記録ID: 8522128
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ハイキング
近畿
皇極・斉明天皇の遺跡巡り
2025年08月06日(水) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 06:06
- 距離
- 20.0km
- 登り
- 351m
- 下り
- 346m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:56
- 休憩
- 2:09
- 合計
- 6:05
距離 20.0km
登り 351m
下り 346m
15:20
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
斉明天皇とその娘である間人皇女の陵墓。発掘調査後2022年に綺麗な葺石で覆われた。これも100年後は森に覆われた古墳になるのだろう。
八角形の古墳は天皇の住まう所を表す。舒明・斉明・天智・天武+持統・文武の陵墓は八角形であり、これ以降古墳はほとんど作られなくなった。薄葬令にもよるが、古墳を作るよりも寺を作ることで勢力を示すようになっていった。
斉明天皇とその娘である間人皇女の陵墓。発掘調査後2022年に綺麗な葺石で覆われた。これも100年後は森に覆われた古墳になるのだろう。
八角形の古墳は天皇の住まう所を表す。舒明・斉明・天智・天武+持統・文武の陵墓は八角形であり、これ以降古墳はほとんど作られなくなった。薄葬令にもよるが、古墳を作るよりも寺を作ることで勢力を示すようになっていった。
益田岩船
牽牛子塚古墳から北西に570mのところにある。固い飛鳥石に2つの穴が開けられているが、片方は水が溜まらず底にヒビが入っているらしい。斉明天皇はこれを石室にして陵墓を作りたかったのだろう。ここは川原寺の真西(西方)にある。
牽牛子塚古墳から北西に570mのところにある。固い飛鳥石に2つの穴が開けられているが、片方は水が溜まらず底にヒビが入っているらしい。斉明天皇はこれを石室にして陵墓を作りたかったのだろう。ここは川原寺の真西(西方)にある。
鬼の俎板
これの上に鬼の雪隠が乗っかっていて1つの石室となっていた。これが斉明天皇の初葬墓だという説もある。かつてこれのすぐ右側にもう一つ小さな俎板状の石があり、8歳で亡くなった建皇子(斉明天皇の孫:持統天皇の弟)の墓ではなかったかと言われているが、今は無い。
これの上に鬼の雪隠が乗っかっていて1つの石室となっていた。これが斉明天皇の初葬墓だという説もある。かつてこれのすぐ右側にもう一つ小さな俎板状の石があり、8歳で亡くなった建皇子(斉明天皇の孫:持統天皇の弟)の墓ではなかったかと言われているが、今は無い。
天武天皇・持統天皇の陵墓
天武天皇は皇極天皇の子、持統天皇は皇極天皇の孫(天智天皇の子)。
持統は天皇としては初めて荼毘に付され、石室には天武の石棺と持統の骨壺がある。
ここも八角墳であり周りを歩けるが八角形とは分からなかった。
天武天皇は皇極天皇の子、持統天皇は皇極天皇の孫(天智天皇の子)。
持統は天皇としては初めて荼毘に付され、石室には天武の石棺と持統の骨壺がある。
ここも八角墳であり周りを歩けるが八角形とは分からなかった。
飛鳥旧跡
同じ場所(すこしずれながら)に、
I期が飛鳥岡本宮(630 - 636年)
II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年)
III期が後飛鳥岡本宮(656 - 656年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年)
があった。
同じ場所(すこしずれながら)に、
I期が飛鳥岡本宮(630 - 636年)
II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年)
III期が後飛鳥岡本宮(656 - 656年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年)
があった。
645年
飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が中大兄皇子に殺される乙巳の変が起こった。皇極天皇の目の前で起こったが、天皇は「私は何も知りません」とさっさと奥に引き上げた。こんな大事件を目の当たりにして「何も知りません」というのは「よく知っていた」、というよりも、首謀者ではないかと思う。
飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が中大兄皇子に殺される乙巳の変が起こった。皇極天皇の目の前で起こったが、天皇は「私は何も知りません」とさっさと奥に引き上げた。こんな大事件を目の当たりにして「何も知りません」というのは「よく知っていた」、というよりも、首謀者ではないかと思う。
石垣
斉明天皇は石上神宮からここまで水路(渠)を作って石を運び飛鳥に城壁を作った。舟200隻、水路を掘る功夫3万人、石垣を作る功夫7万人を用したため、時の人が謗って「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と呼んだ。
当時、唐が百済を滅ぼし倭国に攻め込んでくる脅威があったのでその防御のためであったが、庶民はそれを知らなかった。
斉明天皇は石上神宮からここまで水路(渠)を作って石を運び飛鳥に城壁を作った。舟200隻、水路を掘る功夫3万人、石垣を作る功夫7万人を用したため、時の人が謗って「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と呼んだ。
当時、唐が百済を滅ぼし倭国に攻め込んでくる脅威があったのでその防御のためであったが、庶民はそれを知らなかった。
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社
(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)
日本一長い名前の神社。
200段もの階段で一気に40m近くを登る。
神社の境内では涼風が吹き、とても気持ちがよかった。
(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)
日本一長い名前の神社。
200段もの階段で一気に40m近くを登る。
神社の境内では涼風が吹き、とても気持ちがよかった。
干ばつが続いたとき皇極天皇はここで雨乞いの祈祷をした。俄かに雲が起こり5日間の大雨となった。飛鳥の地は潤い、庶民は皇極天皇を称賛した。
明治期までここには伝統の雨乞いの祭りが行われていたそうだ。
さてここで皇極・斉明天皇の遺跡巡りは終わりとし、一つ横の谷筋の彩色古墳巡りをする。
明治期までここには伝統の雨乞いの祭りが行われていたそうだ。
さてここで皇極・斉明天皇の遺跡巡りは終わりとし、一つ横の谷筋の彩色古墳巡りをする。
感想
連日日本最高気温が更新される中、自転車で飛鳥を駆け巡りとても疲れた、が、とても充実した1日であった。飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の境内では涼やかな風に吹かれてとても気持ちよかった。
皇極天皇は乙巳の変後一度退位(譲位)し、その後もう一度斉明天皇となった(重祚)女帝です。日本で2番目の女帝ですが、天智天皇・天武天皇の母でありとても偉大な人と思います。
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