山腹の急斜面を縫うように進む県道1号線は、左は切り立った山肌、右はダム湖への断崖。右に左に、ハンドルを切りながら走るのにうんざりする頃、猿ヶ鼻の一本杉トンネルから約2km過ぎた小広い右路肩に、異様な光景が目に飛び込む。墓石めいた一群が犇めき合うように立っている。この周辺に民家も人工物も何もないはずだが。。。これは一体何だ?
それは後日分ったことだが、佐久間ダムで水没した村にあった石仏や小祠等を集合移転させたものだった。昭和31年、佐久間ダムの完成に伴い、その村の中心部をはじめ、その周辺各地区の大半が水没で消失した。村の3分の1にあたる74世帯398人が離村を余儀なくされたという。
その石仏祠群を横目にやり過ごすと、程なくして向かう先に斜面集落「旧富山村」が見えてきた。まさに天空の里だ。
過去一時期1500人を超えていたこの村も、村の生業であった林業衰退と共に人口減少に歯止めが掛からず日本一のミニ村となった。平成の大合併(H17年)を機に、隣接する豊根村に実質的に併合され、「豊根村富山地区」に格下げとなった。
最新人口統計によれば、H22年に、72世帯140人だったが、H27年には富山小中学校の閉校と山村留学廃止が重なり急減。44世帯83人までに落ち込んだ。さらに深刻なのは人口構成で、15歳未満8人、15−64歳は38人、65歳以上37人で少子高齢化が際立つことである。昨年はいよいよ80人を切り76人まで減った。ここ8年で住民の減少は一気に加速し、過疎化問題は地区の存亡に関わるほど深刻だ。
地元の山「八嶽山」に登った帰り、閉校になった富山小中学校を訪ねた。物資荷揚げ用の簡易ロープウェイ横から長い階段を上がると校舎に着く。もう児童たちの元気な声が聞こえなくなった校舎は、異常に静まり返っている。
屋根付きのグランドに出て、玄関先へ廻ると、閉校当時の姿が今もそのまま残っているのに驚いた。玄関は鍵で固く閉ざされ校舎内に入れないが窓越しに内部が覗ける。生徒の下駄箱、掲示物や一階にある職員室、教室、理科室等が確認できた。
平成27年3月28日、富山小中学校は明治16年に開校して以来142年間、村民あげての支援や労苦も空しく、491人に及ぶ卒業生を送り出し、その長い歴史に幕を閉じた。ネットで読む閉校式での生徒の挨拶には、絶句し、思わず目頭が熱くなった。
歴代政権による、ふるさと創生(1988年)や地方創生(2014年)が叫ばれて久しいが、雇用の確保(企業誘致または新産業創成)、教育・医療施設・生活必需品購買の確保あっての「山村生活」だ。残念ながら旧富山村は、この最低条件の一つさえ満たさなくなってしまっている。。。
過疎化の打開策として頼みの綱だったインフラ(高速道)も行政計画から外れている。あの「三遠南信(高速)道」は、喬木村ー上村ー水窪ー佐久間ー東栄ルートで、愛知県側の天竜村・豊根村一帯は、完全に蚊帳の外だ。恩恵に預かるには水窪北ICと水窪ICが出来る水窪町へトンネルを掘るしかないが、たった76人の住民のために、トンネルもないだろう。このままでは、ますます陸の孤島化が進むに違いない。
この富山地区の一番の魅力は、何と言っても、迎え入れる住民の穏やかで温かい心かもしれない。朝の挨拶一つ、出会う全員が挨拶してくれる。この点、他の地域と違う。時代が変われば変わるし、環境が変われば、過疎地も一変するものだ。最近20〜30歳代に増えているデュアル・ライフ(大都市と田舎の2拠点生活)という新トレンドも台頭してきた。。。まだまだ捨てたものではない。
参考1:「愛知県:昭和40年制作/第209号 奥三河の里(富山村含む)」
https://youtu.be/NgVfCwpTcWs
参考2:「愛知県:昭和44年制作/テレビ番組 富山村の子どもたち」
https://www.youtube.com/watch?v=2dG-c4f5JmU&t=10s
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