朝のウォーキング 堀川〜
- GPS
- 03:07
- 距離
- 8.5km
- 登り
- 20m
- 下り
- 0m
コースタイム
- 山行
- 3:08
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 3:08
過去天気図(気象庁) | 2017年08月の天気図 |
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アクセス |
途中で軌跡が途絶えました。 軌跡を取得中にカメラ機能を使って写真を撮ると不具合が出ると思います(^_^;) |
写真
感想
■歴史・史跡
○京都の歴史
○京都の史跡
1近世の史跡
2幕末維新の史跡
3近代の史跡
島津創業記念資料館/琵琶湖疏水/稲荷駅ランプ小屋/陸軍第十六師団/京都電気鉄道会社
・京都電気鉄道会社
明治二十七年(一八九四)二月に設立された電気鉄道会社。それより先の同二十四年五月、琵琶湖疏水の付帯工事として建設された蹴上発電所供給の電力を利用し、市街地に電車を通す計画が立てられた。その発案者は、のちに初代社長となる高木文平であり、彼は同二十一年、田邊朔郎らとともに渡米した際に電気鉄道を実見したことが発端であった。開通は、同二十八年に岡崎で開催される第四回内国勧業博覧会を目標に敷設工事が実施され、まず同二十八年二月一日(電気鉄道記念日となる)、塩小路高倉・伏見下油掛町問の約六・五キロを狭軌道で仮開業、これがわが国最初の市街電車となった。一方同年四月には博覧会場である岡崎と結ぶため、二条で鴨川に木橋を架設して開通、その後も順次路線は拡張され、木屋町通、西洞院通から堀川通、さらに北野天満宮へと延びていった。同四十五年には市営電車の開業により激しい競争を演じたが、大正七年(一九一八)、京都市が買収。唯一残された北野線はチンチン電車として市民に親しまれ、昭和三十六年(一九六一)まで営業を続けた。現在、伏見区油掛町に、「電気鉄道事業発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。
■神社・寺院
○京都の神社
▼北区
▼上京区
首途八幡宮/上御霊神社/北野天満宮/伴氏社/護王神社/出世稲荷神社/白峯神社/清明神社/梨木神社
・首途八幡宮(上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)
祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后。大内裏の北東に位置するために王城鎮護の神とされ、内野八幡宮とも呼ばれた。この地にはかつて金売吉次の屋敷があったといわれ、当社はその鎮守社と伝える。吉次は平安時代の伝説上の商人。社名は、承安四年(一一七四)に牛若丸(源義経)が奥州に出発する時に道中の安全を祈願したことに由来するとも、寿永年間(一一八二〜八五)に義経が平家追討の首途にあたり、宇佐八幡宮の神霊を勧請したことにちなむともいう。この故事により、旅行の安全を願う信仰がある。
・白峯神宮(上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)
祭神は崇徳天皇、淳仁天皇。慶応四年(一八六八)に明治天皇が讃岐の白峰から崇徳天皇の神霊を、のちには淡路の天王森から淳仁天皇の神霊を皇室鎮護の神として当地に移して創建された。この地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅があり、末社の地主社に蹴鞠道の神である精大明神を祀る。他の末社に伴緒社があり、源為義・為朝を祭神とする。
▼左京区
▼中京区
▼東山区
▼山科区
▼下京区
▼右京区
▼西京区
▼伏見区
▼京都市外
○京都の寺院
1天台宗
2真言宗
3臨済宗
4曹洞宗
5黄檗宗
6浄土宗
7浄土真宗
8日蓮宗
▼北区
▼上京区
本法寺/本満寺/本隆寺/妙顕寺/妙蓮寺
・本法寺(上京区小川通寺之内上ル本法寺前町)
日蓮宗の本山。山号は叡昌山。本尊は十界大曼茶羅。永享八年(一四三六)に日親が四条高倉に建立したという。日親は同十一年に『立正治国論』を著わし、足利義教の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を頭に被らされて「なべかむり日親」と称されたが、のち許されて当寺を再興した。投獄中に本阿弥清信と知り合い、のちに当寺は本阿弥家の菩提寺となる。天明八年(一七八八)の大火で類焼して、現在の諸堂はその後の再建。庭園は国の名勝。本阿弥光悦の作と伝える三巴の庭は、三島をそれぞれ巴形にして配置。中庭には光悦遺愛の手水鉢を据える。墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓がある。
