記録ID: 8307005
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2025年06月20日(金) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:08
- 距離
- 3.6km
- 登り
- 6m
- 下り
- 0m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年06月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
神泉苑
(中京区御池通神泉苑町東入門前町)
※本尊 聖観世音菩薩(本堂)
平安京造営の際の禁苑であるが、現在は東寺真言宗の寺院。
法成就池に天長元年(824)空海(弘法大師)が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。
中国の霊囿にならって造営された苑内には乾臨閣や左右の楼閣、釣殿などを建立、桓武天皇以後、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。
貞観5年(863)、同11年には現在の祇園祭(→281頁)の発祥となる御霊会が行われ、全国の国の数にあたる66本の矛を立てて、神泉苑の池水で清めた。
これ以後、禁煙と霊場の性格を併せ持つようになったが、中世以後は荒廃した。
慶長7年(1602)に神泉苑の泉を利用して二条城(→45頁)の内堀が造営されるに伴い、苑域が大幅に縮小された。
同12年に快雅が中興して真言宗寺院となった。
境内の一帯は国の史跡に指定されている。
毎年5月2日から4日に神泉苑祭が行われ、11月上旬には境内の狂言堂で神泉苑大念仏狂言が上演公開される。
→神泉苑(平安時代の庭園)217・218頁、神泉苑大念仏狂言308頁、神泉苑祭313頁
(京都検定テキスト)
(中京区御池通神泉苑町東入門前町)
※本尊 聖観世音菩薩(本堂)
平安京造営の際の禁苑であるが、現在は東寺真言宗の寺院。
法成就池に天長元年(824)空海(弘法大師)が勧請して祈雨の修法を行った善女龍王を祀る。
中国の霊囿にならって造営された苑内には乾臨閣や左右の楼閣、釣殿などを建立、桓武天皇以後、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。
貞観5年(863)、同11年には現在の祇園祭(→281頁)の発祥となる御霊会が行われ、全国の国の数にあたる66本の矛を立てて、神泉苑の池水で清めた。
これ以後、禁煙と霊場の性格を併せ持つようになったが、中世以後は荒廃した。
慶長7年(1602)に神泉苑の泉を利用して二条城(→45頁)の内堀が造営されるに伴い、苑域が大幅に縮小された。
同12年に快雅が中興して真言宗寺院となった。
境内の一帯は国の史跡に指定されている。
毎年5月2日から4日に神泉苑祭が行われ、11月上旬には境内の狂言堂で神泉苑大念仏狂言が上演公開される。
→神泉苑(平安時代の庭園)217・218頁、神泉苑大念仏狂言308頁、神泉苑祭313頁
(京都検定テキスト)
元離宮二条城
(中京区二条通堀川西入二条城町)
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通で画され、西側が西ノ京式部町に接する。その周囲は幅約10〜22メートルの堀に囲まれている。世界遺産(文化遺産)
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として築かれたもの。
着工を前にした慶長6年(1601)5月には、建設予定地の町家の立ち退きが行われたらしく、『義演准后日記』には「町屋4、5千間(軒)モノクト云々」との記録が見える。
同年12月には畿内の諸大名に築城費用の負担が命じられ、翌7年5月、京都所司代板倉勝重に総奉行が命ぜられ、縄張りは築城の名手藤堂高虎があたり、大工頭の中井正清が作事を指揮した。
慶長8年2月、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、同年3月、親王や公家衆らが二条城の家康に参賀した。
以後、二条城は、徳川幕府の京での象徴となった。
大阪冬の陣、夏の陣では軍議の舞台ともなり、また元和6年(1620)、徳川秀忠の娘東福門院和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する際には、華々しい行列が二条城から禁裏に向かった。
寛永3年(1626)には、徳川秀忠の主催により後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、同城は脚光を浴びることになったのである。
徳川家光の時代に行われたこの行幸に伴い、二条城では大規模改修が実施された。
現存する二の丸御殿(国宝)は、この時の作事によってほぼでき上がったものである。
南に正門にあたる唐門(重要文化財)を配置し、御殿は遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院からなる。
内部には狩野探幽を始めとする狩野派の描いた障壁画(一部は重要文化財)があり、絢爛豪華である。
その他、東と北の大手門や東南・西南の隅櫓、本丸櫓門や本丸御殿など、重要文化財に指定されている建造物も多い。
中島のある池と築山からなる二の丸庭園は、国の特別名勝に指定されている。
なお、この拡張工事には尾張徳川家(義直)をはじめ、親藩・譜代の大名19家が動員され、小堀政一(遠州)が作事奉行を務めた。
さらに寛永11年(1634)には、徳川家光が30万人余の大軍勢を率いて上洛、二条城に入った。
それ以降、将軍の上洛は幕末に至るまで行われなかった。
江戸時代初期、徳川秀忠・家光の上洛に際し、二条城には警衛などのために二条城代が置かれた。
二条城代はのちに廃止され、その職務の一部は二条在番に引き継がれた。
万治3年(1660)には暴風雨、寛文年間(1661〜73)には二度に及ぶ大地震、元禄14年(1701)には雷雨による破損が続いた。
寛延3年(1750)には雷火によって五層の天守が焼失。
以後ついに再建されることはなかった。
また天明8年(1788)の大火では、本丸御殿や隅櫓なども類焼の憂き目にあっている。
二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、文久3年(1863)、第14代将軍徳川家茂が久方ぶりの上洛を果たしてからのこと。
