記録ID: 7675326
全員に公開
ハイキング
葛城高原・二上山
葛城二十八宿経塚巡行【復刻再編版】大坂越えー 第27番経塚 逢坂の元地探索その1 索、
2016年06月01日(水) [日帰り]


- GPS
- --:--
- 距離
- 5.4km
- 登り
- 61m
- 下り
- 73m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:40
- 休憩
- 0:27
- 合計
- 2:07
距離 5.4km
登り 61m
下り 73m
10:50
6分
10:50 二上神社口発
10:56
11:07
0分
10:56 二上神社 11:07
11:24
37分
畑
12:01
2分
西穴虫
12:03
3分
12:03、二上村道路元標
12:06
4分
12:06、大の松の墓
12:10
12:15
11分
穴虫墓地
12:26
9分
12:26、穴虫の地蔵堂
12:35
7分
大坂山口神社鳥居
12:42
1分
12:42弘法大師堂
12:43
12:47
3分
12:43、大坂山口神社(穴虫)
12:50
PMに接続
葛城二十八宿経塚巡行で、二上山から第26番経塚・逢坂に向かう時、畑の春日神社に下山したが、それはやっぱり二上神社のある加守に下るべきではないかと思って加守に行ってきた。さらに、第26番経塚逢坂を調べて行くうちに、古来より大和からの行き来に「大坂山」や「大坂越え」が重要な役割を果たしていたこと、関連して、長尾街道や長谷みちなどが発展してきて、それに伴い、行者さんの道も影響を受けたであろうと思えてきた。
今では、大坂越え=穴虫峠とピンポイントに説明する考えが主流のようなのだが、地図に描かれた穴虫峠に囚われず、「大坂越え」はもっと広く、北の関屋越えから南の穴虫越を含み、穴虫の大坂山口神社から始まる長い峠越えだったと捉えてみたい。
穴虫から、穴虫越えや関屋越え、田尻越えの地形をみると、穴虫の大坂山口神社を始点に、ゆるやかな登りが始まり、新旧の長尾街道や太子道を通って河内各所へ越えてゆくスタイルになっている。この穴虫の大坂山口神社を大坂越えの起点としなくてどうするという思いだ。
記紀の記事にある、
・天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭った(日本書紀崇神9年3月条)
・崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った(古事記)
・天武天皇八(679)年十一月に竜田山と大坂山に関を置いた(日本書紀)
というのは穴虫の大坂山口神社の背後の峠、山が最もふさわしいと思う。
葛城二十八宿経塚巡行の観点からいえば、鎌倉初期の巡行記録、諸山縁起では、『大坂の隣下(とうげ)』(付近に)経塚があるとされている。さらに、幕末の葛嶺雑記では村中(逢坂のことか?)に経塚があるとされる。すなわち、経塚巡行コースを今ある旧ダイトレに沿って屯鶴峰付近即ち田尻峠を通ったものとの解釈をして、第二十七番経塚のあった峠付近は現経塚のある逢坂の個人宅と離れ過ぎるから移設されたとの意見が多いようだ。その経塚元地は穴虫の大坂山口神社(逢坂でもいいけど)からのゆるやかな山地に登った峠付近にあったのではないかと仮説して、峠道を探ってみたい。
今回は加守の二上神社から長谷道で畑、畑から長尾街道に入って穴虫西の峠まで歩いて、「大坂越え」の探索に接続した。もとより、大昔の道筋など確定しようもないのだが、それでも近辺を歩いて、あれこれ推定するのは楽しいものだ。それが古道歩きの醍醐味とも言える。
■コースタイム
-----------今回報告---------------
10:50 二上神社口発
10:56 二上神社 11:07
11:35 二上山駅昼食■11:49
11:53 志満堂間違いの地蔵
12:10 穴虫西墓地阿弥陀さん 12:18
12:24 穴虫地蔵石仏・太子道
12:35 大坂山口神社南参道鳥居
12:43 大坂山口神社
------------次回報告--------------
13:09 郡ヶ池
13:35 田尻峠/穴虫峠分岐■13:53
13:58 太子道磨崖仏 14:09
14:19 穴虫峠馬頭観音 14:30
14:50 田尻峠/穴虫峠分岐■15:07
15:26 大坂山口神社南参道鳥居
15:38 穴虫踏切
15:49 長尾街道・伊勢街道分岐地蔵台座道標
16:00 関屋
