JR新座駅北口から出発
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5/18 10:50
JR新座駅北口から出発
旧街道に出ると対面に神明神社
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5/18 11:02
旧街道に出ると対面に神明神社
街道を5分ほど進むと「鬼鹿毛の馬頭観音」。この地で倒れながらも亡霊となって主人を江戸まで送った名馬の霊を弔い元禄9年(1696)に建立されたものとか
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5/18 11:12
街道を5分ほど進むと「鬼鹿毛の馬頭観音」。この地で倒れながらも亡霊となって主人を江戸まで送った名馬の霊を弔い元禄9年(1696)に建立されたものとか
緩やかに坂を10分ほど下って行くと屋根に「卍」の付いた建物とお地蔵様。この建物は観音堂だったようだ
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5/18 11:25
緩やかに坂を10分ほど下って行くと屋根に「卍」の付いた建物とお地蔵様。この建物は観音堂だったようだ
英橋で柳瀬川を渡り
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5/18 11:30
英橋で柳瀬川を渡り
254号線の下を通り抜け、この先は現川越街道を進みます
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5/18 11:31
254号線の下を通り抜け、この先は現川越街道を進みます
跡見学園が近づくと急階段の上にコンクリート製の柵が
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5/18 11:40
跡見学園が近づくと急階段の上にコンクリート製の柵が
登ってみると「三国第一山」と刻まれた石塔が。三国第一山とは新倉富士浅間神社を指し、富士塚のようだ
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5/18 11:41
登ってみると「三国第一山」と刻まれた石塔が。三国第一山とは新倉富士浅間神社を指し、富士塚のようだ
道幅が広がり、中央分離帯の並木が始まるところに川越街道の大きな石碑が立っています
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5/18 11:54
道幅が広がり、中央分離帯の並木が始まるところに川越街道の大きな石碑が立っています
淑徳大学入口のそばに木宮稲荷神社。寛文元年(1661)、中山治左衛門なる人物が大阪在業の際、藤久保に稲荷が降りるという霊夢を見て社殿を建立したのだとか。
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5/18 12:53
淑徳大学入口のそばに木宮稲荷神社。寛文元年(1661)、中山治左衛門なる人物が大阪在業の際、藤久保に稲荷が降りるという霊夢を見て社殿を建立したのだとか。
中央分離帯の並木の終点にも川越街道の大きな石碑が立っていました
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5/18 13:00
中央分離帯の並木の終点にも川越街道の大きな石碑が立っていました
木宮稲荷神社から15分ほどで廣源寺に到着。本堂前に立つ立派な仁王像。珍しいですよね。創建は寛永16年(1739)とのこと
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5/18 13:09
木宮稲荷神社から15分ほどで廣源寺に到着。本堂前に立つ立派な仁王像。珍しいですよね。創建は寛永16年(1739)とのこと
再び中央分離帯の始点に川越街道碑。ここの終点にも川越街道碑がありました
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5/18 13:21
再び中央分離帯の始点に川越街道碑。ここの終点にも川越街道碑がありました
交差点横にはつややかな庚申塔。享和年代のもののようだが、ニスかラッカーが塗られているようだ
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5/18 13:23
交差点横にはつややかな庚申塔。享和年代のもののようだが、ニスかラッカーが塗られているようだ
15分ほど歩くと下木戸跡の標柱が。大井宿の治安維持のためここに大木戸が設けられていたそうです
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5/18 13:40
15分ほど歩くと下木戸跡の標柱が。大井宿の治安維持のためここに大木戸が設けられていたそうです
さらに5分ほど進むと大井稲荷神社の標柱。旭祭会館の裏手に赤い鳥居が見えます
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5/18 13:46
さらに5分ほど進むと大井稲荷神社の標柱。旭祭会館の裏手に赤い鳥居が見えます
大井稲荷神社。創建年代等は不詳ながら、川越街道が整備された江戸時代前期には既に祀られ、当時は1,600坪の神領を有していたとか
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5/18 13:48
大井稲荷神社。創建年代等は不詳ながら、川越街道が整備された江戸時代前期には既に祀られ、当時は1,600坪の神領を有していたとか
アスファルト舗装された砂川堀を渡り、大井弁天の森方向に右折
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5/18 13:52