慶応2年(1866)には、最後の将軍徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けたが、翌3年10月になると大政奉還の舞台として二条城が歴史に名を留めることになった。
奇しくも二条城は、徳川幕府の始まりと終焉の舞台となったのである。
明治元年(1868)、二条城は明治新政府によって接収され、同4年から京都府庁が置かれた。
その後、宮内省に移管され二條離宮となる。
現在の本丸御殿(重要文化財)は桂宮家より主要な建物が明治26〜27年(1893〜94)に移築されたもの。
昭和14年(1939)には京都市に下賜された。
敷地一帯は「旧二條離宮(二条城)」として、国の史跡に指定されている。
→世界遺産47頁、国宝建築203頁、二の丸御殿(宮殿・邸宅の建築)209頁、特別名勝庭園216頁、二の丸庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)223・225・226頁
(京都検定テキスト)
(中京区二条通堀川西入二条城町)
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通で画され、西側が西ノ京式部町に接する。その周囲は幅約10〜22メートルの堀に囲まれている。世界遺産(文化遺産)
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として築かれたもの。
着工を前にした慶長6年(1601)5月には、建設予定地の町家の立ち退きが行われたらしく、『義演准后日記』には「町屋4、5千間(軒)モノクト云々」との記録が見える。
同年12月には畿内の諸大名に築城費用の負担が命じられ、翌7年5月、京都所司代板倉勝重に総奉行が命ぜられ、縄張りは築城の名手藤堂高虎があたり、大工頭の中井正清が作事を指揮した。
慶長8年2月、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、同年3月、親王や公家衆らが二条城の家康に参賀した。
以後、二条城は、徳川幕府の京での象徴となった。
大阪冬の陣、夏の陣では軍議の舞台ともなり、また元和6年(1620)、徳川秀忠の娘東福門院和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する際には、華々しい行列が二条城から禁裏に向かった。
寛永3年(1626)には、徳川秀忠の主催により後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、同城は脚光を浴びることになったのである。
徳川家光の時代に行われたこの行幸に伴い、二条城では大規模改修が実施された。
現存する二の丸御殿(国宝)は、この時の作事によってほぼでき上がったものである。
南に正門にあたる唐門(重要文化財)を配置し、御殿は遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院からなる。
内部には狩野探幽を始めとする狩野派の描いた障壁画(一部は重要文化財)があり、絢爛豪華である。
その他、東と北の大手門や東南・西南の隅櫓、本丸櫓門や本丸御殿など、重要文化財に指定されている建造物も多い。
中島のある池と築山からなる二の丸庭園は、国の特別名勝に指定されている。
なお、この拡張工事には尾張徳川家(義直)をはじめ、親藩・譜代の大名19家が動員され、小堀政一(遠州)が作事奉行を務めた。
さらに寛永11年(1634)には、徳川家光が30万人余の大軍勢を率いて上洛、二条城に入った。
それ以降、将軍の上洛は幕末に至るまで行われなかった。
江戸時代初期、徳川秀忠・家光の上洛に際し、二条城には警衛などのために二条城代が置かれた。
二条城代はのちに廃止され、その職務の一部は二条在番に引き継がれた。
万治3年(1660)には暴風雨、寛文年間(1661〜73)には二度に及ぶ大地震、元禄14年(1701)には雷雨による破損が続いた。
寛延3年(1750)には雷火によって五層の天守が焼失。
以後ついに再建されることはなかった。
また天明8年(1788)の大火では、本丸御殿や隅櫓なども類焼の憂き目にあっている。
二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、文久3年(1863)、第14代将軍徳川家茂が久方ぶりの上洛を果たしてからのこと。
慶応2年(1866)には、最後の将軍徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けたが、翌3年10月になると大政奉還の舞台として二条城が歴史に名を留めることになった。
奇しくも二条城は、徳川幕府の始まりと終焉の舞台となったのである。
明治元年(1868)、二条城は明治新政府によって接収され、同4年から京都府庁が置かれた。
その後、宮内省に移管され二條離宮となる。
現在の本丸御殿(重要文化財)は桂宮家より主要な建物が明治26〜27年(1893〜94)に移築されたもの。
昭和14年(1939)には京都市に下賜された。
敷地一帯は「旧二條離宮(二条城)」として、国の史跡に指定されている。
→世界遺産47頁、国宝建築203頁、二の丸御殿(宮殿・邸宅の建築)209頁、特別名勝庭園216頁、二の丸庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)223・225・226頁
(京都検定テキスト)
御金神社
(中京区西洞院通御池上ル押西洞院町)
※祭神 金山毘古命、天照大御神、月読命
もともと個人の屋敷の邸内社であったが、参拝者が多く、現在の社殿が明治16年(1883)に造営された。
金属類、鉱山、鉱物を護る神とされる金山毘古命を主祭神とする。
近年、金運・招福・開運のご利益を求めて、遠方からの参拝者も多い。
正面の金の鳥居や、境内の樹齢200年を越える銀杏が有名。
(京都検定テキスト)
(中京区西洞院通御池上ル押西洞院町)
※祭神 金山毘古命、天照大御神、月読命
もともと個人の屋敷の邸内社であったが、参拝者が多く、現在の社殿が明治16年(1883)に造営された。
金属類、鉱山、鉱物を護る神とされる金山毘古命を主祭神とする。
近年、金運・招福・開運のご利益を求めて、遠方からの参拝者も多い。
正面の金の鳥居や、境内の樹齢200年を越える銀杏が有名。
(京都検定テキスト)
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感想
今日もご近所を歩く
やっぱり朝は気持ちが良い♫
二条城のお堀はウォーキングの人でいっぱい
帰りは地下鉄でビュ〜
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