先日、町内である方の葬儀があった。
札幌から移住してきた私自身には面識はないが、町の名士の子息でもあり友人の友人だったり知り合いが兄弟だったり、狭い町なりに関係を求めればすぐに本人に行き着いてしまう。故人は私の2歳下、ほぼ同年代である。また聞くところによると、私と同じ持病があったそうだ。
故人の死因は急性心臓死とのことだったが、話によると雌阿寒岳の山開きに参加中、3合目辺りで体調が悪くなってドクターヘリで搬送され、そのまま帰らぬ人となったと言う。
雌阿寒岳といえば比較的初級者向けの山で、それも3合目とのことだから登山による無理が祟ったと言うことではあるまい。そもそもの体調が問題だったのだ。私も多少の風邪程度なら登山を強行することはある。全く他人事ではない。
こういう話があると、よく「山を舐めてはいけない」などと声高に叫ぶ人がいるが、私は頷きつつも内心はそれほど賛同していない。
登山に限らず、そもそも「絶対に安全」などというものはない。どんなことにも程度の差こそあれリスクはつきものだし、リスクを乗り越えることで人はスキルアップ出来るものでもある。万全の準備で望んだ登山で思わぬ噴火によって命を落とした登山者もいれば、サンダルとジーンズで羅臼岳に登ってきたというツワモノの話を聞いたこともある。
登山をある程度経験した方のほとんどは、「あの時はヤバかったね」「命拾いしたね」なんてエピソードをお持ちなのではないだろうか?私も何度か経験がある。
無知な初心者に、経験豊富な先輩として安全な方法をアドバイスすることはアリだろう。ただ彼らがそれを選択するかどうかは本人の自己責任だ。強制することではないと思う。もし「アドバイスされた方法」を採用せず危険な目に遭っても、それは彼らの経験になる。次への肥やしとなる。百聞は一見に如かず、なのだ。
最近、登山家の栗城史多君が亡くなった。彼の登山スタイルには賛否両論あったが、ネットではバッシングの方が多かったと思う。彼の売りである「単独無酸素」が偽りであると、彼の登山スキルには疑わしい部分が多いと。
私は無酸素に拘る意味が良く分からない。便利な道具があって、それを使う選択肢があるなら使った方がいいと思う。アイゼンだってピッケルだって、もっと言えばロープだって防寒具だってテントだって、今は昔とは比較にならないほどいいものに恵まれているし、酸素ボンベを使わなくたってそれらは使うのだ。
しかし本人にこだわりがあるなら、別にそれを否定することもないと思う。そうしたい、チャレンジしてみたいなら、それが本人にとってのモチベーションなのかもしれない。
ただ栗城君の場合はそれを掲げてマスコミに自分を売り出したのは確かなのだろう。そしてマスコミもそれに乗った。利害が一致したわけで、供給があって需要もそれを求めた。他人が口を出すことじゃない。自分が彼を支持するか否かだ。
ただ、最期はどうだったんだろう?
栗城君は指を失った時点でかなり心が折れていたように思う。再起まで時間を要するだろうなと私も思った。しかし彼の再起は意外と早かった。彼の気持ちは本当に立ち直っていたのかな?「供給」が追いつかないまま、「需要」がそれを許さなかったのではないだろうか?マスコミが、スポンサーが、次への挑戦を求めた結果だったのではなかろうか?
彼は最期まで登山を楽しんでいたのだろうか?
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