これは学生時代の持論で、当時は大発見気分でした(その後に先生から一蹴された😅)。稚拙な持論かもしれませんが、これが今も自分の信念を支えてたりするから不思議。この場を借りて恥を忍んでもう1度考えてみようと思います。
その行動起因とは、1:危機的不安、2:擬似的不安、3:観想的不安の3つで、全ての行動はこの心理的肉体的不安の解消、もしくは不安定から安定に転じることを目的とする。
とりわけ、いつもの夏の休日といえば、自分は晴れた山頂を目指して擬似的な不安、時に虫に襲われ危機的不安、可憐な花を見て観想的不安の解消へ心が動く。
そして、登頂を無事に成し遂げた時、家に帰宅した時などにようやく不安の解消の為の行動は完結され、また自由の身へと戻るのだ。
しかし、この自由が実は曲者。向き合う対象が未決定の状態である『際限のない自由』は、人にはとても耐えられない暗闇のようなものではあるまいか(哲学者サルトルの実存主義にも似たような主張があります😂)。
自らに不安の解消、目的の達成を課すことは、自らを敢えて不自由にさせる行為とも言える。何故、不自由を望むのか、それはこの『際限のない自由』から逃れる為の所業なのだと思う。
人生には一時的でも何か目的が欲しい。空虚が長く続くと人はいつか壊れてしまいそうだ。
今日はウサギを連れて近くの河川敷へ行った🐰。10歳にもなろうとしている飼いウサギは、いつもは部屋でエサを食べ、水を飲み、寝っころがり、ゲージに入らずにのんびりしてる。
『限られたスペース』で危機的不安の解消に勤しんでいるのか・・いや、それはウサギに失礼な話で、時に擬似的に遊んでいるようにも見えたり、より高尚な思考に耽っているようにも思えたり・・、どうなんだろう。
この日、河川敷の広場に連れてゆくと、しばらくうずくまり、身の危険がないことを悟った後に走り回り、擬似的な不安の解消に興じていた。微笑ましい。心が和む(о´∀`о)。
ウサギの寿命は6〜7年ぐらい。いつ別れが来てもそれは自然の摂理なのだと最近考えるようなった。
『生あるものに死は必然』、『死があるから生があるのではないか』。
普段日常ではなかなか感じない、または考えないようなことを考えてみた。観想的不安に向き合ってみた。
この種の不安はけして解消されない。他の不安と明確に異なる点がここで、それゆえに人の人たる所以(ゆえん)を特徴付けるものだと思う。
ただ、解消されないから欲求不満になるのかといえばそうじゃない。
深い洞察と先見性は、自分と同じ状況である他者の存在に気付き、更なる共通項を探しだそうとする。
哲学とはこうした共通項、最大公約数を探すようなもので、他者の姿を自らに投影させて認識する為の再認識作業のように思える。
世界は不思議だ。この世界の全てを説明出来る者がいるだろうか。実は自分が何も知らないで生きていることを哲学者ソクラテスは道行く人に投げ掛けた。それが『無知の知』である。
哲学的な思考の起因は、その人の世界に対する『タウマゼイン(驚嘆の念)』が呼び起こすものだと昔の哲学者達は言った。
哲学=観想的不安の解消に向かう行為そのものである。
また、自分と他者を結びつける存在論の考察でもある。
立ち止まり、自らの置かれている状況を“哲学”してみたら、世界はびっくりする程不思議で、何も知らない自分に出会うだろう。
そして、そうした環境の中に投げ出されて生きる私達の存在が、実に儚く、脆く、そして愛情に満ちていることだけがわかるのである・・・。
登山以外のライフワークは、社会の中で危機的な不安を無くし、擬似的な不安に興じる余暇を増やし、そして利潤第一の社会システムからコミュニティが確保される社会への転換を目指すもの。
観想的不安に向き合う機会を増やそう・・。それが究極の目的かもしれません。
ところで、この目的を果たす為の繰り返される行為そのものは、危機的不安の解消だろうか、擬似的不安の解消だろうか。自分は何も知らないで生きている・・・。
へぇ〜!こう言う観点で考えた事って無かったから最初頭パキーンてなった😳
なんせ私の行動起因は快楽追求⁈😅
とまで言ったらアレだけど、自分の喜びや安らぎ、求めるものを得る為またそれらを他者に与えたい、他者と共有したいと言う気持ちが行動に強く作用してるという認識しかなかったからですね…。
最初は難解でしたが、読んで考えていくとなるほどとおもいました。
観想的不安については、まだ考えを巡らせている途中ですが、自分の生活や人生においても、それに向き合うことを目標にしているんだということは、何となく感じているところです😌
nakkiさんの快楽追及がどのようなものかはわかりませんが😅、おそらく『この行為ならこの不安解消』と断定は出来ずに混在するものだと思われます。
そして、その人のその時の状況にもより、どの種類の不安解消の為の行為なのかは変化してゆくものだと・・。
例えば、飢餓の極限状態におかれた人がパンを差し出された場合は危機的不安の解消行為になるのでしょうが、るんるん気分で街の有名なパン屋さんに行って買って食べる行為は擬似的不安の解消行為に当たると思います。
更に、他者との共有においては、そこに観想的な不安解消が見え隠れしているのかもしれません。
自分はこの日記で何が言いたかったのかと言うと、マズローの欲求段階論ではありませんが、危機的な不安が解消されないと、擬似的、観想的な不安になかなか辿り着けないのではないかということです。
危機的な不安の解消は、社会的な問題であることが多く、それは政治の大きな課題であるように思えます。
返信頂き思ったことは、観想的不安に向き合うことが危機的不安の解消の原動力になるのではと言う事です。
観想的不安に向き合い、Yantanさん曰く「死があるから生がある」と、限りある命を慈しみ尊ぶ時、またそれを自然や他者に向ける時、自分自身はそれらによって生かされているとも感じるだろう。
そうであれば自然や他者を搾取するなどという浅ましい考えには陥らず、現代の自然環境や経済システム(社会的、政治的問題)に対する危機的不安の解消の為に働くんだろうなと…。
載っている写真は危機的不安の解消に勤しむヤンタンかな☺️
お目めがくりんくりーん➰🌰
可愛すぎ😂
利己的な人間と違ってうさぎさんは生きることに一生懸命。
愛らしいね♡
まさにおっしゃる通りだと思います。ゴールが見えているのだから後はそれを阻害している要素を無くしていけば良い・・、と簡単にいけばいいのですが、事はそんなに上手く運びませんよね😅。
学校の先生から「君は人間の“業”をわかっていない」と一蹴されたのを覚えています。
それでは人間の本質とは何?ってことです。
人間は、自己利益の為にのみ動く存在と観るか、他者の利益を自己の利益と捉えられる存在と観るかの議論になります。俗に言う性悪説と性善説というやつです。
結論は両方かなと・・。
自分に危機が迫っている状態ではなかなか他者に気が回らないのは誰でもそうだと思います。
しかし、重要なことは、いかに人間が利己的な存在であろうと、他者との関係において共通項を見いだし、思いを共有することで自らの幸せを感じる利他的な側面があるということです。これは、聖人君子のような考えではなく、誰にも起こりうることだと思います。
問題は、そうした観想的な不安に向き合える“余裕”をいかに社会が用意出来るのかということかもしれません。
でもこの後に広場でるんるん🎵、擬似&観想です(о´∀`о)。
最近は巡らせることのなかった思考を働かせてくれてありがとう😆
高校時代の倫理学習を思い出して若返った気分😉✨
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