記録ID: 7853746
全員に公開
ハイキング
東海
本笠寺駅 名古屋駅
2025年02月28日(金) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 05:35
- 距離
- 14.5km
- 登り
- 8m
- 下り
- 15m
コースタイム
天候 | 曇り 時々小雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
舗装 |
写真
国指定重要文化財 富部神社
当社は慶長八年(1603)、津島神社の牛頭天王の眷属(けんぞく:一族、親族)ともいわれる蛇毒気神を勧請したもので、天保十二年(1841)『尾張名所図会』をみると「蛇毒神社」または「蛇毒天王社」 などと呼ばれていたことがわかる。牛頭天王はインド・中国・ 日本と伝播するに従って習合を重ね、インドでは祇園精舎の守護神とも、チベットの牛頭山の神だったともいう。これが中国に入って密教・道教・陰陽思想と習合し、日本においてさらに陰陽道との関わりを深めた。
当社は慶長八年(1603)、津島神社の牛頭天王の眷属(けんぞく:一族、親族)ともいわれる蛇毒気神を勧請したもので、天保十二年(1841)『尾張名所図会』をみると「蛇毒神社」または「蛇毒天王社」 などと呼ばれていたことがわかる。牛頭天王はインド・中国・ 日本と伝播するに従って習合を重ね、インドでは祇園精舎の守護神とも、チベットの牛頭山の神だったともいう。これが中国に入って密教・道教・陰陽思想と習合し、日本においてさらに陰陽道との関わりを深めた。
稲荷山 長楽寺 名古屋市南区呼続4丁目の長楽寺(ちょうらくじ)は動物霊園として有名で、あの盲導犬サーブ号も眠っている。長楽寺は弘仁十二年(821)に空海が創建し、永正五年(1508)に駿河の今川氏が諸堂を再建。
織田領の看板 長楽寺には、戦国時代の織田領と今川領の境界線が残っている。戦国時代初期頃は、今川氏の勢力圏は現在の名古屋城辺りまであった。現在の名古屋城二の丸あたりに戦国時代初期、那古野城(なごのじょう)があり、その城主が今川義元の弟といわれる今川氏豊で、その今川氏豊から那古野城を奪ったのが織田信長の父・織田信秀。
盲導犬たちよ 天国で遊んでください 盲人の目となり最良の友となり 明日への光となって 愛と 献身に生きたあなたたちの日々は 私たちの心に生き続けています 盲導犬たちよハーネスを外して 飛び跳ねて下さい
この辺りから縄文時代晩期の竪穴建物や中世の掘立柱建物の遺構が見つかっており、曽池の周辺からは土師器や山茶碗が出土していることから曽池遺跡と呼ばれている。円墳のような形をしているがそのような記載はネットでも見つからない。
内浜歩道橋よりJR東海道本線を越える陸橋 歩道橋を右側に降りてJRまで歩いたら工事中でこの歩道橋まで引き返し、この歩道橋を再度渡って道路の左側からJR東海道本線を越えた 歩いて超える人がいないのだろう案内が不備
裁断橋跡
天正十八年(1590)に十八 歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡く なり、養子が母の意思を継いで元和八年(1622)に完成させた。
この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存にされている。
天正十八年(1590)に十八 歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡く なり、養子が母の意思を継いで元和八年(1622)に完成させた。
この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存にされている。
【都々逸の起源について】
寛政12年(1800年)ごろ、現在の名古屋市熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され、大流行したとされている
東海道五十三次の1つ「宮の宿」の「鶏飯屋」で働くお手伝いさんが、美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などの囃子を入れたのが始まりとされてる
寛政12年(1800年)ごろ、現在の名古屋市熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され、大流行したとされている
東海道五十三次の1つ「宮の宿」の「鶏飯屋」で働くお手伝いさんが、美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などの囃子を入れたのが始まりとされてる
鈴之御前社(れいのみまえしゃ)
熱田神宮の境外末社で、祭神は天鈿女命。地元では俗に「鈴の宮(れいのみや)」と呼ばれる。かつては精進川という川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田に参拝する時はこの社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する事になっていた。戦後、旧東海道に面した現在地に遷座した。
熱田神宮の境外末社で、祭神は天鈿女命。地元では俗に「鈴の宮(れいのみや)」と呼ばれる。かつては精進川という川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田に参拝する時はこの社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する事になっていた。戦後、旧東海道に面した現在地に遷座した。
弘法大師お手植えと伝えられる大楠と酒樽 大楠の樹齢は千年以上と言われていると書いてあるが 弘法大師は774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日なのでお手植えが本当なら樹齢は1,190年以上
高蔵7号墳は、 平成29年度の発掘調査により、 古墳であることが確認された。 高蔵1号墳と同じく、 河原石を積んだ横穴式石室で、直径16mの円墳。 石室は地表面に露出する河原石の配置から、 全長約8mと推測されている。 7世紀頃(今からおよそ1,400年前)につくられたと思われる。
現在は墳丘の周りに掘られた溝の場所に石を敷いて、周溝の位置を表しています。
現在は墳丘の周りに掘られた溝の場所に石を敷いて、周溝の位置を表しています。
佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の「七里の渡し」を避けた道である。
道標は、文政四年(1821) 佐屋街道の 旅籠仲間が、伏見通から尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点にあたるこの地に建てたものである。戦災に遭い破損したがその後修理された。道標には
「東 右 なこや 木曽海道」
「西 右 宮海道 左 なこや道」
「南 左 さや海道 津しま道」
「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」
と刻まれている。名古屋市教育委員会
道標は、文政四年(1821) 佐屋街道の 旅籠仲間が、伏見通から尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点にあたるこの地に建てたものである。戦災に遭い破損したがその後修理された。道標には
「東 右 なこや 木曽海道」
「西 右 宮海道 左 なこや道」
「南 左 さや海道 津しま道」
「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」
と刻まれている。名古屋市教育委員会
佐屋街道道標 佐屋街道は、寛永3年(1626年)と11年(1634年)の三大将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。寛文6年(1666年)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。
装備
個人装備 |
防寒着
サブザック
飲料
予備電池
ファーストエイドキット
常備薬
保険証
携帯
タオル
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感想
18時名古屋駅前での会食に向けて9時に家を出て電車移動、11:30本笠寺駅から旧東海道を辿って熱田神社へ、そして熱田神社から名古屋駅へ14km歩いた 昨年11/16八形山登山で小国神社に降り、そこで会った80歳の夫人が土の道は疲れないが舗装道は疲れると言っていたが今日の行程は舗装道路でとても疲れてその言葉を思い出した。やめて電車に乗れば楽になるのだが18時開宴までの待ち時間が増えるので歩き続けた。
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