皇子)を迎えて門跡寺院となり、明治時代までに二十五人の法親王が入寺した。
応仁・文明の乱で焼失して洛北岩倉の解脱寺に移り、文明十三年(一四八一)には足利義政が当寺で出家して堂舎を整備したが、その後再び焼失。
現在地へは延宝四年(一六七六)に移転再建された。
書院(重要文化財)はその時御所から移されたという建造物。
御所の火災により天明八年(一七八八)から三年間、光格天皇の仮皇居であった。
一帯は「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
本尊の不動明王立像(重要文化財)をはじめ、修験道の祖役行者に「神変大菩薩」の号が下された光格天皇震翰(重要文化財)などの寺宝がある。
震殿には狩野永納らによる障壁画が残る。
(京都検定テキスト)
本尊 不動明王
本山修験宗総本山。
円珍(智証大師)の流れを継ぐ三井寺(園城寺・滋賀県大津市)の増誉を開基とする。
昭和二十年(一九四五)まで天台宗寺門派(園城寺)に属していた。
増誉は寛治四年(一〇九〇)に白河上皇の熊野御幸の時に先達を承り、その功によって聖護院と熊野三山検校職を賜わり、あわせて修験道を統括した。
第四世に静恵法親王(後白河天皇の皇子)を迎えて門跡寺院となり、明治時代までに二十五人の法親王が入寺した。
応仁・文明の乱で焼失して洛北岩倉の解脱寺に移り、文明十三年(一四八一)には足利義政が当寺で出家して堂舎を整備したが、その後再び焼失。
現在地へは延宝四年(一六七六)に移転再建された。
書院(重要文化財)はその時御所から移されたという建造物。
御所の火災により天明八年(一七八八)から三年間、光格天皇の仮皇居であった。
一帯は「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
本尊の不動明王立像(重要文化財)をはじめ、修験道の祖役行者に「神変大菩薩」の号が下された光格天皇震翰(重要文化財)などの寺宝がある。
震殿には狩野永納らによる障壁画が残る。
(京都検定テキスト)
須賀神社
(左京区聖護院円頓美町)
祭神
素妻鴫尊、櫛稲田比売命(須賀神社)久那斗神、八衝比古神(やちまたひこのかみ)、八衝比売神(やちまたひめのかみ)(交通神社)
西天王社と称し、貞観十一年(八六九)に播磨国広峰(兵庫県姫路市・広峰神社)より勧請されたという。
のちに鳥羽天皇皇后美福門院が創建した歓喜光院の鎮守とされた。
かつては現在の平安神宮のあたりに鎮座していたが、鎌倉時代末期に吉田神楽岡に遷座した。
元の社地に近い現在地に還座したのは大正十三年(一九二四)のことである。
昭和三十九年(一九六四)には、五柱の祭神から三柱の神を分祀し、交通安全の神として交通神社が創建された。
節分に授与される縁結びのお守り「懸想文」は有名。
また現在五月第二日曜に行われている神幸祭は、古くは角豆祭(ささげまつり)の名で知られ、かつては五月十日に行われていた。
(京都検定テキスト)
(左京区聖護院円頓美町)
祭神
素妻鴫尊、櫛稲田比売命(須賀神社)久那斗神、八衝比古神(やちまたひこのかみ)、八衝比売神(やちまたひめのかみ)(交通神社)
西天王社と称し、貞観十一年(八六九)に播磨国広峰(兵庫県姫路市・広峰神社)より勧請されたという。
のちに鳥羽天皇皇后美福門院が創建した歓喜光院の鎮守とされた。
かつては現在の平安神宮のあたりに鎮座していたが、鎌倉時代末期に吉田神楽岡に遷座した。
元の社地に近い現在地に還座したのは大正十三年(一九二四)のことである。
