美濃路と岐阜街道の追分を右へ。この100m手前には「左京都」と書かれた珍しい文政年間の道標が立っています。
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美濃路と岐阜街道の追分を右へ。この100m手前には「左京都」と書かれた珍しい文政年間の道標が立っています。
JR線と並行します。岐阜街道は名古屋と岐阜を最短距離で結ぶ重要な街道でした。
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5/4 8:57
JR線と並行します。岐阜街道は名古屋と岐阜を最短距離で結ぶ重要な街道でした。
GWの混雑とは無縁の街道歩き。心地よい気候とともに懐かしい風景を堪能。
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5/4 9:15
GWの混雑とは無縁の街道歩き。心地よい気候とともに懐かしい風景を堪能。
道なりに左へ。
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道なりに左へ。
右へ。斜めに残るスペースは旧道の痕跡。ようするに昔は直角ではなく、なだらかなカーブを描いていた証でもあります。
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右へ。斜めに残るスペースは旧道の痕跡。ようするに昔は直角ではなく、なだらかなカーブを描いていた証でもあります。
名古屋といえば黒壁塀が多い印象ですが、岐阜街道に関してはそれほど多くはない感じでした。
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5/4 9:40
名古屋といえば黒壁塀が多い印象ですが、岐阜街道に関してはそれほど多くはない感じでした。
奥に工場がありますが、昔は斜めにカーブする道になっていました。
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奥に工場がありますが、昔は斜めにカーブする道になっていました。
その痕跡が少しだけ残っています。
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その痕跡が少しだけ残っています。
一里塚碑。美濃路との追分にも碑がありましたが、いずれも比較的新しく昭和40年代のもの。下部には説明もありました。
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5/4 10:00
一里塚碑。美濃路との追分にも碑がありましたが、いずれも比較的新しく昭和40年代のもの。下部には説明もありました。
この辺りは昔も田畑が広がっていたようで、炎天下では歩くに堪える区間です。そのため、松並木が植えられていました。
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5/4 10:07
この辺りは昔も田畑が広がっていたようで、炎天下では歩くに堪える区間です。そのため、松並木が植えられていました。
道路の片側のアスファルトが剥がれて路盤剥き出しになっています。これが江戸時代の路盤かと言われればそうではなく、大抵は地中深くの位置だったりします。
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5/4 10:14
道路の片側のアスファルトが剥がれて路盤剥き出しになっています。これが江戸時代の路盤かと言われればそうではなく、大抵は地中深くの位置だったりします。
かつては橋があって鉄塔に向けて真っすぐに道があったのですが迂回せねばなりません。
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5/4 10:24
かつては橋があって鉄塔に向けて真っすぐに道があったのですが迂回せねばなりません。
川を渡った先から街道が復活します。
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5/4 10:28
川を渡った先から街道が復活します。
街道を少し離れて、一宮博物館と妙興寺を見学。
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5/4 10:41
街道を少し離れて、一宮博物館と妙興寺を見学。
妙興寺は1348年に開かれ朝廷や足利将軍家の庇護を受けて大いに栄えます。戦国時代は荒廃したものの、徳川家の保護もあって尾張の名刹として今に続いています。
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5/4 11:21
妙興寺は1348年に開かれ朝廷や足利将軍家の庇護を受けて大いに栄えます。戦国時代は荒廃したものの、徳川家の保護もあって尾張の名刹として今に続いています。
左へ。
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5/4 11:41
左へ。
ここも左に進み一宮市街地へと入っていきます。
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5/4 11:56
ここも左に進み一宮市街地へと入っていきます。
一宮は古くは鎌倉街道、美濃路や巡見街道などが通る交通の要衝でした。街道沿いの村々には市が立ち、河川を利用して運ばれる物資や人の流れもあったそうです。
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5/4 11:57
一宮は古くは鎌倉街道、美濃路や巡見街道などが通る交通の要衝でした。街道沿いの村々には市が立ち、河川を利用して運ばれる物資や人の流れもあったそうです。
真清田神社一の鳥居跡。斜め左へ。
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5/4 11:59
真清田神社一の鳥居跡。斜め左へ。
右へ。
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5/4 12:01
右へ。
真清田神社門前には享保年間から3と8の付く日に市が開かれています。戦後まで続いた三八市は、信州や越中の商人も訪れ賑わっていたそうで、今も門前や商店街に面影を見ることができます。
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5/4 12:13
真清田神社門前には享保年間から3と8の付く日に市が開かれています。戦後まで続いた三八市は、信州や越中の商人も訪れ賑わっていたそうで、今も門前や商店街に面影を見ることができます。
この日は大きな祭りがあったようで、相当な賑わいでした。