本隆寺(上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町)
法華宗真門流の総本山。山号は慧光無量山。正しくは本妙興隆寺。本尊は十界曼茶羅。俗に不焼寺ともいう。日蓮宗洛中二十一ヵ寺本山(現在は十六本山)の一つ。長享二年(一四八八)に日真が六角西洞院に草庵を建てたことが起こり。境内の「夜泣き止めの松」は、この木の葉を枕の下に敷むくと夜泣きが止むと伝える。他に、無外如大尼が悟りを開いたという千代野井の井戸や、黒川道祐・寿閑、千家十職黒田正玄歴代の墓もある。
妙顕寺(上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町)
山号は具足山。正しくは四海唱導妙顕寺という。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。京都における法華宗寺院の草分け的存在で、関西法華宗団の根本をなす寺院。開祖の日像は日蓮の孫弟子で、六老僧の一人日朗の弟にあたる。元亨元年(一三二一)後醍醐天皇より寺地を賜わって創建、続いて建武元年(一三三四)には同天皇の綸旨により勅願寺となった。この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。また、延文二年(一三五七)の後光厳天皇の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、北朝が当寺を宗内最高の地位と公認したことを意味し、以来当寺は四海唱導妙顕寺と号することとなった。しかし、天文法華の乱をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時妙本寺を名乗ることもあった。寺地も変ること四度と伝えられ、現在の地には天正十一年(一五八三)豊臣秀吉の命により移建されたもので、堂宇は天明の大火での類焼以後に再建された。祖師堂にあたる三菩薩堂は、妙顕寺二世の大覚が行った雨乞いの効験によって宗祖日蓮に大菩薩、開祖日像とその師日朗に菩薩号が与えられたことから、三祖を合祀するためそう呼ばれている。なお、尾形光琳・乾山の兄弟はこの寺の檀信徒で、境内には二人の墓があり、光琳筆の「松竹梅」図三幅が所蔵されている。客殿前庭は龍華飛翔の庭、書院前庭は光琳曲水の庭と名づけられている。
▼左京区
▼中京区
▼右京区
▼伏見区
9その他の宗派
■建築・庭園・美術
■芸術・文化
○伝統工芸
1工芸
京焼・清水焼/京漆器/京指物/京竹工芸品/京扇子/京うちわ/京象嵌/京人形/京表具/京刃物/京仏壇と京仏具/京印章/神祇装束調度品/京石工芸品
・京漆器
京漆器は器物の素材である木地(木や竹)選びから塗り、加飾と複雑な工程がある。縄文時代の遺物から漆が見つかっており、最古のものは奈良法隆寺の「玉虫厨子」(国宝)や、豊臣秀吉と正室北政所の菩提寺である東山高台寺の「高台寺蒔絵」(国宝)が著名。現在、京漆器の需要の大部分は棗など茶道具が主体で、他産地に比べ少品種で高級品である。旧家ならお正月のお膳は漆器であった。木地作り、地固め、布着せ、錆付けを施し、中塗り、上塗りなど塗りと研ぎが繰り返される。加飾は蒔絵、螺釦・青貝などに大別される。蒔絵は漆で模様を描き、乾燥しないうちに金銀粉などを蒔き、さらに漆を塗って研ぎ出す。一個の器に半年もかける高級品がある。江戸時代、本阿弥光悦、尾形光琳らの天才が京都で活躍した。経済産業大臣指定の伝統的工芸品。
2染織
○伝統文化
1歌道
2茶道
前文/千利休/三千家/藪内家/煎茶道
・茶が初めて中国から輸入されたのは平安初期のことだが、喫茶は一部の貴族や僧侶の間に広まるにとどまった。喫茶が本格的に普及するのは、鎌倉初期、僧栄西が宋から臨済禅とともに茶種と喫茶法を伝えて以来のこと。寺院を中心に喫茶が広まり、京都の栂尾や宇治など各地で茶が生産されるようになり、鎌倉末期から南北朝時代にかけて、本茶とされた栂尾の茶と他の産茶を飲み分けて賭け物を争う茶寄合(闘茶会))が、武家や庶民の間に流行した。この頃から、茶礼と称する茶会の方式がしだいに定まり、室町末期には村田珠光によって禅の精神を取り入れた草庵の茶が創始され、安土桃山時代、これを受け継いだ千利休が茶の湯を大成した。その後、江戸初期にかけて、茶の湯は諸大名に好まれて全盛を極め、三千家などの茶道宗匠も大名のお抱えとなるが、その家は京都にとどまって町人社会への普及を図り、江戸中期には、家元を中心とする段階的な免許制度により門人の組織化を進めた。また、江戸後期には、中国の文人趣味の影響を受けた煎茶が、京都の文人たちの間に流行し、煎茶の家元も生まれた。
