阿蘇・九重
最終更新:shyguy
基本情報
標高 | 871m |
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場所 | 北緯32度47分45秒, 東経131度07分44秒 |
馬見原往還は、阿蘇市内牧の今町から宮地、坂梨を通り、高森町の色見、高森をぬけて山都町馬見原に続く4里29町(約20km)、幅1間5尺(約3.3m)の道です。高森からは、中坂峠、上差尾、上塩出、下塩出、菅尾と続き、馬見原につながる道でした。この道で特に難所だったのが、高森から2里にある中坂峠でした。
この中坂峠には人馬継所はありましたが、人家もなく、大雪や風雨のときに泊まる場所はありませんでした。この道に加藤清正の名前がつけられている理由について、清正の時代にこの道を改善したため、この道の利便性がとても増したと考えられ、この道を利用する人たちが感謝の気持ちを表し清正道とよんだのではないかといわれています。
難所の中坂峠に家を建て、泊まることができるようになったのは、天保12年(1841年)からです。大見口村の頭百姓である喜左衛門が25貫200目という大金を出してこの家を建てました。
明治・大正になっても中坂峠を越える人たちは後を絶たず、「嫁入りや里帰りに、多くの女性たちが馬の背にゆられて」、中坂峠を越えたと伝えられています。
この中坂峠には人馬継所はありましたが、人家もなく、大雪や風雨のときに泊まる場所はありませんでした。この道に加藤清正の名前がつけられている理由について、清正の時代にこの道を改善したため、この道の利便性がとても増したと考えられ、この道を利用する人たちが感謝の気持ちを表し清正道とよんだのではないかといわれています。
難所の中坂峠に家を建て、泊まることができるようになったのは、天保12年(1841年)からです。大見口村の頭百姓である喜左衛門が25貫200目という大金を出してこの家を建てました。
明治・大正になっても中坂峠を越える人たちは後を絶たず、「嫁入りや里帰りに、多くの女性たちが馬の背にゆられて」、中坂峠を越えたと伝えられています。
峠 |
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