西鉄筑紫駅からスタート。
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西鉄筑紫駅からスタート。
ここを左。
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ここを左。
ここを右へ。遊歩道が元の街道です。
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ここを右へ。遊歩道が元の街道です。
お店が営業時間内なら店の中を通り抜けるのが本来の道筋にあたります。営業時間外は右に進んで迂回します。
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お店が営業時間内なら店の中を通り抜けるのが本来の道筋にあたります。営業時間外は右に進んで迂回します。
右斜め方向にある旧道へ。
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右斜め方向にある旧道へ。
猿田彦さん。福岡県内の長崎街道においては多いですね。この先の区間も気になります。猿田彦は道中安全の神様でもあります。
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猿田彦さん。福岡県内の長崎街道においては多いですね。この先の区間も気になります。猿田彦は道中安全の神様でもあります。
旧道は直進。
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旧道は直進。
左へ。
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左へ。
右へ。
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右へ。
筑紫神社付近の旧道は少し複雑です。山際を進むルート(A)と写真の左手へ進むルート(B)があります。おそらく私見ではAのほうが正解でBは明治道ではないかと推測します。
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筑紫神社付近の旧道は少し複雑です。山際を進むルート(A)と写真の左手へ進むルート(B)があります。おそらく私見ではAのほうが正解でBは明治道ではないかと推測します。
Bルート・駐車場内に道筋の痕跡が残ります。
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Bルート・駐車場内に道筋の痕跡が残ります。
Bルート・ここを右に曲がれば筑紫神社参道です。
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Bルート・ここを右に曲がれば筑紫神社参道です。
Aルート・土道になっています。やがて右手に鳥居が現れます。
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Aルート・土道になっています。やがて右手に鳥居が現れます。
Aルート・鳥居がある広場には長崎街道の看板があり、街道を往来する旅人は牛馬をこの広場に休ませて道中安全祈願のため参道を通って参拝したということが書かれています。
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Aルート・鳥居がある広場には長崎街道の看板があり、街道を往来する旅人は牛馬をこの広場に休ませて道中安全祈願のため参道を通って参拝したということが書かれています。
Aルート・その旧参道がこちら。あまり人が通らないからか草木が生い茂っています。
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Aルート・その旧参道がこちら。あまり人が通らないからか草木が生い茂っています。
筑紫神社。社殿が立つ筑後国は元は筑前国と合わせて1つの筑紫国だったそうで「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」という説を筆頭に3説あります。
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筑紫神社。社殿が立つ筑後国は元は筑前国と合わせて1つの筑紫国だったそうで「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」という説を筆頭に3説あります。
筑紫神社を出るとBルートが写真の右手から合流します。
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筑紫神社を出るとBルートが写真の右手から合流します。
大きな鳥居は元禄期のもの。
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大きな鳥居は元禄期のもの。
参道を下って原田宿へ。
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参道を下って原田宿へ。
原田宿内は大規模な区画整理が行われて昔の面影はほとんど残っていません。この付近はかろうじて旧ルート上にあります。
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原田宿内は大規模な区画整理が行われて昔の面影はほとんど残っていません。この付近はかろうじて旧ルート上にあります。
東溝口付近には「はらふと餅」売る店があったそうで絵図に残っています。この先の三国坂や手前にあった冷水峠を越えるため、ここで腹ごしらえをしたようです。
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東溝口付近には「はらふと餅」売る店があったそうで絵図に残っています。この先の三国坂や手前にあった冷水峠を越えるため、ここで腹ごしらえをしたようです。
この緩やかなカーブの先からは完全に旧道が消滅しています。元々は斜め左方向へ道がありました。
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この緩やかなカーブの先からは完全に旧道が消滅しています。元々は斜め左方向へ道がありました。
原田宿の絵図。右側のウネウネした部分が消滅しています。消滅区間はJR跨線橋まで続いています。享和年間の記録では原田宿は人家100軒あまり宿屋や茶屋も多くという記述があります。
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原田宿の絵図。右側のウネウネした部分が消滅しています。消滅区間はJR跨線橋まで続いています。享和年間の記録では原田宿は人家100軒あまり宿屋や茶屋も多くという記述があります。
迂回中・ここを右へ。右の方角に原田駅があります。
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迂回中・ここを右へ。右の方角に原田駅があります。
迂回中・ここを左へ。本来の道はマンションの向こう側を左に向かっていたようです。
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迂回中・ここを左へ。本来の道はマンションの向こう側を左に向かっていたようです。
迂回中・ここを右へ。
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迂回中・ここを右へ。
JRの跨線橋から街道が復活します。
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JRの跨線橋から街道が復活します。
振り返って原田駅方向。緩やかな坂になっています。こう見ると先ほどあった原田宿の絵図の光景を想像できます。
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5/5 8:33
振り返って原田駅方向。緩やかな坂になっています。こう見ると先ほどあった原田宿の絵図の光景を想像できます。
跨線橋を渡った先の左手に旧道が残ります。
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跨線橋を渡った先の左手に旧道が残ります。