・千利休
大永二年〜天正十九年(一五二二〜九一)。今日の茶道の大成者。生家は和泉国堺。幼名は与四郎、法名宗易。武野紹鴎に師事して、村田珠光が創始した草庵の茶を習得、また大徳寺で禅を学び、茶禅一味をとなえてわび茶を大成した。織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、天下一の茶匠とった。
・三千家
千利休を祖とする茶道家元の三家、表千家(上京区小川通寺之内上ル)・裏千家(同前)・武者小路千家(同武者小路通小川東入)をいう。
利休の孫の千宗旦は、江戸初期、刹休のわび茶の道を推進する一方、三男の江琴宗左に表千家を、四男の仙聖宗室に裏千家を、二男の一翁宗守に武者小路千家をそれぞれ興させて、三千家を確立。宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家、宗守は讃岐高松松平家に出仕して、経済基盤を固めた。代表的茶室には、表千家の不審奄、裏千家の今日庵、武者小路千家の官休庵などがある。
・藪内家
下京区西洞院通正面下ルにある茶道家元。当主は代々紹智を襲名。紹鴎門下で千利休の弟弟子にあたる剣仲紹智を初代として現在に至る。代々西本願寺の保護を受けた。邸内には茶室燕庵がある。京都の上京に住んだ三千家が「上流」と呼ばれたのに対し、下京の同家は「下流」と称された。
・煎茶道
抹茶を用いる茶の湯に対し、茶葉を湯で煎じ出して飲む作法。中国の明・清の文人趣味の影響を受けて、江戸後期に成立。多くの文人墨客に愛好された。京都に煎茶を普及させたのは、肥前国出身の黄葉僧高遊外(売茶翁)。享保十九年(一七三四)東山に茶亭通仙亭を設けて、茶を提供した。その後、天保(一八三〇〜四四)頃、小川可進が煎茶手前を草案して、煎茶家元の先駆けとなり、公家や文人の間に煎茶道を流行させた。
3華道
4能
5狂言
6歌舞伎
7京舞と井上流
■生活・行事
○祭と行事
1京都の三大祭
○京料理
○京菓子
○京都のならわし
○ことばと伝説
1京ことば
2京都の俗諺
3京都の伝説
前文/蜘蛛塚/宗旦狐/撞かずの鐘/鬼門の猿/道真の登天石/太閤の石仏/革堂の幽霊絵馬/へそ石/こぬか薬師/弁慶石/忠盛燈籠/蹴上の石仏/六道の辻/合槌稲荷/百夜通い/すすき塚/業平の塩竈跡/明智藪/長明方丈石/橋姫/宇治川の亀石/一文橋
・道真の登天石(上京区堀川通鞍馬口下ル水火天満宮)
菅原道真は藤原時平の謹言により大宰府に左遷され、非業の死を遂げた。道真の死後、都で雷が起こると、道真の崇りであると人々は信じ込んだ。ついには醍醐天皇までもが不安を抱くようになり、道真が師と仰いだ延暦寺の法正坊尊意僧正を招いて祈祷させることとなった。勅命を受け、宮中に向かう僧正の前で、鴨川の水が溢れ出したので、数珠をひと操みすると、水流が分かれ、石の上に道真が現われたが、すぐに消え去った。僧正は後に残った石を持ち帰り道真の霊を供養したが、この石が登天石と呼ばれている。
○京都の地名
■自然・観光
○京都の自然
○京都の観光
1京都観光の歴史
2京都の観光資源
一自然観光資源
二文化観光資源
前文/世界遺産/博物館・美術館/まちなか観光/体験できる観光
・まちなか観光
最近、特に京都の定番コースの社寺観光だけでなく、伝統的な京町家を散策するまちなか(界わい)観光が脚光を浴びている。大規模な戦災を受けなかった京都は、市内全域が貴重な文化観光資源であり、特に、短冊形宅地の間口寸法の狭さから「鰻の寝床」とも称される京町家の復活・再生が近年、関心を高めている。町家には瓦屋根、屋根に魔除けの「鍾旭さん」、土塗りの中二階の格子状の「虫籠窓」、家屋の中程に設けられた小さな庭の「坪庭」、表通りから店舗棟、玄関棟、住居棟を一直線につなぐ土間の「通り庭・走り庭」、紅殻の千本格子の「京格子」、それを取り囲む人馬の侵入を防ぐ柵の「駒寄」、町家の格子窓や板塀の下部を竹で囲って家屋を泥はねなどから守る「犬矢来」、表に向かって長く伸びた「通り庇」、さらに商家の門口の寄り付きに張りついた上げ下げ式の「バッタリ床几」(揚見世)などの風情あふれる意匠、たたずまいなどがある。京町家やその町並みを歩いて巡るまちなか観光では、素顔の京都が体感できるのである。
3京都の観光行政と法整備
ブログは
http://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/1ce968e9f4a085bde926323fff9ecb95
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