記録ID: 1362152
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
伏見維新史跡を歩く
2018年01月18日(木) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 04:03
- 距離
- 9.8km
- 登り
- 32m
- 下り
- 23m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 4:03
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:03
距離 9.8km
登り 34m
下り 36m
11:09
243分
スタート地点
15:12
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2018年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
・・・
坂本龍馬は薩長同盟を斡旋した2日後の慶応2年(1866)1月23日、宿泊していた寺田屋で伏見奉行所の役人に囲まれ負傷、脱出し濠川べりの材木小層に隠れます。報せを受けた薩慶藩は藩の旗印を掲げた船を出して籠馬を救出、薩庫島津伏見屋敷にかくまいました。
・・・
坂本龍馬は薩長同盟を斡旋した2日後の慶応2年(1866)1月23日、宿泊していた寺田屋で伏見奉行所の役人に囲まれ負傷、脱出し濠川べりの材木小層に隠れます。報せを受けた薩慶藩は藩の旗印を掲げた船を出して籠馬を救出、薩庫島津伏見屋敷にかくまいました。
・・・
伏見区南浜町にある元船宿。江戸時代は、ここから大坂八軒屋まで、淀川を上下する船旅の客で賑わった。文久二年(一八六二)、寺田屋で会合していた尊王攘夷派の有馬新七ら薩摩藩士と、薩摩藩の島津久光が差し向けた藩士らとが同士討ちになるという悲劇が起こった(寺田屋事件・寺田屋騒動)。また、慶応二年(一八六六)には、投宿中の坂本龍馬が幕吏に襲撃され、のちに妻となるお龍の機転によって難を逃れたというエピソードがある。寺田屋横には、寺田屋事件によって命を落とした薩摩藩九烈士や坂本竜馬の碑が立っている。
鳥羽・伏見戦跡
(伏見区中島秋ノ山町小枝橋東詰)
鳥羽・伏見の戦いは、慶応四年(明治元年・一八六八)正月から明治二年五月まで続く戊辰戦争の発端となった戦い。城南宮西側の鳥羽離宮跡公園付近が戦端の開かれたところで、公園内に「鳥羽伏見の戦い勃発の地小枝橋」と題した長文の碑文が立てられている。また、小枝橋東詰に「鳥羽伏見戦跡」と記された石碑がある。国道一号線を南下した下鳥羽付近の悲願寺墓地(伏見区下鳥羽東柳長町)、法伝寺(伏見区下鳥羽中三町)、東方の竹田街道近くに建つ悟真寺(伏見区榎町)などには、官軍・幕府軍両者の戦没者が葬られている。一方、伏見の中心部では、御香宮神社が薩摩軍の本陣とされ、南方の伏見奉行所に陣取った新選組らとの間に激戦が繰り広げられた。今も大手筋近くの料亭魚三楼(伏見区京町三丁目)の出格子には、この時の弾痕が残されている。
(伏見区中島秋ノ山町小枝橋東詰)
鳥羽・伏見の戦いは、慶応四年(明治元年・一八六八)正月から明治二年五月まで続く戊辰戦争の発端となった戦い。城南宮西側の鳥羽離宮跡公園付近が戦端の開かれたところで、公園内に「鳥羽伏見の戦い勃発の地小枝橋」と題した長文の碑文が立てられている。また、小枝橋東詰に「鳥羽伏見戦跡」と記された石碑がある。国道一号線を南下した下鳥羽付近の悲願寺墓地(伏見区下鳥羽東柳長町)、法伝寺(伏見区下鳥羽中三町)、東方の竹田街道近くに建つ悟真寺(伏見区榎町)などには、官軍・幕府軍両者の戦没者が葬られている。一方、伏見の中心部では、御香宮神社が薩摩軍の本陣とされ、南方の伏見奉行所に陣取った新選組らとの間に激戦が繰り広げられた。今も大手筋近くの料亭魚三楼(伏見区京町三丁目)の出格子には、この時の弾痕が残されている。
伏見と大坂を結ぶ三十石船、宇治川を下ってきた柴船、さらに角倉了以が京都二条との間に開いた高瀬川を往来する高瀬舟がひしめく京橋の周辺には、本陣4軒、脇本陣2軒、旅箭39軒が建ち並ぴました。京都へは、伏見街道と、牛車の通行のために章石が敷かれた竹田街道で結ばれます。西浜等の浜地に問屋が軒を連ね、伏見は港町・宿場町として賑わい、様々な情報がもたらされ、それを目当てに人々が行き交いました。
感想
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:491人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する