きっかけは月刊〈PEAKS〉1月号に掲載された記事。有名な遺書の部分を読んで、本を手に取らずにはいられなかった。(図書館の本だけど。)
私の登山経歴はまだ微々たるものだし、たまに奥多摩の破線ルートを歩いて満足しているレベルだから、彼の残した登挙記録の偉大さは実のところ良く解らない。
それでも、彼の歳と経歴、整った文体、しっかりした信念、そして冷静ですべてを甘受するかのような最期。。。それはそれは衝撃的で、主に記録や会報に載せた文章を集めたものがここまで人物像を浮かび上がらせるようなことは、そうそう無いのではないかと。あまりの衝撃に、ワカンを衝動買いしてしまった。
年表を見てみると、初期の頃には奥多摩や丹沢、高尾、奥秩父の山々に繰り返し登っていることが分かる。同じフィールドを歩いたのかと思うとなんだかうれしい。もっとも、登り方が全然違うのだろうけれど。その頃の記録も残っているのなら、是非読んでみたいものだと思う。
私は青春時代にこの本を読んで影響を受けました。
北鎌尾根はその意味でも特別の尾根ですが、登っている時もやっぱり風雪のビバークのことは思いました。
天気予報が発達している昨今、こういう遭難事故は多くはないでしょうね。
murrenさま、コメントありがとうございます。こうして、出発の直前まで〈場合によっては登りながらも!〉情報共有ができるようになるなど、当時は思いも寄らなかったでしょうね。
松濤明の名前は知っていますがまだ彼の本は読んではいませんが、私の手元にある昭和44年6月30日初版あかね書房の「近代日本登山史」に書かれています内容は、昭和13年2月甲斐駒から大岩山、15年3月単独で易老岳より、聖、悪沢山への縦走後、いくどとなく松本高校を志していた、その間嘉門次の孫、上条孫人と昭和14年12月滝沢第一尾根、17年北岳バットレス中央稜の各初登攀をおこなった後、17歳で東京徒歩渓流会に入会し、翌18年12月入隊した、
松濤明は戦後21年復員したが、その山行はめざましく、9月八ヶ岳ノロシバ沢より権現岳、阿弥陀南陵登攀、2月入笠山より甲斐駒、7月赤岳の天狗尾根、赤岳の赤岳沢、8月八ヶ岳立場川、一ノ倉二ノ沢本谷、10月立場川より八ヶ岳、前穂奥又白A・Bフェース、屏風岩第二ルンゼ、奥穂より柳谷、西穂、八ヶ岳、23年3月八ヶ岳権現沢、三つ峠、富士山、八ヶ岳、6月白馬岳、岳川岳コブ尾根より奥穂、西穂、明神S状ルンゼ、奥又白四峰フェース登攀後、明神東稜下降、7月一ノ倉南陵、北岳第一・四・二尾根、中央稜初登攀などを実践9月には錫杖、槍、丹沢、10月錫杖、滝谷、一ノ倉三ルンゼ、一ノ沢など精力的な足跡を残す、この苦難の時代で食料も満足に入らない時代の記録です、
昭和23年12月21日、松濤明は1人森閑とした大町のプラットホームに下車すると、10貫近くにふくれあがったリュックザックを肩に、ピッケルを右手にわしづかみにして改札口を出た、12月12日から16日までの5日間、彼1人で十数貫の荷を天井沢の岩小屋と、北鎌尾根の末端まで揚げて準備すでに完了している、後はパートナーの有元克己が勤務先の役所から正月休暇をとり行動を開始するばかりだった、槍ヶ岳北鎌尾根末端から穂高連峰を縦走して焼岳まで、ことに最大の関門は発端の北鎌尾根で、いまだに厳冬期の記録をみない処女ルートだった、遭難するまでの事を詳しく書いてありますが、その後の記録はおそらく「風雪のビヴァーク」に詳しく書かれていると思いますので省略します、
今の装備に比べると貧弱だったと思いますしルート自体も開拓期のため想像を絶する何もなく実力が試される登山だと思いますよ、
naiden46さま、コメントありがとうございます。本当に、彼の行動力には驚くばかりですね。もし、彼が今の時代に生きていたらどんな登挙をするのだろう、と考えずにはいられません。
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