三峰山は、下山場所で暖かい薪ストーブ等々、御杖村のもてなしを受け、子供達が手を振って、帰るバスを見送ってくれる。
高見山は山頂が山頂らしい。
いつもは榛原駅を降りるまで決めてない。
今回は高見山にした。
理由は伊勢街道を歩いてみたい気分だった。
小峠に和歌を2首書いた看板がある。
1首は石上大臣の
吾妹子を
いざ見の山を
高みかも
大和の見えぬ
国 遠みかも
持統天皇(645〜702、天皇在位〈690〜697〉)について(従駕)、伊勢に行く途中の歌
〈万葉集1/44〉
この時の天皇の伊勢行きについては、
「(農事の)時期が悪いのでおやめください。」
と官職を辞してまで反対する者があったが、それでも行かなければならなかったようだ。
歌は、(大和にいる愛する人が見えるかなと思ったが見えなかった。遠くへ来てしまったんだなぁ)ということらしい。
頂上に歌碑。
千三百ほど前の人々が、伊勢へ行くために、また大和にもどるために、こんな山の中を歩いたんだなぁ。と、思う。
二上山に眠る大津皇子も伊勢に姉(大伯皇女)を訪ね、皇子亡き後には 大和に戻った姉もまたこの道を通ったんだろうな。
ちなみに、この作者石上大臣は、かぐや姫の求婚者の1人のモデルだったとか。
そしてもう1首は本居宣長(1730〜1801)
きくかこと
まこと高見の
山ならば
わが里見せよ
雲ゐなりとも
伊勢松坂の国学者本居宣長がこの道を通って和歌山(紀伊)へ行ったようだ。
大峠にもう1首あった(歌碑と解説板)
白雲に
峯はかくれて
高見山
見えぬも道の
色ぞゆかしき
宣長65才の時。と、あった。
今の私と同じ年だ。
いずれにしても、歴史のある道だし、山なんだなと思った。
ところで、下山路は登山者もバラけて静かになり、林の中の動きを探しながら歩いていると、きれいな色の小鳥。
単眼鏡を出したいが、動くと飛んで行ってしまうかもしれないと思って、そのまま、見えなくなってしまうまで肉眼で観賞。
単独だし、帰りのバスに乗れればいいのでのんびり。
家に帰ってから『ルリビタキ』と判明。
調べていると、〈ヒタキ科〉というのがあった。
鳴き声が火打ち石でひをおこす時の音に似ているところから(火を焚く→ヒタキ)とあった。
先日、『暗峠』を歩いた時、奈良側の棚田風景の道に『ジョウビタキ』の説明が写真付きであった。
が、残念ながら、出会うことはなかった。
行き帰りの車窓から見た河原の『鵜』は、怪鳥『ラドン』のように翼を広げて乾かしていたし、
民家の瓦屋根の真ん中にとまっていた『ゴイサギ』は作り物の鳳凰かと思った。
その他カワガラス(たぶん)や鴨類、水に潜る小ぶりの水鳥など、など。
そうそう、『とんど焼き』の風景も何ヵ所かあった。
バス待ちの時に、太い青竹を何本も立て掛けて火をつけていたので、「燃えるんですか?」と尋ねて見た。
「竹には、油があるから、ジワジワ燃える」と、教えてくれた。
翌朝、たまたま、ラジオで『とんど焼き』の事がが話題にあがって、竹の破裂音で邪気を払うんだと知った。
だから、太い青竹だったんだ。と納得。
ええ旅やった。
少し賢くなった。
solosolokunさん、こんにちは。
高校生の頃、櫛田川を遡って高見山に登ったことがあります。斎王の伊勢斎宮群行の足跡を探すのが目的でした。船戸川の河原にテントを張って登りました。「いざ見の山もたかみかも」。汗だくだくで高見峠までたどり着いたら、そよ風が熊笹を分けて吹き抜けて行きました。
もう40年以上経ってしまいました。日記を拝見していたら、今年の連休あたりもう一度訪ねてみたくなりました。
maasuke1さん、今晩は。
コメ、有難うございます。
斎王として伊勢に行く事を『伊勢斎宮群行』と言うんですね。
勉強になりました。
高校の時、夏休みだったのでしょうか。
素敵な旅をされたんですね。
さがしていると、昭和町のホームページに、斎王の事が詳しく説明してありました。
大津皇子の姉の大伯皇女(大来皇女)は、最初の斎王だったんですね。
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