2017年5月27日 丹後半島遺跡見学の旅1

- GPS
- --:--
- 距離
- 77.8km
- 登り
- 559m
- 下り
- 561m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
感想
橿原考古学研究所付属博物館友の会(友史会)の丹後王国遺跡見学会
京都八条口高速バス停9時半ころ出発、京丹後SAで休憩中、塩谷古墳公園を望む。昼前、京丹後 ホテル吉翠苑にて昼食と京丹後市観光振興課の小山元孝先生のミニ講座を聞く。
演題は「丹後の海と神仏」ー 「丹後の神社の祭神、寺院の本尊には隠岐から漂着したものが多く、また隠岐から人々も丹後に移ってきた。さまざまな地域から漂着したものも多い。」という。
1時にバスが出発し、最初に涌田1号墳に向かう。
前に付近にある式内社多久神社に立ち寄る。
「多久神社本殿は、京都府指定文化財。文化8 年〈1811〉に火災に遭った後再建され、文化11 年〈1814〉には完成。昭和2年(1927)1月30 日には大雪で覆屋が倒壊し、本殿丸桁以上が大破したといい、さらに3月7日に丹後大地震の被害を受けたが、新築されずに修理され、現在に至る。当初材には主に欅が用いられているが、身舎の正面建具、支輪板、桁、妻壁、笈形、垂木、裏板、化粧棟木及び向拝の桁、茨垂木、唐破風板などは、松や檜が用いられている。当初材に比べ木肌や仕事が新しいことから、地震後の修理の際に取り替えられたと考えられる。しかし、大棟及び軒唐破風上部の鬼板や唐破風妻板は当初からのものと考えられ、当初から春日造の屋根に軒唐破風を付ける型式であったと考えられる。」ー友史会のHPより―以下同じ
涌田1号墳までは山道を登るよう。
「 湧田山古墳群は、竹野川中流西岸の低丘綾上に立地する、総数42基からなる古墳群である。
古墳群中最大の規模となる湧田山1号墳は、北西に突出する前方部をもち、前方部の短小な、全長約100mを測る前方後円墳である。出土遺物がない。竹野川中流域の狭隘部、交通の要衝に立地し、墳丘の形状からは、大田南古墳群の分布する北側を意識した立地となっている。前方後円墳の墳丘の上に円形壇が乗るような形状をしていることに加え、前方部が短小である点は、丹後地域のほかの前方後円墳と比べ構造上大きな違いが認められる。
当初は帆立貝式古墳の一種と考えられ、中期古墳として位置づけられていたが、現在は、後円部が長楕円形を呈することがカジヤ古墳、蛭子山古墳(与謝野町)に共通する要素とされることなどから、古墳時代前期中葉から後葉と位置づけられている。
近年は、北側の大田南2、5号墳という古墳時代前期初頭の古墳が確認されたこと、前述の墳形要素に加え葺石、埴輪を共に欠く点を重視し、古墳時代前期初頭まで遡る案がある
湧田山1号墳は、弥生時代後期末の大型墳墓の成立から網野銚子山古墳をはじめとする大型前方後円墳へとつながる首長墓の可能性がある古墳と位置づけることができる。
また下層より弥生土器が出土していることは、弥生時代前期と中期後葉の遺跡が存在ずることを示す。立地から見て高地性集落の存在が推定される。」
墳頂部で解説を聞き、次の遠處遺跡までの間に二つの墳墓・古墳を車窓から見る。
太田南古墳群
「 湧田山古墳群と谷を隔てた北側の尾根に太田南古墳群がある。2,4,5号墳は3世紀中頃築造と推測され、2号墳からは2世紀末から3世紀初めに後漢の四川で製作された画文帯環状乳神獣鏡が、5号墳からは、高槻安満宮山古墳出土鏡と同形の、魏の青龍3年銘の方格規矩四神鏡が出土している。土取りで危険なため車窓から見学。」
赤坂今井墳墓
