記録ID: 7614149
全員に公開
ハイキング
東海
覚王山日泰寺
2024年12月21日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:15
- 距離
- 7.1km
- 登り
- 31m
- 下り
- 33m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 6:29
- 休憩
- 0:04
- 合計
- 6:33
距離 7.1km
登り 31m
下り 33m
”人は死ぬと、その体重は21グラムだけ減る” という説がある 電磁波はエネルギーを持ち質量をもたないが物質に捕捉されると質量に変換される 思考や情報は人に取り込まれて質量を得て保存されているが死ぬと情報は電磁波などの形でピカーッと光を放って放出され光速で宇宙に発散して質量が減る などとりとめのない議論をしながら釈迦をしのび、先輩をしのび、不遇ではあったが楽しかった仕事を語りながら二人で丸1日さ迷い歩いた
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
歴史おたくの友人が日泰寺を案内するというので三ヶ日から名古屋へ向かう コロナ蔓延中なので混む電車は避けて高速バスでの移動を思い付いた バスならば同乗者はmax50人程度で感染リスクが小さい、しかも目的地に1発で到着のGood Idea! 料金も2/3
バス停付近のツルウメモドキ?
バスは来たが若い女の子で一杯だった ここからいけるのは豊田まで 豊田以降は満員、そこで本宿迄高速バスで行き、本宿から名鉄乗り換えを選択 予約すべし
帰路の予約に挑戦したがすでに夕方までは満車なので断念
バスは来たが若い女の子で一杯だった ここからいけるのは豊田まで 豊田以降は満員、そこで本宿迄高速バスで行き、本宿から名鉄乗り換えを選択 予約すべし
帰路の予約に挑戦したがすでに夕方までは満車なので断念
予定より20分遅れで覚王山駅に到着 今日は縁日なので駅前は普段より数倍の人通りとのこと 友人は日泰寺の後、移動して別の場所も案内するため2時間前に車で到着し、無料駐車場を確保し、寒さをしのぐためすでに15,000歩 歩き回っていた。
日泰寺が見えた 以下は友人の案内を思い出しながら日泰寺のHPの説明を引用
1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウィリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蠟石の壺を発見した。 その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。
1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウィリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蠟石の壺を発見した。 その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。
これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を8つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。
当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰は太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。 そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」実在が立証されたわけであり、まことに19世紀東洋史上の一大発見であったわけである。
その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、「釈尊」の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。 時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。 この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於てこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。
稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)副使に日置黙仙(曹洞宗後に永平寺貫主)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於てチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国々宝の一千年を経た釈尊金銅佛一軀を下賜された。
奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集まって新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に功を奏しようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。 ここに於て名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す”覚王”を山号とし、日タイの友好を象徴する日泰寺の寺号をもった現在の覚王山日泰寺が誕生したわけである。