昭和三十九年(一九六四)には、五柱の祭神から三柱の神を分祀し、交通安全の神として交通神社が創建された。
節分に授与される縁結びのお守り「懸想文」は有名。
また現在五月第二日曜に行われている神幸祭は、古くは角豆祭(ささげまつり)の名で知られ、かつては五月十日に行われていた。
(京都検定テキスト)
金戒光明寺
(左京区黒谷町)
本尊 阿弥陀如来
山号は紫雲山。
通称「黒谷さん」として親しまれている。
浄土宗京都四ヵ本山の一つ。
比叡山を出た法然が承安五年(一一七五)に師の叡空から、この地にあった比叡山の白河禅房を譲られ、念仏道場としたのに由来するという。
法然の死後、紫雲山光明寺となった。さらに後光厳天皇から「金戒」の文字を賜わり、現称となった。伽藍は応仁・文明の乱以後、再々焼失したが、その都度再興された。
三重塔(重要文化財)は、徳川秀忠の菩提を弔うために寛永十年(一六三三)に建てられた。
現在京都市内にある重要文化財指定の三重塔は、清水寺の三重塔、子安塔(泰産寺三重塔)と併せて三塔のみ。
寺宝に「山越阿弥陀図」、「地獄極楽図」(ともに重要文化財)がある。
また、木造千手観音立像(重要文化財)は、吉備真備ゆかりの観音像で「吉備観音」と呼ばれ、洛陽三十三所観音霊場第六番札所の本尊になっている。
幕末、当寺は松平容保率いる会津藩の本陣であり、山上墓地北東には会津藩殉難者墓地がある。
(京都検定テキスト)
(左京区黒谷町)
本尊 阿弥陀如来
山号は紫雲山。
通称「黒谷さん」として親しまれている。
浄土宗京都四ヵ本山の一つ。
比叡山を出た法然が承安五年(一一七五)に師の叡空から、この地にあった比叡山の白河禅房を譲られ、念仏道場としたのに由来するという。
法然の死後、紫雲山光明寺となった。さらに後光厳天皇から「金戒」の文字を賜わり、現称となった。伽藍は応仁・文明の乱以後、再々焼失したが、その都度再興された。
三重塔(重要文化財)は、徳川秀忠の菩提を弔うために寛永十年(一六三三)に建てられた。
現在京都市内にある重要文化財指定の三重塔は、清水寺の三重塔、子安塔(泰産寺三重塔)と併せて三塔のみ。
寺宝に「山越阿弥陀図」、「地獄極楽図」(ともに重要文化財)がある。
また、木造千手観音立像(重要文化財)は、吉備真備ゆかりの観音像で「吉備観音」と呼ばれ、洛陽三十三所観音霊場第六番札所の本尊になっている。
幕末、当寺は松平容保率いる会津藩の本陣であり、山上墓地北東には会津藩殉難者墓地がある。
(京都検定テキスト)
【金戒光明寺塔頭】
酉翁院
本尊 阿弥陀如来
江戸時代初期の茶人、藤村庸軒(千宗旦の四天王の一人といわれる)好みの茶室澱看席(重要文化財)がある。
「道安囲い」または「宗貞囲い」と呼ばれる形式の茶室で、仕切壁によって点前座と客座が隔てられている。
席名は、山崎や淀の方が眺められたことによる。
(京都検定テキスト)
酉翁院
本尊 阿弥陀如来
江戸時代初期の茶人、藤村庸軒(千宗旦の四天王の一人といわれる)好みの茶室澱看席(重要文化財)がある。
「道安囲い」または「宗貞囲い」と呼ばれる形式の茶室で、仕切壁によって点前座と客座が隔てられている。
席名は、山崎や淀の方が眺められたことによる。
(京都検定テキスト)
八橋検校の碑
八橋検校の墓所は、浄土宗大本山・金戒光明寺の塔頭である常光院(左京区黒谷)にあります。常光院は「八はし寺」とも呼ばれ、検校の命日である毎年6月12日には法要が行われます。
