記録ID: 7488079
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ハイキング
近畿
早朝の高野山🍁
2024年11月16日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:10
- 距離
- 2.8km
- 登り
- 8m
- 下り
- 31m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
おはようございます♪
いつもお世話になっている道の駅です。
この日は、山友さんのお誘いで奥辺路(分割)歩きます。
少し早めに自宅を出て、高野山の紅葉楽しんでから、待ち合わせ場所へ。
いつもお世話になっている道の駅です。
この日は、山友さんのお誘いで奥辺路(分割)歩きます。
少し早めに自宅を出て、高野山の紅葉楽しんでから、待ち合わせ場所へ。
登天の松と杓子の芝(とうてんのまつとしゃくしのしば)
如法(にょほう)上人が、久安5年(1149年)にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたそうです。ちょうどその折、斎食の用意をしていた弟子の小如法は、師匠が登天するのを見て、あわててその後を追って昇天されたそうです。その時、小如法の手には杓子が握られており、昇天の途中にこの杓子が落ちてきたそうです。
如法(にょほう)上人が、久安5年(1149年)にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたそうです。ちょうどその折、斎食の用意をしていた弟子の小如法は、師匠が登天するのを見て、あわててその後を追って昇天されたそうです。その時、小如法の手には杓子が握られており、昇天の途中にこの杓子が落ちてきたそうです。
山王院(さんのういん)
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、お大師さまが山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守として御社の拝殿として建立されたそうです。
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、お大師さまが山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守として御社の拝殿として建立されたそうです。
三鈷の松(さんこのまつ)
弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。
弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。
金剛峯寺大塔の鐘(高野四郎)(こうやしろう)
現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになったそうです。
現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになったそうです。
愛染堂(あいぜんどう)
建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。
三昧堂(さんまいどう)
済高(さいこう)座主(870年〜942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。
済高(さいこう)座主(870年〜942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。
東塔(とうとう)
大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。
大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。
蛇腹路(じゃばらみち)
伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。
伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。
金剛峯寺🙏
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指すことで、高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち51ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
金剛峯寺HPより。
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指すことで、高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。
山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金剛峯寺)に見立て、山内に建てられた子院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、そのうち51ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供しています。
金剛峯寺HPより。
大玄関(おおげんかん)
金剛峯寺の表玄関にあたるところで大玄関といいます。この門も、先の正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。
火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました天水桶(てんすいおけ)が、屋根の上にあります。
金剛峯寺HPより
金剛峯寺の表玄関にあたるところで大玄関といいます。この門も、先の正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。
火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました天水桶(てんすいおけ)が、屋根の上にあります。
金剛峯寺HPより
善女龍王社(ぜんにょりゅうおう)
明和年間のこと、干ばつが度々起こり、瑞相院慈光(ずいそういんじこう)というお方が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利(ぶっしゃり)を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです
明和年間のこと、干ばつが度々起こり、瑞相院慈光(ずいそういんじこう)というお方が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利(ぶっしゃり)を寄進し、蓮池の中島に小さな祠を建立しておまつりしたところ、たちまちに霊験が現れたそうです
撮影機器:
感想
この日は山友さんのお誘いで、分割の奥辺路。
待ち合わせ前に、早朝の静かな高野山の
紅葉楽しんできました。
写真説明は、金剛峯寺HPや案内をコピペ
させて頂きましたm(__)m
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