光照寺@盛岡市 鶴彬(つるあきら)句碑から墓前祭へ参加

- GPS
- 01:00
- 距離
- 1.0km
- 登り
- 2m
- 下り
- 0m
コースタイム
- 山行
- 1:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 1:00
過去天気図(気象庁) | 2025年09月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
・この日の岩手日報に9月14日は反戦川柳作家「鶴彬」の命日だという記事が掲載
・「鶴彬」という名前は生前の父親から聞いていたが、
反戦の川柳人である
代表句は「手と足をもいだ丸太にしてかへし」
お墓が盛岡市にある
程度しか知らなかった
・新聞には句碑が光照寺にあると書いてあったので行ってみた
・光照寺に行くと句碑が山門のそばにあり分かりやすかった
・句を読み、句碑の裏の説明を読んだ
・お墓があるはずと周囲を探したがお寺の墓地を発見できず
・そうこうしているうちに3名の方が句碑を見ていた
・お一人が、これからお墓に行くのでご一緒にと誘って下さった
・お墓は、本誓寺の裏門から入ったところにあった
・案内も無くそこが光照寺の墓地なのかどうかもわからないが、案内いただき、鶴彬の墓地に到着
・お墓には数名の方が集まっていて12:15から墓前祭を行うという
・お線香をいただきお墓に手を合わせる
・その後、参加の15名ほどが一言ずつ挨拶
牛山靖夫さんのお話の一部
鶴彬のお兄さんとその子孫の方がお墓を守っていたが縁が途切れた
鶴彬のお墓は光照寺が守っていく方向になったと
・名乗るほどの者ではなかったが父と鶴彬の話をする
・思いがけず鶴彬の墓前祭に参加した形になった
・父親の導きのような気がした
・集まっていたのは以下の皆様だった
「鶴彬を語る盛岡の会」
「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟岩手支部」
・鶴彬を調べた
鶴彬(1909–1938)の生涯と時代背景
1909年(明治42年)、石川県河北郡花園村(現・津幡町)に生まれる
時代背景:彼が青年期を過ごしたのは大正末期から昭和初期
日本が軍国主義へと傾き、治安維持法による思想弾圧が厳しさを増した時代
死去:1938年(昭和13年)、特高警察に逮捕・投獄
獄中で赤痢により29歳で死去
絶筆六句
特高につかまるきっかけとなった、いわゆる「絶筆六句」
・高梁の実りへ戦車と靴の鋲
・屍のゐないニュース映画で勇ましい
・出征の門標があってがらんだうの小店
・万歳とあげて行つた手を大陸へおいて来た
・手と足をもいだ丸太にしてかへし
・胎内の動き知るころ骨がつき
・反戦の想いが伝わる激しく生々しい句にビックリ
・思想弾圧の時代に声を上げていたことも衝撃
・逮捕や投獄の後、獄中病死は本当かどうか分からないやるせなさ
鶴彬ってどんな人?
https://tsuruakira.jp/tsuruakira/
光照寺
https://tesshow.jp/gallary/iwate/temple_mori_kosho.html
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