16:09 関屋八幡神社
16:21 関屋駅
15km
-----------------------------------------------------------------------------------
■対応元記事
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-f163.html
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-9ea2.html
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-7ec6.html
※※以上3記事が元になるが、少し改変して、AMを本記事にまとめ、PMは次の記事にまとめた。
今では、大坂越え=穴虫峠とピンポイントに説明する考えが主流のようなのだが、地図に描かれた穴虫峠に囚われず、「大坂越え」はもっと広く、北の関屋越えから南の穴虫越を含み、穴虫の大坂山口神社から始まる長い峠越えだったと捉えてみたい。
穴虫から、穴虫越えや関屋越え、田尻越えの地形をみると、穴虫の大坂山口神社を始点に、ゆるやかな登りが始まり、新旧の長尾街道や太子道を通って河内各所へ越えてゆくスタイルになっている。この穴虫の大坂山口神社を大坂越えの起点としなくてどうするという思いだ。
記紀の記事にある、
・天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭った(日本書紀崇神9年3月条)
・崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った(古事記)
・天武天皇八(679)年十一月に竜田山と大坂山に関を置いた(日本書紀)
というのは穴虫の大坂山口神社の背後の峠、山が最もふさわしいと思う。
葛城二十八宿経塚巡行の観点からいえば、鎌倉初期の巡行記録、諸山縁起では、『大坂の隣下(とうげ)』(付近に)経塚があるとされている。さらに、幕末の葛嶺雑記では村中(逢坂のことか?)に経塚があるとされる。すなわち、経塚巡行コースを今ある旧ダイトレに沿って屯鶴峰付近即ち田尻峠を通ったものとの解釈をして、第二十七番経塚のあった峠付近は現経塚のある逢坂の個人宅と離れ過ぎるから移設されたとの意見が多いようだ。その経塚元地は穴虫の大坂山口神社(逢坂でもいいけど)からのゆるやかな山地に登った峠付近にあったのではないかと仮説して、峠道を探ってみたい。
今回は加守の二上神社から長谷道で畑、畑から長尾街道に入って穴虫西の峠まで歩いて、「大坂越え」の探索に接続した。もとより、大昔の道筋など確定しようもないのだが、それでも近辺を歩いて、あれこれ推定するのは楽しいものだ。それが古道歩きの醍醐味とも言える。
■コースタイム
-----------今回報告---------------
10:50 二上神社口発
10:56 二上神社 11:07
11:35 二上山駅昼食■11:49
11:53 志満堂間違いの地蔵
12:10 穴虫西墓地阿弥陀さん 12:18
12:24 穴虫地蔵石仏・太子道
12:35 大坂山口神社南参道鳥居
12:43 大坂山口神社
------------次回報告--------------
13:09 郡ヶ池
13:35 田尻峠/穴虫峠分岐■13:53
13:58 太子道磨崖仏 14:09
14:19 穴虫峠馬頭観音 14:30
14:50 田尻峠/穴虫峠分岐■15:07
15:26 大坂山口神社南参道鳥居
15:38 穴虫踏切
15:49 長尾街道・伊勢街道分岐地蔵台座道標
16:00 関屋
16:09 関屋八幡神社
16:21 関屋駅
15km
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■対応元記事
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-f163.html
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-9ea2.html
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2016/06/post-7ec6.html
※※以上3記事が元になるが、少し改変して、AMを本記事にまとめ、PMは次の記事にまとめた。
