ヤブレコ☆備前楯山南稜周回〜金龍山・水山
- GPS
- 172039:49
- 距離
- 14.6km
- 登り
- 1,041m
- 下り
- 1,044m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2020年04月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
自家用車
○庚申ダム駐車場 数台程度、区分けあり、無料、出入り自由、トイレなし 銅庚申アンダー近くの庚申山碑(登り口)まで1.2kmの舗装路のくだり。 庚申ダム事務所 0288-93-2604 |
コース状況/ 危険箇所等 |
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ※※ 全行程バリエーションルート。整備された登山道はありません。 ※※ ※※ 道標、梯子、鎖、ロープ、一切なし。道迷い、滑落注意。 ※※ ※※ 目印は、ピンクテープが分岐に3箇所くらい。 ※※ ※※ 登山道は備前楯山の山頂直前のみ。携帯電波はなんとか入る。 ※※ ※※ 踏み跡明瞭箇所、不鮮明、全く不明が同比率。 ※※ ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 銅庚申アンダー付近からの登路。 庚申山碑の脇辺りから入る。いきなり、急斜面の登り。下りは危険。 登りきると明るい尾根伝い。鹿柵が出る辺りから、藪が出てきて、マダニが藪をひと漕ぎで、数匹くらいつく状況。忌避剤必須。 備前楯山までは、尾根上なので、特に問題なく。 金龍山へ向かう尾根への分岐には、ピンクテープがついていた。 備前楯山の山頂直前で、一般登山道に合流。 金龍山へと向かう尾根にのると、明瞭な踏み跡が出てくる。 踏み跡が藪に消えると、マダニ地獄の藪漕ぎ。 岩稜帯は、全体的に浮石多く急斜面で滑落注意。 金龍山の手前で、斜面を駆け下っていく子熊を見ました。熊注意。 金龍山の周辺は、第二マダニポイント。 枝や葉っぱが体に少しでもかすったら、その都度、確認する必要あり。 必ず、数匹は食らいついている。 金龍山を過ぎて、それまで藪藪していたのが、急に歩きやすくなると、857m峰。 ここの先を、左へ折れる箇所がある。気にしていないと、直進してしまうと思う。 一応の目印として左手にピンクテープがある。 標高がさがるにつれて、徐々に踏み跡が明瞭になり、ふと見れば、蓮慶寺の裏手。 ▼マダニ注意 活動時期は通年。特に4月〜10月の気温が15度以上で活発に活動。 備前楯山南稜は、マダニの一大生息地帯。 庚申碑の先と、金龍山周辺の藪を漕ぐ辺りが特に多かった。 藪をひと漕ぎすると、数匹は食らいつく状況。 気温は10度を下回っていたと思うけど、マダニいた。 ▼狩猟期間中の入山注意 11月15日より翌年3月15日までの間 ▼見かけた動物 鹿…8頭くらい、カモシカ…1頭、子熊…1頭、ニンゲン…ゼロ ▼備前楯山登山ガイド http://ashio.shokokai-tochigi.or.jp/bizentateyama%20Tozan/kikaku.htm |
その他周辺情報 | ▼温泉 近くの入浴可能施設は、国民宿舎かじか荘があるけど、 コロスケの影響で、2020年5月10日まで休館。 ▼備前楯山バッジ 調査した限りは、無し。 |
写真
感想
真の文明は、
山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、
人を殺さざるべし
というわけで。足尾鉱毒事件の現場を訪ねる山旅三部作の第三部です。え? 三部作? だったかな。前回の2017年の中倉山からだいぶ期間があいてしまいましたけども、行きたかった場所です。簀子橋堆積場を、是非とも、レア・ミート・アイ(生肉眼)で見たかったのです。私は城山三郎氏の『辛酸』を、それこそ舐めるように読んでいますので、そういう視点で無味乾燥な感想を書いてますので、以下は読み飛ばしてください。
▼備前楯山