「 赤坂今井墳墓は、中郡盆地から網野市街へ抜ける狭長な谷筋に向かい、東に突き出す細尾根の先端部分に立地する。府道改良に伴い1998、99年に発掘。当初想定していた中世山域に重複して大型の弥生墳墓の存在が明らかになった。
墳丘は、東西36m、南北39m、高さ3.5mの四角錐台の墳丘部および四方に5m〜9mの平坦面を持つ構造で、埋葬施設は、墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上存在する。墳頂部の埋葬施設はいずれも、成人木棺墓で、裾部の埋葬施設は大小の木棺墓、土壙墓、土器棺墓からなる。
中心埋葬施設である第1埋葬は墳丘の中心点からやや奥よりの場所に尾根の直交方向(ほぼ南北方向)に設置され、隅丸長方形で墓壙長14m、幅10.5m、深さ2m以上を測る。
墳丘上部に敷き詰められていたこぶし大の円礫300個と円礫の上に破砕されて供献された土器砕片が土壙内に落ち込んだ状態で出土。
第1埋葬の北側を一部切り込む第4埋葬は、墓壙長4m、幅4.2m、深さ1.8m。木棺は舟底状木棺で全長4.1m、幅1.3mを測る。棺内から頭飾り、耳飾り一式、鉄剣1点、1が出土した。頭飾りは、被葬者の頭位に、ガラス製勾玉、漢青(ハンブルー)成分も含まれるガラス製管玉、碧玉製管玉といった玉垣が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んだものとみられる。耳飾りとともに装着された状態で出土。
棺内中央部は厚く赤色顔料が敷き詰められていた。」
次にバス車窓から丹後地震・郷村断層を遠くに見て話を聞く。
丹後地震 郷村断層
「1927年(昭和2年)3月7日、18時27分39秒に発生した丹後半島北部を震源としたM7.3地震。峰山町で震度6。
特に峰山町、網野町、加悦町地区、岩滝町地区で被害が大きく、地震発生が夕刻だったために暖房や炊事の火を原因とする火災が各所で発生。峰山町では、住宅や織物工場など家屋の97%が焼失。小山先生の解説の中で何度も地震とその後の復興の話があった。」
「網野町郷の集落を通過。交差点右奥に郷村断層跡が残る。郷村断層は長さ18km。丹後地震で西側が最大80cm隆起し、南へ270cm移動した。奥の道が左に曲がっている。」
「 断層を超えて、細い道をまっすぐ行くと丹後鉄道線路東側に浅後谷南遺跡がある。狭小な谷地形が複雑に入り組んでいる丘陵の裾部に位置する、弥生時代から平安時代まで継続する集落遺跡。
古墳時代の水の祭祀施設が出土している。
水路の中に数箇所の止水板と木槽・木樋からなる堰状の施設を設け、浄水を得るもので、木槽部と樋部分を1つの木材から削り出したものは他に例が無い。遺跡は圃場整備されており今回は見学せず。」
次に網野銚子山古墳に向かう。
網野銚子山古墳・小銚子古墳・寛平法皇陵古墳
「 網野銚子山古墳は日本海を見下ろす台地上に築かれた墳長198mの4世紀後葉築造の前方後円墳。佐紀陵山古墳と同じ設計企画で築造され中央政権との強い関係を示唆する。
神明山、蛭子山とともに丹後の3大古墳と言われる。
3段築成で後円部は径115m・高さ16m、前方部は幅80m・高さ10m。
墳頂部の平坦部とテラスには円筒埴輪列が並び、墳頂斜面は葺石に覆われていた。
出土品は円筒埴輪のみ。円筒埴輪の頂は椀のように蓋があり、蓋の中心に穴が開く丹後型と呼ばれるもの。底の径は30cm前後でヨコハケ主体。側面に長方形の通し穴が開いており規格性の高い埴輪。
網野銚子山古墳の前方部北側にある寛平法皇陵古墳は未調査で墳丘も大きく改変されている。
『丹後州宮津府志』によると、「石のからと」があり、中から石枕、陶器、曲玉などが出土したという。後期から終末期古墳と思われ網野銚子山古墳とは関係のないものとなる。
