豊後街道を歩く(久住宿〜神堤宿〜今市宿〜矢ノ原)


- GPS
- 08:08
- 距離
- 29.3km
- 登り
- 294m
- 下り
- 739m
コースタイム
- 山行
- 7:54
- 休憩
- 0:15
- 合計
- 8:09
天候 | 曇ときどき小雨 |
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過去天気図(気象庁) | 2025年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
矢ノ原郵便局でリタイアしてタクシーで帰りました。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
久住周辺の豊後街道は一部原形を失っている。 |
写真
歴史的には豊後国の人は、肥後国の殿様が通るから「肥後街道」、肥後国の人は豊後国を通って瀬戸内に抜けるから「豊後街道」と言っていたという。
今は大分県でも豊後街道呼びが多い気がする。
松尾 卓次氏による「豊後街道を行く」ではここから左の山を登り、ハゼ山を迂回して「坂口の石畳」へ続くとされている。
でも個人的な見解はここは直進、急峻な山肌をトラバースして、直接「坂口の石畳」に繋がっていたとと践んでいます。
緑が私が推す「豊後街道候補」
青が松尾氏による「豊後街道」(正確には古地図に合わせて記載の道とはだいぶ異なったルート)
右上のM字になった部分は、明治36年の地図からその存在が記載されている。今は直進化されているが、その旧道跡が残されていると期待していました。
石畳があると、浸食をうけにくく、石畳の場所が相対的に隆起していく。ビュートの形成に似ている。
となると、この一段高い道は、石畳の跡だったのではないかと推測しました。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ソフトシェル
タイツ
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
ゲイター
日よけ帽子
着替え
靴
予備靴ひも
針金
テーピングテープ
細引(設営用)
ザック
ザックカバー
昼ご飯
行動食
飲料
地図(地形図)
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
マグライト
予備電池
ポータブル充電機
GPS
筆記用具
常備薬
日焼け止め
保険証
携帯
時計
サングラス
タオル
ナイフ
カメラ
ストック
ビーコン
サバイバルシート
ツェルト
ペグ8本
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感想
豊後街道(肥後街道)を歩く Part1
今回は以前から道の同定を進めていた豊後街道を繋げる企画の第一弾。豊後街道は熊本城から鶴崎港までの約140kmを4泊5日で横断する、江戸時代に使われた往還道で、当時は石畳で舗装された高速道路のような役割でした。至る所に宿場町が整備されており、その大部分は現在の県道や国道に転用されるほど洗練された起伏を殺したルートでした。今回は久住宿から野津原宿までの約40kmの踏破が目的。
とはいっても半分は既に歩いたり、調査済みの区間です。この区間で難所となるのは、運動公園から小倉集落まで、町上の石畳の区間。(あと状態によっては伊塚、赤坂)
上の難所のうち、運動公園から小倉集落までは写真を参考にしてください。少なくともこの時期の通行はおすすめできません。また一部、工場敷地や伐採でとげとげ区間があるので、迂回必須で忠実には歩けない。どうしてもと言うこだわりがなければ、この区間だけ迂回するのが賢明です。
今回の区間は踏破だけでなく、古道の同定ももう一つの目的。堪水から坂口の石畳の区間は、どんなコースをとっていたか諸説が分かれています。豊後街道について出有名な書籍に「豊後街道を行く」がありますが、この本に寄れば、堪水から田ノ口へ、ハゼ山を通って坂口の石畳に続く道が紹介され、「七瀬川で急峻なので当時は道が通せずに遠回りの道となった」と書かれています。確かによくある話なので「なるほど」とも思いましたが、この程度の傾斜なら街道が引かれた例はいくらでもありますし、いかに早く往復するかを求めていた当時の人たちにこんな大回りを強いるか・・・と言う疑問もありました。
明治36年の地図を見てみると、すでに七瀬川沿いの今の412線の位置に片破線の道の記載があります。この破線の道は野津原宿から久住宿まで現在の廃道区間も含めて、ずっと続いており、これが豊後街道であったと推察できる。この明治36年(1903年)は自動車と言ったら「山羽式蒸気バス」の時代で、とてもではないが山道など走れない性能だったことも考えると、この道は完全なる徒歩道、二重線であることからそれなりの人が同時に歩ける高規格な道だったと推認される。一方、ハゼ山を回るルートはハゼ山から田ノ口の区間は谷を詰める構造であるのに加え単破線の道なので地元の人が使う生活道だったようだ。
私の仮説が正しいとなると、現在は廃道となっている巻き道にヒントが眠っている可能性が高い。この現在の412号線は直線単純化された現在とは異なり、うまく尾根を巻いていく曲がりくねったトラバースの道であったことは古い航空写真からも明らかだが、旧道跡は拡幅されたアスファルトに飲まれるか、法面工事でほとんどが消えてしまっている。この道は航空写真を見るところ1960年までは車両通行が困難な徒歩道として活用されていたようである。しかしながら車社会になるにつれ、拡幅困難な七瀬川沿いの現412号線ではなく、他の安定した道に置き換えられ、1970年代になると、ハゼ山をまわる道が軽車道に格上げされた代わりに、地図上からも完全に消滅していた期間が存在する。(このあたりは資料が無いので推察になるのですが、地形から見て地滑りを起こして寸断された結果、廃道となったような気がします。)その後、1981年には復活して今の412号線「久住高原野津原線」となるが、この際に大規模な土木工事が行われ、道路の近代化と直線化がされ立派な車道となった。
その中で今回見つけた坂上の石畳前にあるM字の区間(明治36年の久住5万分の1の地図をお持ちの方はご覧ください)。この区間は地図上で車道として使われた痕跡が無く、近代化改修時に本道から切り離されたため手つかずの状態で残っている可能性があると踏んでいました。今回その区間を調べてみると、道幅2m程度のしっかり作り込まれた道ですが、車が通るには狭すぎ、コンクリやアスファルトの痕跡が一切無いため想像通り、車道としては使われていなかったようです。さらに山際には一段高くなった段差のある道で、おそらく高くなった部分が石畳で舗装されていたと思われます。しかし、肝心の石畳の石は見つからず、完全に断定はできない状態でした。ちなみにこの古道は現在の412号線の法面に突き刺さって途絶しており、完全にはたどれず引き返すしかなかったです。
その後、坂上の石畳を通り、残念ながら矢ノ原でギブアップしました。でも今回はたくさん収穫もあり、定説を揺さぶることもできたのでよしです。次回は矢ノ原から鶴崎までの26km程度。ただし、暑い時期はこりごりなのでもう少し涼しくなってからリベンジです。
コメント
この記録に関連する登山ルート
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いつも通る道なので、フムフムと思いながら写真を拝見しました。
残念ながら、手元の明治36年の5万分の1の地形図は、昭和58年に修正されていました。なので明治の日本交通分縣地図大分縣を確認しました。堪水から分岐した道は、一つは今畑へもう一つは竹矢へとつながっていたので、青線は?の気がします。縮尺が小さいので何とも言えませんが💦
久しぶりのそれなりの距離だったので、だいぶダメージが大きかったです。
豊後街道をインターネットで調べても、遠回りの道(青線のもの)を歩いている人が多かったので、下調べに時間がかかってしまいました。他の地図を見ても、辻原ー竹矢ー上詰(堪水)ー今市の道と、鬼瀬ー筒口ー太田ー上詰ー今市の道は別に書かれているので、青の道はバイパス的な農道だったのではと思います。
豊後街道は鶴崎付近は区画整理でほとんど残っていません。それでもある程度は忠実に辿ろうと思います。
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