アスファルト舗装された砂川堀を渡り、大井弁天の森方向に右折
その先を更に右に入ると「復元大井戸」。大井の名称の由来となったとも云われる平安時代の井戸を復元したもの
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5/18 13:54
その先を更に右に入ると「復元大井戸」。大井の名称の由来となったとも云われる平安時代の井戸を復元したもの
その先で街道を渡ると山門前に仁王像が立つ徳性寺。室町時代の創建と云われるが詳細は不明のようだ
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5/18 13:59
その先で街道を渡ると山門前に仁王像が立つ徳性寺。室町時代の創建と云われるが詳細は不明のようだ
山門裏手には板碑が並び、一番大きな板碑には弘安4年(1281)の銘がある。鎌倉時代後期の有力者により造られたものらしい
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5/18 14:00
山門裏手には板碑が並び、一番大きな板碑には弘安4年(1281)の銘がある。鎌倉時代後期の有力者により造られたものらしい
旧道分岐点の手前に旧大井村役場がある。昭和12年(1937)に建てられ、昭和46年まで大井町役場として使われた。見学は無料
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5/18 14:14
旧道分岐点の手前に旧大井村役場がある。昭和12年(1937)に建てられ、昭和46年まで大井町役場として使われた。見学は無料
旧議場には天皇・皇后の御真影(写真)を納めた奉安殿が残されており、戦後はGHQにより強制撤去されたため残されていることは珍しいということだ。
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5/18 14:23
旧議場には天皇・皇后の御真影(写真)を納めた奉安殿が残されており、戦後はGHQにより強制撤去されたため残されていることは珍しいということだ。
旧道分岐点。ここからは左の旧道を進む
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5/18 14:35
旧道分岐点。ここからは左の旧道を進む
旧川越街道と大山阿夫利神社に向かう地蔵街道の交差点に立つ「角の常夜燈」。享和2年(1802)に建てられ,笠石と台座は明治30年(1898)に補修されている
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5/18 14:43
旧川越街道と大山阿夫利神社に向かう地蔵街道の交差点に立つ「角の常夜燈」。享和2年(1802)に建てられ,笠石と台座は明治30年(1898)に補修されている
5分ほど先には亀久保地蔵院。ここの山門にも仁王様が立っています
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5/18 14:49
5分ほど先には亀久保地蔵院。ここの山門にも仁王様が立っています
地蔵院は鎌倉時代末期の創建とされる古刹で、幕府の御家人・二階堂氏ゆかりの寺と伝わる
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5/18 14:49
地蔵院は鎌倉時代末期の創建とされる古刹で、幕府の御家人・二階堂氏ゆかりの寺と伝わる
境内のしだれ桜は昭和53年の文化財指定当時で樹齢350年前後といわれた古木。さすがにちょっとお疲れにも見えた
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5/18 14:51
境内のしだれ桜は昭和53年の文化財指定当時で樹齢350年前後といわれた古木。さすがにちょっとお疲れにも見えた
旧道と現川越街道の合流点手前を左に入ると、「亀久保の馬頭観音」。先の鬼鹿毛と一緒に走ってきた馬が亀久保で倒れ、馬頭観音として葬ったとの説もあるとか
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5/18 15:00
旧道と現川越街道の合流点手前を左に入ると、「亀久保の馬頭観音」。先の鬼鹿毛と一緒に走ってきた馬が亀久保で倒れ、馬頭観音として葬ったとの説もあるとか
旧道と現川越街道合流点に建つ亀久保神明神社。創建は戦国時代末期とも云われるが詳細は不明。江戸時代までは亀久保村の鎮守だったという
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5/18 15:05
旧道と現川越街道合流点に建つ亀久保神明神社。創建は戦国時代末期とも云われるが詳細は不明。江戸時代までは亀久保村の鎮守だったという
一旦合流した川越街道もこの先再び旧道と分かれる
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5/18 15:19
一旦合流した川越街道もこの先再び旧道と分かれる
旧道分岐点横には鶴ヶ岡厄除地蔵尊。元禄7年(1694)に建立されたもの
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5/18 15:22
旧道分岐点横には鶴ヶ岡厄除地蔵尊。元禄7年(1694)に建立されたもの
すぐ隣に鶴ヶ丘八幡神社。江戸時代、この辺りは鶴ヶ丘村と呼ばれ、その地名が付いたようだが、神社の沿革は不明のようです
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5/18 15:22
すぐ隣に鶴ヶ丘八幡神社。江戸時代、この辺りは鶴ヶ丘村と呼ばれ、その地名が付いたようだが、神社の沿革は不明のようです
和菓子屋さんの前に「藤馬中宿跡」の標柱。後ろの説明板は後ろの藤の木に関するものでした
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5/18 15:33