過去天気図(気象庁) | 2016年06月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
今回は、近鉄新田辺−橿原神宮経由にしてみた。出るのが遅かったせいもあるが、予想通り時間がかかって、10:50、二上神社口到着。奈良に行くのに天王寺まで出なアカンというのがどうも釈然としない。
しかたなく、ゆるやかな坂道を二上神社に向かう。
しかたなく、ゆるやかな坂道を二上神社に向かう。
先程の案内板や扁額を見ると、3社が合祀されているのか。合祀とはいえ、センターは倭文神社で、二上神社はサブなのか。
そうすると、二上神社口の「二上神社」は雄岳山頂の「葛木坐二上神社」のことか。ご祭神 豊布都霊神(トヨフツミタマ)又の名 建御雷神(タケミカヅチ)、さらに 大国御魂神(オオクニミタマ)を祀る。記紀に、タケミカヅチは国譲りの時、抵抗するオオクニヌシの御子・タケミナカタと力比べをして勝ち、信州諏訪の地に追ったとある、その建御雷神か。
大国御魂神は、建速佐男神(多分、速須佐之男(スサノオ)のこと)の孫(多分、曽孫)のことだろう。そもそも、大國御魂神は「国土の神霊の意」で、大和の守護神・鎮守神だろう。
そうすると、二上神社口の「二上神社」は雄岳山頂の「葛木坐二上神社」のことか。ご祭神 豊布都霊神(トヨフツミタマ)又の名 建御雷神(タケミカヅチ)、さらに 大国御魂神(オオクニミタマ)を祀る。記紀に、タケミカヅチは国譲りの時、抵抗するオオクニヌシの御子・タケミナカタと力比べをして勝ち、信州諏訪の地に追ったとある、その建御雷神か。
大国御魂神は、建速佐男神(多分、速須佐之男(スサノオ)のこと)の孫(多分、曽孫)のことだろう。そもそも、大國御魂神は「国土の神霊の意」で、大和の守護神・鎮守神だろう。
大和からみて(河内からみてもだけど)二上山は国の神霊を祀るにふさわしい姿の山だ。一度見たら忘れられない秀麗さで、金剛山、葛城山以上に引きつける姿を持っている。ここに沈む夕陽をみた(近鉄電車の中から)ことがあるが、それはそれはすばらしく、信仰心の希薄な者でも虜にする姿だった。こういうことで二上山へのいろんな信仰も生まれてきたのだろう。
さて、倭文神社。葛木倭文坐天羽雷命神社。倭文(シトリ)とは、コウゾ・麻・苧(カラムシ)などの繊維を赤・青などの原色で染め、それを横糸として織りあげたわが国固有の古代織物らしい。この倭文織りの守護神が倭文神で、この神を祖神として倭文織りを業とする倭文部(シトリベ)の一族が居たのかもしれないが、詳細不明。要は、織物の神で、加守のすぐ北にある「畑」が、機織りの機(ハタ)の転訛である可能性は高いという。
加守(掃守)神社。 加守というのは掃守ということらしい。掃守とは、古代宮中で掃除・お産などにかかわることを職としていたといわれ、その祖・忍人命が皇子の生誕に際して近寄ってくる蟹を払った(掃除した)ということだが、後産によって出てくる胎盤を蟹といったので胎盤を処理する意味もあるらしい。一方では、いや「蟹が逃げ出すのを防ぐ」とか、「蟹が甲を脱いで生命を更新する霊的動物と信じられたため、赤児の長寿を願ったもの」という説もあるらしい。
その蟹守が転じて加守とい社名や地名になっているのか。
以上参考:http://www.y-tohara.com/nara-amenohazuchi.html
せっかくお参りしたのだから、せめこの位は調べておかないと・・・WEBもいろいろだが、しっかり調べてくれているサイトもあるのでね。
さて、倭文神社。葛木倭文坐天羽雷命神社。倭文(シトリ)とは、コウゾ・麻・苧(カラムシ)などの繊維を赤・青などの原色で染め、それを横糸として織りあげたわが国固有の古代織物らしい。この倭文織りの守護神が倭文神で、この神を祖神として倭文織りを業とする倭文部(シトリベ)の一族が居たのかもしれないが、詳細不明。要は、織物の神で、加守のすぐ北にある「畑」が、機織りの機(ハタ)の転訛である可能性は高いという。
加守(掃守)神社。 加守というのは掃守ということらしい。掃守とは、古代宮中で掃除・お産などにかかわることを職としていたといわれ、その祖・忍人命が皇子の生誕に際して近寄ってくる蟹を払った(掃除した)ということだが、後産によって出てくる胎盤を蟹といったので胎盤を処理する意味もあるらしい。一方では、いや「蟹が逃げ出すのを防ぐ」とか、「蟹が甲を脱いで生命を更新する霊的動物と信じられたため、赤児の長寿を願ったもの」という説もあるらしい。
その蟹守が転じて加守とい社名や地名になっているのか。