釈尊御真骨を安置する「奉安塔」は東大教授伊東忠太の設計によって、ガンダーラ様式の壮麗なる花崗岩の佛塔で大正7年に完成し屹立した偉容を誇っている。 以来漸次伽藍整備が行なわれてきたが、昭和59年、現在の大本堂落成に際し、7月16日、本堂建築の任に当った鷲見弘明日泰寺代表役員と斡旋の労をとった江崎真澄国務大臣は招きをうけてバンコク王宮に伺候、タイ国々王プミポン陛下の謁見をうけ、新本堂完成の御報告を申しあげたところ、懇切なる御祝辞とともに金銅釈迦如来像一体と直筆の勅額一面を頂戴した。 勅額は本堂外陣正面に掲げられタイ文字で「釈迦牟尼佛」と記され両側にはプミポン、チュラロンコン両帝の御紋章が輝いている。
この寺院は成立の性格上日本佛教徒全体の寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当っては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職をつとめ、各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている、日本でも唯一の全佛教寺院として特異な存在である。
本尊釈迦如来像
明治三十三年タイ国王チュラロンコーン陛下より、贈られた一千年を経たタイ国宝の金銅佛
勅額
外陣正面の勅額は新本堂落慶を祝し、現国王プミポン陛下より贈られたもので、タイ文字で釈迦牟尼仏居所と記されてある
五十九年十月吉月
明治三十三年タイ国王チュラロンコーン陛下より、贈られた一千年を経たタイ国宝の金銅佛
勅額
外陣正面の勅額は新本堂落慶を祝し、現国王プミポン陛下より贈られたもので、タイ文字で釈迦牟尼仏居所と記されてある
五十九年十月吉月
日タイ修好135周年記念『チェンライ象のオブジェ』
チェンライ象は、タイ王国大使館が、 日タイ修好135周年記念事業として、 タイを代表する動物 「象」 のオブジェを寄贈する事業を行い、両国の良好な関係を象徴する日泰寺に贈与された。
チェンライ象は、タイ王国大使館が、 日タイ修好135周年記念事業として、 タイを代表する動物 「象」 のオブジェを寄贈する事業を行い、両国の良好な関係を象徴する日泰寺に贈与された。
舎利殿の向こうに奉安塔の一部が見える
1918年(大正7年)完成。高さ15m。愛知県文化財指定。 東大教授伊東忠太氏設計による、ガンダーラ様式の花崗岩の佛塔で2階部分に仏舎利(ぶっしゃり)が安置されている。 奉安塔前には礼拝殿があり、法要が執り行われる。
1918年(大正7年)完成。高さ15m。愛知県文化財指定。 東大教授伊東忠太氏設計による、ガンダーラ様式の花崗岩の佛塔で2階部分に仏舎利(ぶっしゃり)が安置されている。 奉安塔前には礼拝殿があり、法要が執り行われる。
奉安塔内図
釈尊御真骨奉安塔
◆お釈迦様のご真骨は塔の中に安置してあります。
◆日泰寺にご納骨のお骨は奉安塔の裏にお祀りしてあります。
◆柵の中には入れませんので柵外での参拝をお願いします。
釈尊御真骨奉安塔
◆お釈迦様のご真骨は塔の中に安置してあります。
◆日泰寺にご納骨のお骨は奉安塔の裏にお祀りしてあります。
◆柵の中には入れませんので柵外での参拝をお願いします。
東山給水塔
日泰寺から名古屋市水道局の水の歴史資料館に向かう
覚王山は日泰寺の山号で、山号とは仏教の寺院の名前に冠する称号、その寺院がある場所の山の名前を指すことが多いが日泰寺は釈尊を表す「覺王」を山号にした。そして山号が地名になった。
日泰寺から名古屋市水道局の水の歴史資料館に向かう
覚王山は日泰寺の山号で、山号とは仏教の寺院の名前に冠する称号、その寺院がある場所の山の名前を指すことが多いが日泰寺は釈尊を表す「覺王」を山号にした。そして山号が地名になった。
旧巾下水道図
明治44(1911)年 名古屋市鶴舞(つるま)中央図書館蔵 複製品
明治時代になって作成された幅下水道の概略図。
名古屋城の堀から2カ所取水口を設け、大樋・小樋・孫樋とそれぞれサイズの異なる水道管で水が引かれていました。
大水枡は地上に開口してはね蓋がついており、水を汲んだり内部の掃除をしたりできるようになっていました。
明治44(1911)年 名古屋市鶴舞(つるま)中央図書館蔵 複製品
明治時代になって作成された幅下水道の概略図。
名古屋城の堀から2カ所取水口を設け、大樋・小樋・孫樋とそれぞれサイズの異なる水道管で水が引かれていました。
大水枡は地上に開口してはね蓋がついており、水を汲んだり内部の掃除をしたりできるようになっていました。
ベンチュリーメータ (Venturi Meter)
創設期の水道施設には、 ポンプやモータなど外国から輸入された機械製品が多く使われており、水道の幹線流量を計測する大口径のメータにも外国製品が使われていました。
創設期の水道施設には、 ポンプやモータなど外国から輸入された機械製品が多く使われており、水道の幹線流量を計測する大口径のメータにも外国製品が使われていました。
伝馬町雨水ポンプインペラ (羽根車)
Pump impeller at Tenmacho pump station
熱田東分場 (現在の伝馬町水処理センター) で使用
