|
|
![]() |
この神社は、江戸時代「宝歴治水」工事を請け負って犠牲になった沢山の薩摩藩士が祀られています。
昔からこの地域は輪中地帯で、度々大きな水害に見舞われていた所です。(家屋が流され犠牲者が出たり、田畑も流されていました。)
そこで、江戸幕府は遥か遠くの薩摩藩に命じて治水工事を命じたのです。工事費用は、7万両(現在の貨幣価値で、約300億円)で費用も人足も全て薩摩藩持ちという当時無茶苦茶な命令でした。薩摩藩士の中には、「一戦を交えても、断固反対とする」とした声も有りました。(近くには尾張藩か桑名藩も有りますから。)しかし、徳川幕府には逆らえず工事を請け負ったのです。(薩摩藩の財政を脅かす意味合いも有ったのでは。)
治水工事の総責任者である、家老「平田靱負」は、「縁もゆかりも無い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務は無いが、美濃も薩摩も同じ日本であり、同胞の命を救うのが人間の本文であり、難工事を成し遂げたなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩藩士の名誉になり後世にその名を残す事になるであろう。」と考えたのでした。
(現代では、そんな考え方をする人は居ないと思いますが……。そんなん、うちの藩は関係あらへんやん!自分達でやれば……。平田靱負は、凄い人ですね。)
1754年(宝歴4年)から工事が始まり、1755年(宝歴5年)5月に終了しました。幕府方からも役人が来ていましたが、作業を妨害する様な事も行ったようです。それに抗議の意味合いで切腹した藩士も少なくありませんでした。完成後には、郷土薩摩から持参した黒松を堤防補強の意味も込めて1000本以上植樹したのです。現在、揖斐川と長良川の間の堤防に「千本松原」として残っています。近年、「松クイ虫」にやられ枯れてしまう松もある為、景観保存の努力がなされています。
工事には、薩摩藩の財政負担や多くの犠牲者が出て「平田靱負」はその責任を取り、古里「薩摩」へ帰る事なく、この地で切腹したのです。地元の人達は250年以上経過した今でも、薩摩藩士への感謝を忘れず毎年鹿児島から藩士の末裔を招待して慰霊祭が執り行われています。
この治水工事により、上流では洪水がさらに増加したとも言われております。本格的な治水工事は、明治時代に入ってからオランダ人の治水技士「ヨハネス・デ・レーケ」が分流工事を行っています。
さらに、「伊勢湾台風」後にも堤防補強が行われ現在に至っています。
国営「木曽三川公園」は、広大な敷地に高さ65mの「治水タワー」があり(入場料金630円)360°見渡す事が出来ます。四季折々の花が植えられ冬になると、イルミネーションも始まります。
河川敷には、舗装された広い駐車場があり無料です。
宝歴治水での犠牲者を祀った「治水神社」回りを散策したり、季節の花々を見たり芝生で遊んだりお弁当を食べるには最高の場所です。
(我が家では、子供が小さい頃ボールやバドミントンを持って良く訪れました。)
一度、訪れて見ては如何でしょうか。
写真右➡️今日、咲いていた花々
こまりくさん、こんばんは。 桑名時代を思い出しながら、拝読させていただきました。 名古屋出張に行ったら、レンタカーでも借りて、懐かしい場所巡りでもしようかな😊
yasxyasさん、こんばんは!
そうなんですか?以前に、桑名にお住まいで……。名古屋からも近いですから、ついでに是非とも訪れてみて下さいね。
名古屋飯も、どえりゃーうまいですが……。桑名は、時雨ハマグリかな?
柿安も、ええね!
やっぱり、食べ物かー ………。
では、また。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する