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2017年05月02日 01:03ひとりごと全体に公開

4月26日

4月26日が母の命日となった。

28日、葬儀が終わり、骨と灰になった母を再び葬儀会館に連れ帰り、初七日を済ませた。生前、母の希望した会館、そして母の言いつけ通り、私を含めた3人の子供とその家族、母方の親族のみの家族葬。

3兄弟で話し合った結果、質素を希望した母の言い付けは守らず、ピンクのバラがちりばめられた少し豪華な祭壇と、ピンクの布で飾られた棺桶を選んだ。
松竹梅とあれば、迷わず竹を選ぶであろう、母の性格に合わせたつもりですが。。


26日は朝から雨。
9:05病院着。駐車場でメールを確認すると、8:18に兄より母危篤の知らせがあったようだ。ちょっと遅刻したか?
普段より少々混雑気味のエレベーターで8階の病室へ。昨夜に移されたばかりの、まだ通い慣れない個室の扉を開けると、前日にお話しいただいた緩和ケア病棟の担当医と何度かお見掛けした看護師、そして兄が母のベッドを静かに囲んでいた。
テレビドラマで見るような心電図のモニターもなく、何も音のしない静かな病室。担当医より、丁度20秒程前、最後の自発呼吸だったようですと告げられた。
その後、22年間、母の肺癌に携わってこられた先生をお呼びいただき、見覚えのある、脈、心臓、そして瞳孔などの確認をしていただき、9:22、まだほのかに暖かい母は、医療上、そして法的には死を迎えた。
2時間以上遅れて病室に到着をした姉を含め、神妙な顔で淡々と手続きを進めていただいた病院スタッフに申し訳ないほど、3兄弟共に笑顔で母の死を迎えることができた。数日間、母の苦しそうな顔を見続けてきただけに、正直、ほっとした。


4月25日。
3兄弟揃って、緩和ケア病棟の担当医より説明を受けた。
10日に入院、15日に容体が急変し、意識が遠のいてから10日。容体の急変は末期の肺癌によるものではなく脳血栓、肺癌と併発はよく見られるようです。幸い脳が麻痺しているので、痛みは感じ難い状態との事。
明確な余命は告げられないものの、担当医の口振りからは、週単位で数えるには微妙であることが伝わってきた。母が望んだ延命治療拒否の意味、姉は母と共有できていたようですが、兄と私にとってはこの説明のお陰で理解ができました。『親の死に目』など、残された者の都合ですよ!と一蹴された。。。

病院より車で30分程離れた実家に場所を移し、担当医より協議を勧められた母の今後の医療方針について話し合い、母も望んだ痛み止めのモルヒネは適量の継続。点滴は、点滴漏れ等の不具合が発生した段階でストップにて合意。姉の今直ぐ辞めるとの考えに、兄と私か待ったを掛けた結論。
その後、葬儀に関する打ち合わせ。私は聞いてなかったものの、兄が式場の手配、姉が預金の引出し等を母より頼まれていたらしい…母らしい?段取り。。

兄弟での打合せが終わった頃を見計らったように、病院から兄に母の容体悪化を告げる連絡が入った。焦る様子もなく、明日は出社すると言う姉を残し、兄と駆け付けた病院では、母は既に通い慣れつつあった4人部屋より、個室に引っ越していた。

馴染みとなりつつあった看護師さんより、何方か、お母さんに付添っていただく方がいいと、アドバイスを頂いた。兄は即、付き添いを決めた。
少し考え、私は午後9時頃病院を後に一旦会社へ。溜まった仕事を片付け、明日朝改めて病院に来ると兄に告げた。


遡ること4月6日。
数日前に姉より母を実家近くの病院へ検診の為に連れて行ってほしいとの連絡が入り、昼前に母を病院に送り届ける。待ち時間に母に頼まれた買物を済ませ、家に戻る前に近くの川沿いの桜が満開なので、母に少し遠回りすると告げた。
もう何度も見たからいいと母は乗り気ではなかったものの、車窓より眺める桜を眺め、感心した様子だった。自宅に戻った母は出掛ける前よりも疲れた様子。

もうひとつの頼まれ事、数日前に父が入所した高齢者向け施設への訪問。なんでも購入したテレビのリモコンの調子が悪いと施設の職員さんに文句を言っているらしい…その解決に向かう際、母は「たのむな」と座椅子に腰かけたまま、見送ってくれた。3月になってからは、以前の様に玄関先まで見送る事はしなくなった、出来なくなった。

今年になって、入院中の父の介護等級が2から4に上がった。母の希望していた特別養護老人ホームへの申し込み要件である3以上を満たし、早速周辺の幾つかの施設に入所申込。私も2月になって幾つかの施設を訪問した。
何処も100人単位の入所待ちを抱えており、いつ入所できるか予想できない現状と、父の入院生活を支える家族側の疲労も考え、一旦民間の施設へ入所してから特別養護老人ホームへの入所を待つべきと母に進言したのが2月下旬。
母の意向もあり、急ぎ実家近くの施設の入所手続きを済ませ、4月に入り早々に父の引っ越しを済ませた。母も少しは安心できたようだ。

用事を済ませて実家に戻ると、母からベッドが空いたので10日から緩和ケア病棟に入院すると告げられた。頼まれた夕食の買物を済ませ、母と最期の夕食を共にした。メニューはタイの煮物だった。美味しかった。


末期ガンを告げられたのは一昨年の年末。そして年が明けた昨年1月初旬、父の自宅での介護を諦め、入院の手続きを済ませた。
その頃はまだ山歩きをする程に元気だった母。我々子供は旅行にでも出掛けたらと薦め、仲のいい実の兄弟からも誘っていただいたようだが、結局、日帰りで出掛ける程度。家を留守にするのを嫌い、今年1月に一時入院するまで、週に2度は父の病院に通い続けた。母の意地を感じた。

母の最も大きな心残りは、介護を必要とする父を残して先立つ事であろう。兄弟誰もがそう感じている。
意識が遠のいた母に、何度かありがとうと声を掛けてみた。何度かは小さく頷いてくれたようだ。

76年の人生の約48年間、私のお母さんであり続けてくれた。
最後は、76年間母の姉であり続けたお二人の姉ら、存命の兄弟5人が揃い、笑顔で見送っていただいた。
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