備前楯山は栃木百名山に選出されており、標高は1272m。地下には足尾銅山の本坑が眠っており、坑道の総延長は1234キロメートル。東京から博多間に匹敵します。元は黒岩山という山名だったが、備前国の農民二人によって1610年に銅鉱が発見され、備前楯山と呼ばれるようになった。て、足尾のパンフレットに書いてありました。登山口の船石峠からは、遊歩道が整備され、あっという間に登ることができますが、それだと物足りないので、南稜を周回するルートを設定しました。先人を参考にして。過去のNYAAさんのレコにより、マダニがとにかく多いということだったので、できれば3月までに行きたかったのですけども、行けず。この時期となりました。実際のところ、マダニは通年活動するが、気温15度以上にならないと活発にならないというので、大丈夫だろうと甘く切なく考えていたら、尾根にのった所で、早速、靴に一匹喰らいついていた。ディート入りの忌避剤(スキンベープミスト)を吹きかけていたのに。葉っぱの裏に潜んでいるので、とにかく藪漕ぎは地獄。ひと漕ぎで数匹まとわりついてくる始末。その都度、払いのける。数えてはいないけども、30匹くらいは、ひっつかれたかな。なんか、この感想を書いていたら体が痒くなってきた。幸いにして、全く刺咬されなかったけど。素肌にも服にもかけまくった、スキンベープが効いていたのかも。
今回のルートは、整備された登山道は無いけども、備前楯山までは、想定していたほど藪が濃いわけでもなく、尾根伝いなので、そこまで難解ではなかった。金龍山方面へは、最初は明瞭な踏み跡が出てきたけど、ガレ場の下り辺りから、踏み跡が藪に消えてしまい、藪を漕いでは、マダニ払いの連続でした。足元も浮石が多く、脆くて崩れやすいので、足運びには気を使いました。足尾精錬所の煙害と山林火災で木が枯れてしまい、煙害対策が講じられてから100年以上経っても森林が再生しないので、眺めは良いですが、万人におすすめできるルートではないです。
▼簀子橋堆積場(すのこばしたいせきじょう)
堆積場とは、鉱山の精錬過程で発生する鉱滓(こうさい、スラグ)を水分と固形物に分離させて、固形物を堆積させる施設。一度、鉱山開発をしてしまうと、半永久的に亜鉛やヒ素といった鉱毒を含んだ湧き水が出続けるため、鉱山が閉山しようとも、山に雨が降ら無くならない限り、永遠に必要とされる施設です。また、唯一の稼働浄水場である中才浄水場(なかさいじょうすいじょう)は、旧坑内から流出される重金属類を含んだ酸性排水を石灰で中和して、渡良瀬川に流してくれています。
現在も、足尾銅山の関連企業が年間4億円という巨費を投じて水質浄化をしており、何もしなければ、瞬く間に鉱毒を含んだ汚染水が溢れて河川に流出し、再び、渡良瀬川下流域に足尾鉱毒事件が起きてしまいます。でも、明治時代に、立ち退かない住民の家屋を無断でぶち壊して、栃木県谷中村を強制廃村させて造った渡良瀬遊水地で流れてきた鉱毒を受け止めるので、安心安全です。渡良瀬遊水池を別名谷中湖というのは、水底に旧谷中村が眠っているからです。谷中村民16戸137人は、1911年に北海道サロマベツ原野に移住させられました。北海道佐呂間町に現在も残る「栃木」という地名は、その名残です。
▼佐呂間町〜もう一つの栃木
https://www.town.saroma.hokkaido.jp/shoukai/saromanorekisi.html
昨今の地球温暖化による異常気象の影響で、各地で台風が猛威を振るっており、大雨台風による土砂災害によって堆積場の崩落といった懸念が常に付きまといます。実際、簀子橋堆積場の上方にあるかつての堆積場は、一部の崩落がはじまっていました。流出した鉱毒を含んだ土砂は、下方にある簀子橋堆積場で、受け止めるから問題ないということでしょうか。
東日本大震災では、足尾周辺のいたるところにある堆積場のうち、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が再び決壊し、ヒ素、カドミウムといった重金属類を含んだ鉱毒が河川に流出し、環境基準を超える鉛が検出される騒動がありました。昨年の台風19号の影響で堆積場の水位が上昇し、施設の排出口から流出する水質の検査で環境基準を超える重金属類が検出されたそうですけども、カドミウムはイタイイタイ病の原因ですので、管理はしっかりとしてもらいたいです。渡良瀬川下流域にお住いの方、つまり、関東平野にお住いの方々は、この事実を知っていましたか。足尾鉱毒事件は、遠い昔のおとぎ話ではないということ。過去から現代まで続き、山に雨が降らなくなるまで永遠に続く公害であり、日本最初の公害であり、原点というわけです。
