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この世のほかの
思ひ出に
今一たびの
逢ふこともがな
(私はもうすぐこの世を去るでしょうから、
思い出になるように、
せめてもう一度だけでも、
あなたにお逢いしたいのです)
『百人一首』(56)
和泉式部宮(いずみしきぶのみや)
[和泉式部旧居跡]
20250213Thu.
〒593-8307
大阪府堺市西区平岡町397
後日、判明
ほんとの
和泉式部宮[和泉式部旧居跡]に行けてないじゃん😅
残念
テキトーに見て
テキトーに調べて
テキトーにここやろ
って思うところが
あかん💦
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ということで!
2025年2月25日火曜日!
連休明けの本日
リベンジっ!
たまたま通れるルートを歩くことが出来ましたっ!
前回と同じ道を行きかけてやっぱりないっ!
どこやねん?って思いながら探すことほんの少し。
見つけました!
すっきりした!
和泉式部旧居跡
こじんまりとひっそりと
大切にされております
なかなかやるじゃん
(堺市西区!)
わたしがちっちゃな頃に教えといてくれたら良かったのに〜😬
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「土肥俊夫の世界」ホームページより引用
↓
和泉式部は、
父越前守(えちぜんのかみ)大江雅致(まさむね)と
母越中守(えっちゅうのかみ)平保衡(たいらのやすひら)の娘との間に、
西暦(せいれき)900年代の後半に生まれました。
当時の女性には名前はなく、「だれそれの娘」として呼ばれていまた。
では、なぜ、
「和泉式部」と呼ばれているのでしょうか。
西暦995〜999年の頃ころに、和泉守となった橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚をします。
夫の橘道貞が和泉に赴任(ふにん)した時に、
和泉式部も一緒に任地(にんち)に来たようで、
現在の平岡町の西の端(はし)の台地に住んでいたと言われています。
夫の任地である「和泉」と、
父親の官名(かんめい)の「式部」から
「和泉式部」と呼ばれているのです。
この二人の住まいと思われる所を和泉式部宮として残し、
地域の方々に宮として整備(せいび)され祀(まつ)られているのです。
和泉式部は、
先にも書きましたように、
平安時代(794〜1192年)の代表的な歌人で、小倉(おぐら)百人一首にもその歌が選ばれています。
当時の第一級の歌人である紫式部(むらさきしきぶ)も、
「紫式部日記」の中で、
和泉式部の歌を高く評価(ひょうか)しています。
しかし、
夫道貞との仲が悪くなったおりに、
冷泉(れいぜい)上皇じょうこうの皇子である爲尊親王(ためたかしんのう)と仲が良くなるなど、
恋愛関係(れんあいかんけい)では、
あまりいい評判を残しませんでした。
百人一首に選ばれた
「あらざらん この世のほかの 想い出に 今ひとたびの 逢(あ)事うもがな」
でも、
自分は大病で明日をも知れないが、
今一度、想う人に逢あいたいものだ、
という歌を歌っているほどです。
また、道貞との間に生まれた小式部(こしきぶ)内侍も歌がうまく、
「大江山 いくのの道のとおければ まだふみもみず 天のはしだて」
の歌は、
母とともに百人一首に選ばれています。
カエルの子はカエルなんですね。
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