記録ID: 7727544
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ハイキング
丹沢
鐘ヶ嶽と小田急ロマンスカーEXEα
2025年01月23日(木) [日帰り]



体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:28
- 距離
- 3.0km
- 登り
- 284m
- 下り
- 283m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:17
- 休憩
- 0:11
- 合計
- 1:28
距離 3.0km
登り 284m
下り 283m
13:05
ゴール地点
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 自家用車
|
その他周辺情報 | ニノ足林道ゲート〜山の神沢広場 頑丈なニノ足林道ゲートから山の神沢広場まではアスファルト舗装の林道歩き 山の神沢広場はトンネル入口から左手の広場 ここにはプレハブトイレも完備 山の神沢広場〜山ノ神峠 この登山の核心部 クサリ場の連続する足元の悪い崖をトラバースしながら登る 山の神沢広場から歩き出しすぐに足元が少し崩壊したロープ場に差し掛かる 崩落した段差とザレがあるため、ここを安全に通過するにはロープを掴む このロープがリング状で支点に固定されずに設置されており、ロープの両方を掴んで通過せねばならない ロープ場を通過するとはトラバースのクサリ場が連続する 多くの箇所はパッと見はそこまで危険を感じないかもしれないが、足元が狭く切り立った危険な場所もあるのでクサリを持って丁寧に歩行してほしい トラバースしながら稜線が近づくと山ノ神峠に乗っ越す 山ノ神峠〜鐘ヶ嶽 稜線の山ノ神峠から直ぐに登山道は左右二つの登山道が並行し左手は小さな丘を登り山ノ神へ 右手は山ノ神を通らず、山ノ神の丘をトラバースして通過する 前半は稜線の小ピークを避けるように左右にトラバースしながら進む 南側斜面で足元の狭いトラバース道がある ここからの相模湾方面の眺望が良い 鐘ヶ嶽山頂手前から樹林帯に入る 鐘ヶ嶽山頂からの眺望は無い |
写真
ロープ場
山の神沢広場からすぐに急登に差し掛かる
ここのロープ場の足元が崩れ段差に露岩がある危険箇所
ロープを掴んで通過する際だがこのロープがリング状に固定せずに設置されており、ロープの両方を掴んで通過せねばならない
山の神沢広場からすぐに急登に差し掛かる
ここのロープ場の足元が崩れ段差に露岩がある危険箇所
ロープを掴んで通過する際だがこのロープがリング状に固定せずに設置されており、ロープの両方を掴んで通過せねばならない
七沢城址の概要
室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。鎌倉公方<かまくらくぼう>足利成氏<しげうじ>の近臣たちと関東管領山内<かんとうかんれいやまのうち>上杉憲忠<のりただ>の重臣たちとの間に争いが起こります。上杉方に攻められた成氏は、いったん江の島にのがれますが、七里ガ浜での合戦で上杉方は敗退し、憲忠は七沢<ななさわ>山に要害を構えました。成氏は、この年5月に事態の成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。これが、「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。
長享2年(1488)、山内<やまのうち>、扇谷<おうぎがやつ>両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定<あきさだ>が、当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。扇谷上杉定正<さだまさ>は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城付近の南実蒔原<みなみざねまきはら>において、少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。これが実蒔原の合戦です。しかしこの時、定正側にも大きな痛手が生じたらしく、一説には、この時七沢城主であった七沢朝昌<ともまさ>(定正の兄弟) が戦死したとも伝えられています。七沢城が最終的に放棄された時期については、はっきりしたことは分かっていません。おそらく小田原北条氏がこの地域を制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。
城の中心は、現在七沢リハビリテーション病院脳血管センターが立っている部分と思われますが、病院の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。、建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。もしかすると実蒔原の合戦の際に炎上したのかもしれません。七沢城は中世の山城であり、江戸時代の天守閣を備えた城とはかなり違ったものだと思われます。丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって。大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名が残っています
室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。鎌倉公方<かまくらくぼう>足利成氏<しげうじ>の近臣たちと関東管領山内<かんとうかんれいやまのうち>上杉憲忠<のりただ>の重臣たちとの間に争いが起こります。上杉方に攻められた成氏は、いったん江の島にのがれますが、七里ガ浜での合戦で上杉方は敗退し、憲忠は七沢<ななさわ>山に要害を構えました。成氏は、この年5月に事態の成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。これが、「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。
長享2年(1488)、山内<やまのうち>、扇谷<おうぎがやつ>両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定<あきさだ>が、当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。扇谷上杉定正<さだまさ>は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城付近の南実蒔原<みなみざねまきはら>において、少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。これが実蒔原の合戦です。しかしこの時、定正側にも大きな痛手が生じたらしく、一説には、この時七沢城主であった七沢朝昌<ともまさ>(定正の兄弟) が戦死したとも伝えられています。七沢城が最終的に放棄された時期については、はっきりしたことは分かっていません。おそらく小田原北条氏がこの地域を制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。
城の中心は、現在七沢リハビリテーション病院脳血管センターが立っている部分と思われますが、病院の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。、建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。もしかすると実蒔原の合戦の際に炎上したのかもしれません。七沢城は中世の山城であり、江戸時代の天守閣を備えた城とはかなり違ったものだと思われます。丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって。大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名が残っています
鐘ヶ嶽(かねがたけ)
鐘ケ嶽(標高 561m)の名は古くから知られ、浅間山(せんげんさん)とも呼ば れています。昔、竜宮から上げた鐘をこの山に収めたという伝説や、戦国時代に上杉定正の居城となった七沢城への合図のために鐘が置かれたと言われている。
鐘ケ嶽(標高 561m)の名は古くから知られ、浅間山(せんげんさん)とも呼ば れています。昔、竜宮から上げた鐘をこの山に収めたという伝説や、戦国時代に上杉定正の居城となった七沢城への合図のために鐘が置かれたと言われている。
感想
所用があって妻と池袋滞在中、昼間の空いた時間に妻を連れて首都圏近郊登山
妻を連れての登山の場合は標高差200メートル台に抑える必要があるためギリ200メートル台の丹沢山系鐘ヶ嶽をチョイス
蛭が居ない時期なので妻を連れて安心して歩ける
新宿から小田急に乗って本厚木駅へ
本厚木にてタイムズカーシェアを借りて隘路のニノ足林道を進みニノ足林道ゲート駐車スペースへクルマを駐車
ニノ足林道ゲートから往復1時間半で鐘ヶ嶽往復
下山後、本厚木でレンタカー返却後に昼食を食べ小田急厚木駅へ
厚木駅ではタイミングよく「はこね2号」の出発時刻だったので急遽チケットレス特急券を購入、小田急ロマンスカーEXEαの「はこね2号」に乗車して快適に新宿へ
リニューアルされてはいるが現役ロマンスカーでは一番古い車両で、最近の薄くて軽い座席とは違い、座布団が分厚つくクッション性が良い僕好みの座席
なかなか小田急ロマンスカーに乗る機会がなく、自分でも意外だがEXEαは初乗車
乗ってみるとさしたる欠点は無いモノのロマンスカーとしてはあまり特徴もない車両で小田急ロマンスカーで唯一ブルーリボン賞に選ばれなかった(当年はブルーリボン賞該当車無し)のが理解出来る
因みにコレで現役小田急ロマンスカーを全車種コンプリート出来た
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