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5/4 12:20
この日は大きな祭りがあったようで、相当な賑わいでした。
奥のウバ車屋、懐かしいですね。かつての東海地方には木の網目の大きな乳母車をよく見かけましたが、今の時代はめっきり見なくなりました。
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5/4 12:24
奥のウバ車屋、懐かしいですね。かつての東海地方には木の網目の大きな乳母車をよく見かけましたが、今の時代はめっきり見なくなりました。
真清田神社。尾張国一宮です。ちなみに熱田神宮は一宮ではないのです。格式的には上なんですが不思議ですね。
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5/4 12:29
真清田神社。尾張国一宮です。ちなみに熱田神宮は一宮ではないのです。格式的には上なんですが不思議ですね。
街道は神社の鳥居前を左に左折しますが一説には乳母車のビルの手前を左折するというのもあります。昔の絵図にはどちらも道が描かれてるのでどちらが本道なのか悩ましいところです。この先で右折します。
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5/4 12:38
街道は神社の鳥居前を左に左折しますが一説には乳母車のビルの手前を左折するというのもあります。昔の絵図にはどちらも道が描かれてるのでどちらが本道なのか悩ましいところです。この先で右折します。
ノコギリ屋根の工場の跡でしょうか。一宮は空襲の被害が大きかったところで中心部には古い建物は皆無に等しかったですが、ここにきて古い建物が散見できました。
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5/4 12:54
ノコギリ屋根の工場の跡でしょうか。一宮は空襲の被害が大きかったところで中心部には古い建物は皆無に等しかったですが、ここにきて古い建物が散見できました。
ここは右の旧道へ。
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5/4 13:15
ここは右の旧道へ。
黒田の集落の入口に愛宕さん。火除けの神として宿場の出入り口に設けられることが多いですね。
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5/4 13:48
黒田の集落の入口に愛宕さん。火除けの神として宿場の出入り口に設けられることが多いですね。
岐阜街道 黒田宿。古くから宿場として発展し木曽川水運の物流の拠点でもありました。山内一豊の生誕地としても知られています。
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5/4 13:50
岐阜街道 黒田宿。古くから宿場として発展し木曽川水運の物流の拠点でもありました。山内一豊の生誕地としても知られています。
ここで木曽川資料館に寄り道。大正13年木曽川町会の議事堂として建てられています。隣には今は亡き庁舎があったのですが、議事堂が庁舎内に併設されてない事例は全国的に極めて珍しいのだそうです。
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5/4 13:58
ここで木曽川資料館に寄り道。大正13年木曽川町会の議事堂として建てられています。隣には今は亡き庁舎があったのですが、議事堂が庁舎内に併設されてない事例は全国的に極めて珍しいのだそうです。
古い風情がよく残っていて癒されました。
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5/4 14:27
古い風情がよく残っていて癒されました。
左へ。そしてすぐに右に曲がります。
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5/4 14:31
左へ。そしてすぐに右に曲がります。
ここには木曽川町道路元標がありました。
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5/4 14:32
ここには木曽川町道路元標がありました。
左に曲がってJR,名鉄線を越えます。
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5/4 14:46
左に曲がってJR,名鉄線を越えます。
ここは右へ。宝江渡し場への道です。
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5/4 15:05
ここは右へ。宝江渡し場への道です。
この分岐は悩みどころで、この先に追分道標に双方とも繋がります。左は急な勾配で右は緩やかな勾配、ただ、右は明治初期の地図には載っていません。恐らく車などを通すために後年に作られたと思われますが、追分道標の位置が悩ましいのです。
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5/4 15:12
この分岐は悩みどころで、この先に追分道標に双方とも繋がります。左は急な勾配で右は緩やかな勾配、ただ、右は明治初期の地図には載っていません。恐らく車などを通すために後年に作られたと思われますが、追分道標の位置が悩ましいのです。
彫の深い立派な道標。本来は街道と街道の分岐にあるものなので、先ほどの右の緩やかな勾配の道が正解といきたいところですが、昔の地図にはありません。道標の土台を見ると移設された感じもあるので、結論として左の急な勾配の道のほうが正解と思われます。
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5/4 15:15
彫の深い立派な道標。本来は街道と街道の分岐にあるものなので、先ほどの右の緩やかな勾配の道が正解といきたいところですが、昔の地図にはありません。道標の土台を見ると移設された感じもあるので、結論として左の急な勾配の道のほうが正解と思われます。
木曽川を前にした風情は良いですね。明治天皇巡幸の際は木曽川に舟橋が架けられています。
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5/4 15:17
木曽川を前にした風情は良いですね。明治天皇巡幸の際は木曽川に舟橋が架けられています。
この先が渡し場の跡。その手前には川原町が形成されていたようです。
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5/4 15:22
この先が渡し場の跡。その手前には川原町が形成されていたようです。
木曽川橋は1937年(昭和12年)に竣工。1964年に歩道橋が併設されたので歩行者も安全に渡ることができます。