和菓子屋さんの前に「藤馬中宿跡」の標柱。後ろの説明板は後ろの藤の木に関するものでした
高階中学校前には門扉の奥の祠に宝永5年(1708)造立の庚申塔が納められていた。左の馬頭観音は天保2年(1831)のもの。右も風化が進んでいるが馬頭観音のようだ
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5/18 15:57
高階中学校前には門扉の奥の祠に宝永5年(1708)造立の庚申塔が納められていた。左の馬頭観音は天保2年(1831)のもの。右も風化が進んでいるが馬頭観音のようだ
砂新田の春日神社前を通過。創建年代等は不詳ながら、戦国時代から江戸時代前期にかけての創祀ではないかといわれる
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5/18 16:08
砂新田の春日神社前を通過。創建年代等は不詳ながら、戦国時代から江戸時代前期にかけての創祀ではないかといわれる
不老川を渡ると道は上り坂となる。この坂は烏頭坂。船で運ばれた荷物を町まで運び上げる川越の難所だったそうだ。坂上には熊野神社が鎮座する
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5/18 16:24
不老川を渡ると道は上り坂となる。この坂は烏頭坂。船で運ばれた荷物を町まで運び上げる川越の難所だったそうだ。坂上には熊野神社が鎮座する
境内に入るとすぐに「都内見晴台」があった。どこが見えているのかはっきりしないが、練馬区も立派な都内だ
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5/18 16:25
境内に入るとすぐに「都内見晴台」があった。どこが見えているのかはっきりしないが、練馬区も立派な都内だ
岸町熊野神社といわれ、創建年代等は不詳ながら、岸村が開拓された江戸時代初期には奉斎されていたのではないかとのこと
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5/18 16:28
岸町熊野神社といわれ、創建年代等は不詳ながら、岸村が開拓された江戸時代初期には奉斎されていたのではないかとのこと
社殿裏手の諸神には主だった全国の神社の石塔が祀られています。その数13基
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5/18 16:30
社殿裏手の諸神には主だった全国の神社の石塔が祀られています。その数13基
境内には富士塚ならぬ「木曽御嶽塚」もありました。こちらも珍しいですね
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5/18 16:35
境内には富士塚ならぬ「木曽御嶽塚」もありました。こちらも珍しいですね
国道16号線を歩道橋で渡ります
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5/18 16:39
国道16号線を歩道橋で渡ります
仙波浅間神社は平安時代に源頼義が奥州征伐の途中に分霊し、長禄元年(1457)太田道灌が再営。永禄9年(1566)に北条氏の臣 中山角四良左衛門が再興したといいます
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5/18 16:44
仙波浅間神社は平安時代に源頼義が奥州征伐の途中に分霊し、長禄元年(1457)太田道灌が再営。永禄9年(1566)に北条氏の臣 中山角四良左衛門が再興したといいます
浅間神社社殿が建っている小山は「浅間神社古墳」という古墳で、高さ5.8m、径が4.2mほどの大型円墳だそうです
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5/18 16:44
浅間神社社殿が建っている小山は「浅間神社古墳」という古墳で、高さ5.8m、径が4.2mほどの大型円墳だそうです
階段脇には「万葉遺跡 占肩の鹿見塚」。古代日本人は、鹿の肩骨を焼きそのヒビ割れの形によって吉凶を占った習慣があったそうです。
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5/18 16:45
階段脇には「万葉遺跡 占肩の鹿見塚」。古代日本人は、鹿の肩骨を焼きそのヒビ割れの形によって吉凶を占った習慣があったそうです。
駅に向かうと寛永元年(1624)に勧請された菅原神社。奥に天文18年(1594)に勧請されたという六塚稲荷神社も有りましたが撮影を忘却
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5/18 16:57
駅に向かうと寛永元年(1624)に勧請された菅原神社。奥に天文18年(1594)に勧請されたという六塚稲荷神社も有りましたが撮影を忘却
手前の路地を入ると小江戸川越七福神一番札所となっている妙善寺。寛永3年(1624)の創建と云われる
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5/18 17:02
手前の路地を入ると小江戸川越七福神一番札所となっている妙善寺。寛永3年(1624)の創建と云われる
本堂横には川越さつまいも地蔵尊。サツマイモを現代人を救う健康食として復興させようという願いのもと平成17年(2005)に造立された。今日はここまで
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5/18 17:02
本堂横には川越さつまいも地蔵尊。サツマイモを現代人を救う健康食として復興させようという願いのもと平成17年(2005)に造立された。今日はここまで
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