八橋検校の墓所は、浄土宗大本山・金戒光明寺の塔頭である常光院(左京区黒谷)にあります。常光院は「八はし寺」とも呼ばれ、検校の命日である毎年6月12日には法要が行われます。
海北友松は、浅井家の重臣を父にもつ戦国の画家。
斎藤利三は、明智光秀の重臣。
東陽坊長盛は当時の真如堂住職。
本能寺を襲って主君・織田信長を葬った明智光秀は、いわゆる“中国大返し”で畿内へ急転回してきた羽柴秀吉らの軍勢と摂津山崎の地で戦い、敗れた後逃亡。
斎藤利三は近江の堅田に潜伏を捉えられ、京の六条河原において刑死しました。晒し首にされたその首は、生前、親交のあった海北友松と東陽坊が夜中に刑場へ忍び入り、強奪した首は手厚く葬られたとあります。
海北友松と東陽坊により逃がしてもらった利三の娘「ふく」は、3代将軍・徳川家光の乳母となり、春日局と呼ばれるようになります。
海北氏は名門近江源氏の嫡流の流れを汲む一族、また友松の作品は、京都祇園にある「建仁寺」の龍雲図などや京都「妙心院」の牡丹・梅・椿図などに残っています。
斎藤利三は、明智光秀の重臣。
東陽坊長盛は当時の真如堂住職。
本能寺を襲って主君・織田信長を葬った明智光秀は、いわゆる“中国大返し”で畿内へ急転回してきた羽柴秀吉らの軍勢と摂津山崎の地で戦い、敗れた後逃亡。
斎藤利三は近江の堅田に潜伏を捉えられ、京の六条河原において刑死しました。晒し首にされたその首は、生前、親交のあった海北友松と東陽坊が夜中に刑場へ忍び入り、強奪した首は手厚く葬られたとあります。
海北友松と東陽坊により逃がしてもらった利三の娘「ふく」は、3代将軍・徳川家光の乳母となり、春日局と呼ばれるようになります。
海北氏は名門近江源氏の嫡流の流れを汲む一族、また友松の作品は、京都祇園にある「建仁寺」の龍雲図などや京都「妙心院」の牡丹・梅・椿図などに残っています。
真如堂
(左京区浄土寺真如町)
本尊 阿弥陀如来
山号は鈴聲山。
正式には真正極楽寺。
円仁(慈覚大師)が阿弥陀如来を彫刻して延暦寺の常行堂に祀り、永観二年(九八四)に戒算が現在地近くにこの像を移したのに始まるという。
その後、伽藍が整備されたが応仁・文明の乱で焼失。
本尊を比叡山黒谷や穴太(滋賀県大津市)に避難させ、さらに洛中を転々とした後、現在地に再建された。
紅葉の名所として有名。
享保二年(一七一七)再建の本堂(重要文化財)は、京都市内の天台宗本堂として最大規模を誇る。
本尊阿弥陀如来立像(重要文化財)は、洛陽六阿弥陀巡りの一つ。
本堂の北西に洛陽三十三所観音霊場第五番札所の新長谷寺がある。
(京都検定テキスト)
(左京区浄土寺真如町)
本尊 阿弥陀如来
山号は鈴聲山。
正式には真正極楽寺。
円仁(慈覚大師)が阿弥陀如来を彫刻して延暦寺の常行堂に祀り、永観二年(九八四)に戒算が現在地近くにこの像を移したのに始まるという。
その後、伽藍が整備されたが応仁・文明の乱で焼失。
本尊を比叡山黒谷や穴太(滋賀県大津市)に避難させ、さらに洛中を転々とした後、現在地に再建された。
紅葉の名所として有名。
享保二年(一七一七)再建の本堂(重要文化財)は、京都市内の天台宗本堂として最大規模を誇る。
本尊阿弥陀如来立像(重要文化財)は、洛陽六阿弥陀巡りの一つ。
本堂の北西に洛陽三十三所観音霊場第五番札所の新長谷寺がある。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
所用の後
法然上人ゆかりの寺金戒光明寺、西雲院へ
京都洛陽三十三所観音霊場
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