江戸時代に薩摩藩は屋久島の屋久杉を、貴重な自然であるとして、代官所を設けて保全していたというけども、足尾銅山に関しては、環境保全という考え方が毛頭なかった時代の話ですから、精錬所の煙突から立ち上る濃硫酸を含んだ煙によって、足尾周辺の山々がはげ山になってしまったことは、仕方ないことだと思います。ですが、現代は、しっかりと環境保全教育を受けた方々が、鉱山関係者の後始末を一生をかけてやってくださる気概に満ち溢れて、強い使命感を感じていることでしょうから、足尾周辺の緑化と水質浄化に人生を捧げてくれるものと信じております。
足尾の観光ガイドを入手したのですが、その中で、田中正造翁が足尾銅山ゆかりの人として紹介されていました。栃木県佐野市に生まれ、区会議員から県議、衆議院議員になったこと。鉱毒問題をたびたび国会で取り上げたこと。当時、やったら死は免れないと言われていた、天皇へ直訴したこと。渡良瀬川下流域で鉱毒の被害地であり、鉱山反対運動の中心地だった谷中村を渡良瀬遊水地の水底に沈めて、住民を散り散りにし、反対運動を鎮静化させようとした、政府のやり方に反対したことなどが書いてありました。多少、補足。
明治34年(1901年)、田中正造翁が死を覚悟で「お願いがございます」と明治天皇に渡そうとした直訴状は、平成25年(2013年)に渡良瀬遊水地や田中正造翁の出生地である佐野市を訪れた上皇陛下に伝えられました。田中正造翁の直訴から113年後のことでした。足尾銅山鉱毒事件で、銅山を運営していた古河鉱業が加害の事実を正式に認め、調停が成立したのは、正造翁の死から61年後の1974年(昭和49年)であり、これは、足尾銅山が閉山した1973年の翌年でした。
「近代化」という華々しい言葉の陰に隠れて、この国や一部のニンゲンが何をしてきたのか。その答えの一端が、足尾にはありました。
最後に。
田中正造翁が38歳で政治を志した時に父から言われた言葉を、忘れないようにここに書いておきます。
死んでから仏になるはいらぬこと、生きているうちよき人となれ。
原発や基地問題に、田中正造翁のごとき人物が現れると、実に厄介なんだと思います。被害民と苦楽を共にし、不正や国家権力に体当たりで立ち向かう。それに対して、田中正造翁の「民を殺すは國家を殺すなり」ではじまる憲政史上に残る大演説への当時の総理の答弁が、あまりにも無様で歴史に汚名を残してしまったことが、気の毒でならない。明治の人は常々凄いと思うけども、高潔な人物とその対極に位置する人種が必ずいるってのは、いつの時代でも同じことか。教育とはつくづく重要だと思う。
コメント
この記録に関連する登山ルート
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備前楯山南稜へようこそ
佐呂間町の「栃木」は知りませんでした。今度、行くことがあったら、立ち寄ってみたいです。
田中正造の記事など、参考になります。
あと、「平成天皇」は、現時点では存在しません。参考まで。
NYAAさん、コメントありがとうございました。
マダニはトモダチ、、、それは、新しい感覚です。
そして、その表現を、レコタイトルに使えればよかったと、今、思っています。
次回のマダニレコがありましたら、「マダニはトモダチ」というフレーズを使わせていただきます。
佐呂間町は、実は、去年、立ち寄った北見市のすぐ北側でした。
いつかは行く予定だったのですけど、去年は、それに気づかず素通りしてしまいました。
今年は、行けるといいです。
正造先生に関しては、書きつくした感がありますけど、まだ、渡良瀬遊水地の見学が済んでいませんので、いずれ、墓参りも兼ねて訪れる予定です。
天皇の表記に関しては、どう表現するか気にはなったのですけども、明治天皇がそのままだったので、そのままでいいんじゃないかという結論になり、あのようになりました。この場合、どう表記したら、よいのでしょうかね。
佐呂間町に立ち寄ったら、ぜひ、幌岩山にも登ってください。サロマ湖が一望できます。道の駅から登れますが、時間がなければ、山頂直下まで、車で行けます(;・∀・)
明仁様に関しては、「上皇陛下」と呼ぶのがいいのではないかと思います。
NYAAさん、コメントありがとうございました。
幌岩山ですか?
私もちょっとばかり、佐呂間町について調べてみて、仁頃山というのが気になっていました。なにやら、展望台があるとしか調べがついていなかったので、幌岩山も今年の候補に入れておきます。果たして、今年、北海道に行けるかどうかが最大の問題ですけど。
なるほど、上皇陛下ですね。
早速、表記を変更しておきました。
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