されていた1100ミリ軸流ポンプ2台のうちの1で、昭和9(1934) 年製。 東部幹線区域及び南区豊田町などの一部の雨水を新堀川に排出するために使用したものです。
Pump impeller at Tenmacho pump station
熱田東分場 (現在の伝馬町水処理センター) で使用
されていた1100ミリ軸流ポンプ2台のうちの1で、昭和9(1934) 年製。 東部幹線区域及び南区豊田町などの一部の雨水を新堀川に排出するために使用したものです。
外人の参拝客と仏像
鉈薬師(なたやくし)
寛文九年(1669)明国の帰化人張甫が、上野上野村(現、千種区上野)の永弘院にあった薬師堂を、尾張二代藩主徳川光友の援助を得て移したもので、医王堂ともいわれる。堂内には本尊の薬師如来座像のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝えられる日光・月光の二菩薩、守護神の十二神将の像が安置してある。
鉈薬師(なたやくし)
寛文九年(1669)明国の帰化人張甫が、上野上野村(現、千種区上野)の永弘院にあった薬師堂を、尾張二代藩主徳川光友の援助を得て移したもので、医王堂ともいわれる。堂内には本尊の薬師如来座像のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝えられる日光・月光の二菩薩、守護神の十二神将の像が安置してある。
日泰寺に戻って毎日12:30から行われている永代経法要に参列し、椅子に腰かけて約1時間、約10人のお坊さんの読経を体が傾くのを感じながら聞いた 室内撮影は控えた
参道に戻り”えいこく屋”で昼食
参道に戻り”えいこく屋”で昼食
揚輝荘 聴松閣 揚輝荘は、昭和初期に建設された名古屋の郊外別荘の代表作。別荘の主人は、松坂屋の初代社長である伊藤次郎左衛門祐民氏。大正から昭和初期にかけ覚王山の丘陵地1万坪に、建物と庭園がつくられた。当時は、政財界、文化人だけでなく、留学生も含めた国際的な交流の場となっていた。名古屋市を代表する歴史的建造物として、5つの建造物が市指定有形文化財に指定されている。
名古屋駅近くのトヨタ産業技術記念館に移動
トヨタグループ館
このトヨタグループ館は、1925年(大正14年)に建設 された豊田紡織本社事務所を、 建設当時の状態に修復したものです。 ここでは、 豊田自動織機製作所(現豊 田自動織機) やトヨタ自動車工業 (現トヨタ自動車) の創立総会などが開催されております。 なお、この地は 1911年(明治44年)、 豊田佐吉が、 発明の足場として、 独立自営の豊田自動織布工業を設立し、 後に豊田紡織本社となった場所であり、トヨタグループの発祥地でもあります。
トヨタグループ館
このトヨタグループ館は、1925年(大正14年)に建設 された豊田紡織本社事務所を、 建設当時の状態に修復したものです。 ここでは、 豊田自動織機製作所(現豊 田自動織機) やトヨタ自動車工業 (現トヨタ自動車) の創立総会などが開催されております。 なお、この地は 1911年(明治44年)、 豊田佐吉が、 発明の足場として、 独立自営の豊田自動織布工業を設立し、 後に豊田紡織本社となった場所であり、トヨタグループの発祥地でもあります。
豊田式糸繰返機
トヨタグループの創起、豊田商店の開業となった発明で、大変好評を得た。これにより人力織機の発明につづく研究開発費を得ることができ、豊田式汽力織機の誕生に繋がった。
トヨタグループの創起、豊田商店の開業となった発明で、大変好評を得た。これにより人力織機の発明につづく研究開発費を得ることができ、豊田式汽力織機の誕生に繋がった。
自動織機の緯糸(よこいと)を運ぶシャットルと自動交換メカ 写真では茶色いシャットルが9個収まっている 中のボビンに巻いた緯糸が少なくなるとシャットルごと運転を止めずに自動交換する豊田佐吉の発明品
蒸気機関
製造: スルザーブラザーズ社(スイス)、 1898年製
形式:クロスコンパウンド (十字複式)
出力: 500馬力 (発電機出力: 286kVA)
経歴: 本機は製造されて以来ドイツの繊維工場で使用されました。 1902年 からは発電用に整備してシュトゥットガルド近郊の製材工場で稼動しま した。 1976年からは貴重な産業遺産として保存されていましたが、 産業遺産の保存と活用を行う当館の主旨に賛同し、2005年に譲りうけました。 この地にあった豊田自動紡織工場でも動力の不足を補うために、1914年から同社製の蒸気機関を使用していました。
製造: スルザーブラザーズ社(スイス)、 1898年製
形式:クロスコンパウンド (十字複式)
出力: 500馬力 (発電機出力: 286kVA)
経歴: 本機は製造されて以来ドイツの繊維工場で使用されました。 1902年 からは発電用に整備してシュトゥットガルド近郊の製材工場で稼動しま した。 1976年からは貴重な産業遺産として保存されていましたが、 産業遺産の保存と活用を行う当館の主旨に賛同し、2005年に譲りうけました。 この地にあった豊田自動紡織工場でも動力の不足を補うために、1914年から同社製の蒸気機関を使用していました。
トヨタ産業技術記念館の近くの名古屋発祥のフルサービス型喫茶店”コメダ珈琲”に移動 ジェリコ(ジェリー&コーヒー)を飲みながら会社生活を振り返り長い談笑 今日案内してくれた友人とは2001年から2021年までの間のかなりの期間断続的に一緒に仕事をした。
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