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5/4 15:25
木曽川橋は1937年(昭和12年)に竣工。1964年に歩道橋が併設されたので歩行者も安全に渡ることができます。
遠くに岐阜城が見えます。岐阜街道のゴールは城のふもとにあたります。
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5/4 15:28
遠くに岐阜城が見えます。岐阜街道のゴールは城のふもとにあたります。
笠松側の渡し場跡。今ある石畳は明治天皇巡幸の際に改修されたもの。
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5/4 15:40
笠松側の渡し場跡。今ある石畳は明治天皇巡幸の際に改修されたもの。
木曽川流域の物資は江戸や大坂へ送る際、笠松や桑名で船積みされてました。改修前は大八車の車輪がくいこまないよう丸石を使ったものが敷き詰められていたそうな。
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5/4 15:41
木曽川流域の物資は江戸や大坂へ送る際、笠松や桑名で船積みされてました。改修前は大八車の車輪がくいこまないよう丸石を使ったものが敷き詰められていたそうな。
岐阜街道 笠松宿。木曽川水運で賑わった地域物資の集散地。かつて岐阜県庁も置かれ名実ともに岐阜の中心だった時期がありました。
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5/4 15:47
岐阜街道 笠松宿。木曽川水運で賑わった地域物資の集散地。かつて岐阜県庁も置かれ名実ともに岐阜の中心だった時期がありました。
重厚な旧家があちこちに。笠松は競馬の印象が強いですが、歴史を知ると岐阜県にとって重要な場所だったことがわかります。
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5/4 15:49
重厚な旧家があちこちに。笠松は競馬の印象が強いですが、歴史を知ると岐阜県にとって重要な場所だったことがわかります。
杉山邸。16:00で終わりにも関わらず丁寧に案内してくださいました。
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5/4 15:52
杉山邸。16:00で終わりにも関わらず丁寧に案内してくださいました。
江戸に運ぶ鮎寿司はこのような容器に入れて運ばれたのだそうで、江戸に着く頃にちょうど良い食べごろになっていたといいます。
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5/4 15:57
江戸に運ぶ鮎寿司はこのような容器に入れて運ばれたのだそうで、江戸に着く頃にちょうど良い食べごろになっていたといいます。
神武天皇の五月人形は珍しいですね。紀元節と書いてますから昭和16年ものでしょうか?
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5/4 16:03
神武天皇の五月人形は珍しいですね。紀元節と書いてますから昭和16年ものでしょうか?
ここを左へ。
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5/4 16:24
ここを左へ。
右へ。
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5/4 16:28
右へ。
岐阜街道は「御鮨街道」とも「鮎鮨街道」とも呼ばれますが、笠松では「鮎鮨」と表すのが一般的で、岐阜市内に入ると「御鮨」としか見かけませんでした。
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5/4 16:30
岐阜街道は「御鮨街道」とも「鮎鮨街道」とも呼ばれますが、笠松では「鮎鮨」と表すのが一般的で、岐阜市内に入ると「御鮨」としか見かけませんでした。
鮎鮨は毎年5月〜8月にかけて宿次して運ばれて、午前中に岐阜御鮨処を出発すると午後には一宮に着くという行程だったそうです。
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5/4 16:30
鮎鮨は毎年5月〜8月にかけて宿次して運ばれて、午前中に岐阜御鮨処を出発すると午後には一宮に着くという行程だったそうです。
この先の笠松駅で1日目を終えました。そういや、愛知に来てから大阪では嫌ほど見るミャクミャクを見ていません。それは翌日の岐阜でもそうで、大阪との温度差を感じずにはいられませんでした。
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5/4 16:43
この先の笠松駅で1日目を終えました。そういや、愛知に来てから大阪では嫌ほど見るミャクミャクを見ていません。それは翌日の岐阜でもそうで、大阪との温度差を感じずにはいられませんでした。
翌朝は、笠松の喫茶店コーヒーASAでモーニングから始めました。
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5/5 7:17
翌朝は、笠松の喫茶店コーヒーASAでモーニングから始めました。
ここは直進。
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5/5 7:43
ここは直進。
ここには昔は川が存在せず道が続いていたのですが、今は橋で迂回せねばいけません。
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5/5 7:45
ここには昔は川が存在せず道が続いていたのですが、今は橋で迂回せねばいけません。
この先の旧道へ。
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5/5 7:52
この先の旧道へ。
この辺りは周りと若干高い位置に道があります。川の流路が変わったという記述もありますし、もしかすると旧堤防を活用しているのかもしれませんね。
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5/5 7:56
この辺りは周りと若干高い位置に道があります。川の流路が変わったという記述もありますし、もしかすると旧堤防を活用しているのかもしれませんね。
ここは左へ。道なりです。
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5/5 8:15
ここは左へ。道なりです。
加納宿が近づくと古い家並みが増えてきました。突き当りを左へ。
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加納宿が近づくと古い家並みが増えてきました。突き当りを左へ。