寛平法皇とは宇多天皇(在位887〜897)。墓は京都市右京区鳴滝宇多野谷大内山陵」
続いて遠處遺跡に到着。遠處遺跡は古墳時代中期5世紀から13世紀まで長期にわたる製鉄・鍛冶遺跡。大半は埋め戻され、わずかに工房跡などが残る。大量・長期の製鉄関連活動が続いたので、多くの炭焼き窯が斜面にあったが、今は見えない。
京都府指定文化財 遠處遺跡群鍛冶工房跡
「 この谷からは、製鉄炉・鍛冶炉・炭窯・須恵器窯・竪穴式住居・掘立建物跡などが検出されており、5世紀末頃から13世紀頃まて長期間にわたり利用されています。
古墳時代後期(6世紀後半)と思われる鍛冶も確認されていますが、奈良時代後半(8世紀後半)においては原料(砂鉄)−製鉄−精練−鍛練−製品までの一貫した生産体制てあったことが明かとなっています。鉄生産の各工程を知ることのてきる遺跡は非常にめずらしいものてす。
鍛冶炉付近からは、小割にした刀や研ぎ減りした刀子なども出土しており、使用された鉄製品を再溶解し、新たな鉄器を作っていたことも考えられます。この谷での鉄製産は、一時最盛期をむかえたようで丘陵斜面にまて鍛冶炉を築いており、その鍛冶炉の壁は修復してまで使用されていました。
鍛冶炉を取り囲むようにかなり大きな柱穴があり、丘陵裾部のわずかな平地には密集して数棟の工房が立っていたと考えられます。
また、生産の場か生活の場てもあったようで、工房建物周辺の平坦地には多くの建物が検出され当時使用された土器・木器・石器・金属器や食べた物などが多量に出土しています。
京丹後市教育委員会」
「遠處遺跡・古墳群の東の丘先端に築かれた長さ20m、高さ3〜4mの不定形の5世紀中葉の古墳。
鉄製甲冑、剣、鏃と形象埴輪が出土している。外洋を航行できる準構造船埴輪や甲冑形埴輪、椅子形埴輪などは丹後に例がなく畿内の工人が関与したものと考えられる。車窓から見学。」
遠處遺跡から竹野川河口付近に移動、最初に竹野神社に向かう。
「竹野神社は、第9代開化天皇に嫁いだ丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったとされる神社。拝殿には天皇家ゆかりを意味する「菊の御紋(菊花紋)」と皇室専用の家紋「桐花紋」が彫られている。隣の摂社の斎宮神社には「竹野媛命」「日子坐王命」「建豊波豆羅和気命」が祀られている。
もう一人の竹野姫は、丹波道主の娘で、第11代・垂仁天皇が佐保媛を失った後に、妃候補として招かれた5人の姫のうちのひとり。容姿が美しくなかったために丹波へと帰されることとなり、そのことを恥じた姫は輿から落ちて亡くなった場所が「堕国」、「弟国」、「乙訓」へと変化したという。
旧竹野郡丹後町、竹野川の呼び名は「たけの」、丹後町竹野、竹野神社の呼び名は「たかの」
続いて京丹後市郷土資料館に向かう。ここでは元館長の三浦隆氏の解説を聞く。
最後に神明古墳と大成古墳、立岩を見学、
「神明山古墳は、4世紀末から5世紀初頭築造の前方後円墳。3段築成で墳丘長190m、後円部直径129m、高さ26m、前方部幅78m、高さ15m。前方部後円部に円筒埴輪列が巡り、葺石を持つ。家形埴輪には舟と舟をこぐ人物が線描されていた。」
大成(おおなる)古墳群
「 竹野川河口東側台地上に築かれた16基の後期の古墳群。
無袖、片袖、両袖式の様々な横穴式石室を持つ古墳群 古墳群西側には竹野川河口が望め、河口をふさぐように立岩が立つ。
後ろ浜には、聖徳太子と母の穴穂部間人皇后の像が立つ。
これまで5基(7,8,9,17,18号墳)が調査されている」
夕方日の沈む前に宮津ロイヤルホテルに到着。
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