以上参考:http://www.y-tohara.com/nara-amenohazuchi.html
せっかくお参りしたのだから、せめこの位は調べておかないと・・・WEBもいろいろだが、しっかり調べてくれているサイトもあるのでね。
畑の村中をちょっとウロウロしかけたのだが、時間も時間なのでお預け。ちょっといい路地があった。11:45、前に通ったことのある酒屋さん。
R165を渡って大坂山口神社のほうに行きかけたがちょっと思い直して、陸橋から引き返す。駅前でパンを買って食べた。さて、これから、近くにあるという志満堂の地蔵さんを見に行く。
街歩きの時は、いつもは大まかに行き先だけ決めて、アプローチはほとんど気ままに歩くのだが、その行き先がまだあいまいだ。まだ、街歩きの調子が出て来ない。
R165を渡って大坂山口神社のほうに行きかけたがちょっと思い直して、陸橋から引き返す。駅前でパンを買って食べた。さて、これから、近くにあるという志満堂の地蔵さんを見に行く。
街歩きの時は、いつもは大まかに行き先だけ決めて、アプローチはほとんど気ままに歩くのだが、その行き先がまだあいまいだ。まだ、街歩きの調子が出て来ない。
野道を歩いて行く。キレイな花が咲いていると思ったら、キンケイギクだった。いや、オオキンケイギクだろう。オオキンケイギクは特定外来生物で栽培禁止になっているはずだ。今、どんどん野生化している。今はどうかしらないが、昔はキンケイギクもオオキンケイギクも近縁のホソバハルシャギクもキンケイギクとして売られていたそうなので、それがオオキンケイギクの広がりに拍車をかけたようだ。近縁種との交配もするらしく、一見して区別がよくわからないらしい。インパクトのある黄色で群落をなしているとそこそこキレイなのでどうしても残してしまうと思う。自宅の近所の個人宅の崖にも野生化したのが生えている。なお、ピンクの花は知らない。
それで、お地蔵さん?(11:54)
祠にはヨシズを被っていたので開けてみると・・・・どうも事前に写真で見たのと違う。後で調べてみると、志満堂の地蔵さんとは違った。もう少し先の個人宅の裏手にある、と描いてあった。後のまつり。
祠にはヨシズを被っていたので開けてみると・・・・どうも事前に写真で見たのと違う。後で調べてみると、志満堂の地蔵さんとは違った。もう少し先の個人宅の裏手にある、と描いてあった。後のまつり。
帰り際にすぐ近くの個人宅の横に祠があったので寄ってみた。庚申塔だった。立派なものだ。脇には道があって、畑の春日神社から続いているので、穴虫の長尾街道に接続する山麓道だったのだろう。
西穴虫の阿弥陀さんを見に行く。
12:08、国道を少し歩いて峠付近に来た。(新)長尾街道の、穴虫における峠部分。ひそかにここが「穴虫峠」だったのではないかと思ったりする。穴虫の人たちからすれば、今の地図に載っている穴虫峠など、なんで穴虫やねん、ということだろう。行政的には穴虫だろうが、太子峠といった方がよいのでは?それに河内から見た呼び名だし。
ここが西穴虫墓地だ。ここには阿弥陀様がいらっしゃる。
12:08、国道を少し歩いて峠付近に来た。(新)長尾街道の、穴虫における峠部分。ひそかにここが「穴虫峠」だったのではないかと思ったりする。穴虫の人たちからすれば、今の地図に載っている穴虫峠など、なんで穴虫やねん、ということだろう。行政的には穴虫だろうが、太子峠といった方がよいのでは?それに河内から見た呼び名だし。
ここが西穴虫墓地だ。ここには阿弥陀様がいらっしゃる。
墓地の一番奥まったあたりに大きめのお堂があり、そこに阿弥陀様が安置されていた。
高さ105cmというので結構大きい。天文17年(1548)の銘があるという。元々は国道向うの池の辺りにあったのを、近鉄線施設のためこちらに移設されたという。
高さ105cmというので結構大きい。天文17年(1548)の銘があるという。元々は国道向うの池の辺りにあったのを、近鉄線施設のためこちらに移設されたという。
街道筋から少し外れても、とてつもない大きなお屋敷がある。今の穴虫西は昔は西垣内といった(明治44年の地図にある)ようだ。穴虫東(馬場)も含めて、新旧長尾街道筋に面しているので運送にかかわる仕事や当麻詣、長谷詣などの参拝客相手の商売で栄えたらしい。また、穴虫は古代より研磨剤の原料となる金剛砂の産地であり、それで商いする商人も活躍しただろう。
路傍に咲いていた鮮やかなホタルブクロ。ボクがよく見たのはもっと白い花なのだが、地域性があるのか?