この角には昔は茶屋があって、ぶたれ坊の話が有名です。
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5/5 8:31
この角には昔は茶屋があって、ぶたれ坊の話が有名です。
中山道と合流。右へ。
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5/5 8:32
中山道と合流。右へ。
岐阜街道 加納宿。美濃にあった16宿のうち最大で中山道の宿場町でもあります。商工業が盛んで人や荷役の往来が激しかったという。
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5/5 8:37
岐阜街道 加納宿。美濃にあった16宿のうち最大で中山道の宿場町でもあります。商工業が盛んで人や荷役の往来が激しかったという。
ここを左へ。
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ここを左へ。
左へ。
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左へ。
奥に見えるのは駅前のタワービルで屋上から岐阜市中を一望できます。無料です。
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5/5 8:44
奥に見えるのは駅前のタワービルで屋上から岐阜市中を一望できます。無料です。
岐阜市内は戦災が酷かったので、古い家は多くは残っていませんが、中心部から外れた加納には幾つか散見できます。
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5/5 8:46
岐阜市内は戦災が酷かったので、古い家は多くは残っていませんが、中心部から外れた加納には幾つか散見できます。
「西京」とは、京都の意味で、明治初期に「東京」の文字とともに追加されています。道標自体は江戸中期のものです。
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5/5 8:49
「西京」とは、京都の意味で、明治初期に「東京」の文字とともに追加されています。道標自体は江戸中期のものです。
中山道加納宿まちづくり交流センターに寄り道。ここは文化遺産だった加納庁舎があった場所。
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5/5 9:14
中山道加納宿まちづくり交流センターに寄り道。ここは文化遺産だった加納庁舎があった場所。
ここを右へ。
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5/5 9:23
ここを右へ。
コメダのある交差点を左へ。
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コメダのある交差点を左へ。
ここを右へ。
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5/5 9:51
ここを右へ。
突き当りを左へ。
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5/5 9:52
突き当りを左へ。
この辺りの名鉄各務原線は旧省線の線路跡が活用されています。
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この辺りの名鉄各務原線は旧省線の線路跡が活用されています。
ここからラスト手前まで一本道。
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ここからラスト手前まで一本道。
戦災があった地域ながらも街道は中心部から少し離れているので、古い家を時おり見かけることができます。
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5/5 10:14
戦災があった地域ながらも街道は中心部から少し離れているので、古い家を時おり見かけることができます。
岐阜は川原町が有名ですが、この辺りの風情も良いものがあります。
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5/5 10:28
岐阜は川原町が有名ですが、この辺りの風情も良いものがあります。
右へ。
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5/5 10:36
右へ。
ここを左へ。
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ここを左へ。
右へ。
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5/5 10:43
右へ。
岐阜城が目の前に。
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岐阜城が目の前に。
この辺りが、鮎鮨を作っていたとされる御鮨処。今回のゴールとしました。徳川家康が長良川の鵜飼を観賞して鮎鮨が好きになって以来、ここで作る鮎鮨は諸家への献上、尾張藩御用など大いに食されたといいます。
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5/5 10:45
この辺りが、鮎鮨を作っていたとされる御鮨処。今回のゴールとしました。徳川家康が長良川の鵜飼を観賞して鮎鮨が好きになって以来、ここで作る鮎鮨は諸家への献上、尾張藩御用など大いに食されたといいます。
5/3-5に中山道(東赤坂〜御嵩宿)を歩いて来ました。ニアミスですね😄
5月3日に加納宿を通過した際、御鮨街道の看板を目にしましたし、加納宿まちづくり交流センターにも立ち寄り幾つかの資料もいただきました😄そして何よりもこの度のルートは、にゃおすけさんのレコを参考にさせていただきました。いつも有難うございます🙇♂️
お互い良い道中だったみたいで
そしてルートを参考にして頂きありがとうございます。
加納宿まちづくり交流センターは豊富な資料があって、
私も幾つか拝借しました。中でも加納の町は逸品ですね。
以前は、文化遺産にもなっていた加納庁舎があった場所でしたが、
これほど綺麗な資料館になっていたとは立ち寄ってよかったです。
この先も良い道中をお楽しみください
万博期間は万博優先になるかもですが、
これぐらいの距離の街道歩きはしていきたいですねー。
それはそうと、5/6インパクしたのですが、
東9時空いてる!とつぶやかれるのを見て行くことにしたのです。
おかげで仮装大賞を見ることができました。感謝感謝です。
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