北鎌尾根から帰ってきた日に、そのまま宮城の妻の実家へ行った時のこと
親戚が集まっていたので、山好きの叔母に槍ヶ岳へ行ってきたと報告した
「どのルートで行ったの?」と聞かれたので、知ってるかなと思って「北鎌です!」と答えた
そしたら、「50年前の7月に行ったことがある」と驚きの言葉が返ってきた
なんと20代の頃、女性3人で湯俣から入ったと、思いもよらない話が始まった
その内容はハラハラ・ドキドキするものだった
・千天出合の炭焼き小屋で一泊したけど沢の音で眠れなかったとか
・翌早朝に出て北鎌沢の出合で大きなケルンに加藤文太郎のプレートを付ける式典に立ち会ったとか(今回行ったけど見当たらなかった)
・当時は登山道が整備されており、ほとんど徒渉もせずに行けたとか
・北鎌沢の登り(コルまで)が一番難儀で、背が低くて足が高いところまで届かず、この登りの時だけ荷揚げのためにロープを出したとか
・独標も含めてロープを使わずに、すべて稜線を行ったとか
(トラバースルートは存在していなかったらしい)
・穂先は、小槍側から登ったとか
・肩の小屋に着いたのが夜中の一時だったとか(小屋番の人が”若い娘3人で・・”と絶句したらしい)
・当時はヘッ電もないから懐中電灯を片手に持って、もう片方の手だけで穂先を上り下りしたとか(しかも岩が冷たいのでウールの手袋をして)
・穂先からの下りは、今のような梯子も鎖も一切なかったとか
・食料も缶詰や生米、みそ漬け肉、フランスパン、行動食も甘納豆、ザックもキスリング、登山靴などの装備も今とは桁違いに重かったとか
しかも叔母は、北アルプスで初めて登ったのがこの北鎌尾根からの槍ヶ岳だったというからさらい驚いた!!
昭和30年代に20代の女性三人で湯俣からの北鎌尾根・・・格好イイ!!
ちょっと感動した
石巻に住む叔母は3.11の震災の時、地震の後すぐに周りの人たちを誘導し、いち早く日和山に行き、多くの人を救ったらしい
この話を聞いたら頷ける
叔母は「生きる」匂いをかぎ分けることができる、ホントに強い人だ
それにしても面白くてドキドキする話だった
この話を聞いたら、北鎌に頑張って行ってきたと思っていた自分が少し恥ずかしくなった
次は叔母さんと同じルートで行かないと・・・かな?
8080です。
すごい叔母さんですね。その年代から考えると驚くべきことですね、槍の話もそうですが、生き方がしっかり、芯が感じれます。
又叔母さんから話を聞いて、日記に書いてください。
では良い山行を
8080さん
初めまして
ひょんなことから思いもよらない話が聞け、あまりにも衝撃を受けたので日記に書いてみました。叔母さんの体験談は、この他にも面白い話があるので、機会を見て日記に書こうと思います。
8080さんも良い山行を
hatsuです。
50年前の7月、というとちょうどワタクシの生年月になります。北鎌のP15ピークで拝み見た「諸君頑張れ」プレートはその2年弱前の不幸な三重遭難の慰霊を込めての設置だったそうで、ちょうど同時代のことだったのでしょう。その当時の登山環境は情報も道具も現代とは桁違いに未踏の冒険的で命懸けだったのでしょうね。凄い経歴の叔母様の血筋を引いておられるのですね。
次回は是非「湯俣からの北鎌」、私も興味を抱いてますww。独標も次回は直登トライかな。
・・穂先からピストンするような軟弱・不純?なプランはお蔵入りになりそうです。
hatuさん
「諸君頑張れ」プレート、そういう経歴だったのですね。知りませんでした。
叔母の話はこれだけに尽きず、当時の剱の別山尾根の話も聞きました。
鎖場も何もなく、ボルトも埋め込まれてなかったので、「タテバイなんて知らない」と言ってました。「あそこは断崖の長いトラバースルートよ。そこを横這いって言ってたわ」とか、とにかく面白いんです。
湯俣からの北鎌、さらに日数と予備日が必要ですね。また、沢沿いでかつ徒渉するのでソロでは危険だと思います。今年は無理ですね。他にも行きたいところがあるので、そちらを行った後、考えてみます。
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