記録ID: 7874822
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ハイキング
金剛山・岩湧山
想定外の笹薮漕ぎの嶽山 大阪50山
2025年03月08日(土) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 00:16
- 距離
- 1.0km
- 登り
- 20m
- 下り
- 20m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 0:05
- 休憩
- 0:09
- 合計
- 0:14
距離 1.0km
登り 20m
下り 20m
天候 | くもり |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
亀の井ホテル 富田林の建物と建物の間にある舗装路をテニスコートへ向けて歩く テニスコートフェンス左脇沿いを時計回りに歩く 途中笹藪があるが、それを突破するとすぐに嶽山山頂に辿り着く |
その他周辺情報 | 亀の井ホテル富田林 日帰り温泉 平日:大人 700円・小人 500円 土・日・祝・特別日:大人 800円・小人 600円 https://kamenoi-hotels.com/tondabayashi/ |
写真
嶽山城址は南北朝時代、元弘2(1332)年、楠木正成によって築かれた城です。
「太平記」34巻(龍泉寺軍の事)によると、楠木正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせて守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。この時、木の梢などに旗を結わせ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山にいた奇手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒らに150日余りを過ごした。ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360)年細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされました。
その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508)年に落城したといわれています。
「太平記」34巻(龍泉寺軍の事)によると、楠木正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせて守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。この時、木の梢などに旗を結わせ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山にいた奇手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒らに150日余りを過ごした。ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360)年細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされました。
その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508)年に落城したといわれています。
感想
大阪50山嶽山
9時狭山市へ末っ子を送り届ける用事があった
そのまま神戸に帰るのは勿体ないので、近くの山はないか?と急に思い立ち大阪50山を検索。嶽山へ立ち寄ってみた
情報では山頂直前までクルマで行けるようなので、街着(カシミアのセーター)で行ってみた…
山頂は「亀の井ホテル 富田林」の敷地脇(たぶん敷地内)にあり、ホテル施設のテニスコート裏にある
最初はテニスコート脇を反時計廻りに歩いたところ、山頂直前で(普段なら突破する)藪が阻まれ、元来た道へ戻り、再度テニスコート脇を時計回りで歩く
こちらの通路の笹も刈払いされておらず、軽く笹藪漕ぎをして嶽山山頂へ
まさかここで笹藪漕ぎしなければならないと想定していなかったため、買ってもらったばかりのカシミアのセーターが小さなゴミだらけになった
このあと妻に叱られたのは云うまでもない…
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