ここでいったん穴虫の大坂山口神社に戻り 引き続いて、「大坂越え」の探索に入るつもりだ。
ここでいったん穴虫の大坂山口神社に戻り 引き続いて、「大坂越え」の探索に入るつもりだ。
鳥居を振り返ってみると、正面に二上山が見えた。
ははーん、馬場の人が遥拝にくるのか。いや、二上山から神様が降りてきて、鳥居を通って、里宮・大坂山口神社を訪れるのだろう。そのための正面参道。当然ながら、長尾街道を行く人や、穴虫西の人がお参りする道でもあるんだろう。
ははーん、馬場の人が遥拝にくるのか。いや、二上山から神様が降りてきて、鳥居を通って、里宮・大坂山口神社を訪れるのだろう。そのための正面参道。当然ながら、長尾街道を行く人や、穴虫西の人がお参りする道でもあるんだろう。
大師堂
すばらしい参道だった。人々がお参りする参道であると同時に、まさに、神が降臨する道だという感じがした。
晴徨雨読「穴虫考」によれば、今下ってきた参道の谷は別所ヶ谷、その東の丘はゴボ山(御坊山)というらしい。
例えば、別所ヶ谷:http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/8bce9b1d53f05e7504fd8b0f52bb907f
・http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/d4fe6d8e15b5c1d69d0c0b969d642cf7
・http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/35d8e90f9ca00c7e622142d3afb4fcbe
その御坊山突端には大師堂と泉がある。泉の裏手にある石碑の一つには、「檀特山」(インド仏教の修行の地)と彫られていた。神社だけでなく仏教の聖地でもあるような感じだ。
話を葛城修験に戻すが、この穴虫近辺の徘徊を思い立ったのは、葛城二十八宿経塚巡行で、第28番経塚がなぜ逢坂の個人宅にあるのか?ということから始まっている。その経塚はどこからか移設されたらしく、元あったのは穴虫峠(ダイトレの先の)ではないかという考えがあるようだ。この大坂山口神社とその裏手の谷参道、それを取り巻く丘をみていると、こんなところにこそ経塚を置かんかね?という気がしてくる。特に、参道を登っていった鳥居あたり、さらにその周辺の丘あたり。丘に登れば、二上山は間違いなく見えるし、明神山も見えんかな?
すばらしい参道だった。人々がお参りする参道であると同時に、まさに、神が降臨する道だという感じがした。
晴徨雨読「穴虫考」によれば、今下ってきた参道の谷は別所ヶ谷、その東の丘はゴボ山(御坊山)というらしい。
例えば、別所ヶ谷:http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/8bce9b1d53f05e7504fd8b0f52bb907f
・http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/d4fe6d8e15b5c1d69d0c0b969d642cf7
・http://blog.goo.ne.jp/highdyaki/e/35d8e90f9ca00c7e622142d3afb4fcbe
その御坊山突端には大師堂と泉がある。泉の裏手にある石碑の一つには、「檀特山」(インド仏教の修行の地)と彫られていた。神社だけでなく仏教の聖地でもあるような感じだ。
話を葛城修験に戻すが、この穴虫近辺の徘徊を思い立ったのは、葛城二十八宿経塚巡行で、第28番経塚がなぜ逢坂の個人宅にあるのか?ということから始まっている。その経塚はどこからか移設されたらしく、元あったのは穴虫峠(ダイトレの先の)ではないかという考えがあるようだ。この大坂山口神社とその裏手の谷参道、それを取り巻く丘をみていると、こんなところにこそ経塚を置かんかね?という気がしてくる。特に、参道を登っていった鳥居あたり、さらにその周辺の丘あたり。丘に登れば、二上山は間違いなく見えるし、明神山も見えんかな?
撮影機器:
感想
穴虫周辺をうろうろしてみて、「大坂越え」は確かに穴虫の大坂山口神社から始まっていると思った。大坂越え=河内国境の穴虫峠とピンポイントに説明する考えが主流のようなのだが、地図に描かれた穴虫峠は今の行政の都合ではないか?それより、「大坂越え」はもっと広く、北の関屋越えから南の穴虫越を含み、穴虫の大坂山口神社から始まる長い峠越えだったと捉えたほうが自然に思う。
記紀の記事に・・・・
・天皇が大和の西の守護神として「大坂神」を祭った(日本書紀崇神9年3月条)
・崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った(古事記)
・天武天皇八(679)年十一月に竜田山と大坂山に関を置いた(日本書紀)
とあるが、当時のヤマト王権がそう設定したのも大いにうなずける。
穴虫の大坂山口神社の裏手の谷みちは、清澄で歩いても楽しい道だったが、その峠を登り切ると二上山を望める。まさに神様の通り道にふさわしい。さらに、登っていくと穴虫西を通り、長尾街道の峠を経て、まんじゅう橋の道標地蔵に至る。この道こそ(狭義の)大坂越えではないかと強く思った次第である。
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