ここを左へ。
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ここを左へ。
養鶏場の横を通ります。
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養鶏場の横を通ります。
JRの古い煉瓦橋の下をくぐって右方向へ。
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JRの古い煉瓦橋の下をくぐって右方向へ。
JRと平行して進みます。
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JRと平行して進みます。
国道3号線沿いを進みます。
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国道3号線沿いを進みます。
難所の三国坂の手前にあった国境石。元々あった場所は国道上にあるマンホールの位置になります。国境石を建てる前は大きな松の木があったのですが枯れたので印を設置しようと議論になったものの2年近く揉めたみたいです。
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難所の三国坂の手前にあった国境石。元々あった場所は国道上にあるマンホールの位置になります。国境石を建てる前は大きな松の木があったのですが枯れたので印を設置しようと議論になったものの2年近く揉めたみたいです。
わかりづらいですが目印のマンホールが設置されています。
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わかりづらいですが目印のマンホールが設置されています。
三国坂の入口。バイパスの左横にあります。
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三国坂の入口。バイパスの左横にあります。
このような草道が続きますが高速道路と交わる辺りで消滅しています。結局は引き返してバイパスの歩道を歩くしかありません。
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このような草道が続きますが高速道路と交わる辺りで消滅しています。結局は引き返してバイパスの歩道を歩くしかありません。
三国坂の光景。
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三国坂の光景。
三国坂。少しわかりづらくなっている場所もあります。
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三国坂。少しわかりづらくなっている場所もあります。
バイパスを進みます。
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バイパスを進みます。
この付近はバイパス建設の影響で旧道の痕跡自体が少なくなっています。先ほどの三国坂から続く旧道の復活ポイントが川を挟んで左手にあります。
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この付近はバイパス建設の影響で旧道の痕跡自体が少なくなっています。先ほどの三国坂から続く旧道の復活ポイントが川を挟んで左手にあります。
緩やかな坂の具合は旧道そのものです。
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緩やかな坂の具合は旧道そのものです。
けやき台駅の先の白坂で街道は右の森の中へと入っていきます。線路で分断されているので踏切で迂回します。
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けやき台駅の先の白坂で街道は右の森の中へと入っていきます。線路で分断されているので踏切で迂回します。
鹿児島本線は列車の本数が多いので間違っても線路横断はやめましょう。
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5/5 9:23
鹿児島本線は列車の本数が多いので間違っても線路横断はやめましょう。
迂回中・正面に猿田彦があります。交差点の左右が長崎街道です。左は鳥栖方面。右はけやき台駅方面。
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迂回中・正面に猿田彦があります。交差点の左右が長崎街道です。左は鳥栖方面。右はけやき台駅方面。
右に進めば先ほどの線路での分断ポイントにいくことができます。引き返します。
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右に進めば先ほどの線路での分断ポイントにいくことができます。引き返します。
住宅街ののんびりした道筋です。
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住宅街ののんびりした道筋です。
左へ。
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左へ。
踏切を渡って線路沿いの道へ。
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踏切を渡って線路沿いの道へ。
基山駅の手前。ここから次の踏切にかけてはバイパスに取り込まれてしまっています。元々は左側へ川沿いに弧を描く道筋になっていました。
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5/5 9:47
基山駅の手前。ここから次の踏切にかけてはバイパスに取り込まれてしまっています。元々は左側へ川沿いに弧を描く道筋になっていました。
踏切を渡ります。古代のこの付近では水城のような土塁(関屋土塁・とうれぎ土塁)が築かれていたようです。
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5/5 9:49
踏切を渡ります。古代のこの付近では水城のような土塁(関屋土塁・とうれぎ土塁)が築かれていたようです。
基山は長崎街道が通過する町として1645年に成立した町で「人家五六十軒あり、東の入口に茶屋あり。商家、酒屋あり。」と記述が残っています。由来の若宮八幡宮は「基八間山(きやまやま=荒穂宮のある山(基山 きざん)を指すと云われています。
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5/5 9:52
基山は長崎街道が通過する町として1645年に成立した町で「人家五六十軒あり、東の入口に茶屋あり。商家、酒屋あり。」と記述が残っています。由来の若宮八幡宮は「基八間山(きやまやま=荒穂宮のある山(基山 きざん)を指すと云われています。
西海製薬の横を進みます。鳥栖周辺は有名な製薬会社が多い気がします。
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5/5 9:55
西海製薬の横を進みます。鳥栖周辺は有名な製薬会社が多い気がします。
基山駅前。
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5/5 9:56
基山駅前。
道路で分断されています。右側の横断歩道で向こう側へ。
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5/5 10:00
道路で分断されています。右側の横断歩道で向こう側へ。
道なりに橋を渡って川の右側へ。
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5/5 10:03
道なりに橋を渡って川の右側へ。
右にある橋を渡って向こう側へ。
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5/5 10:07
右にある橋を渡って向こう側へ。
住宅街だけあって飲食物には困ることはありません。
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5/5 10:17
住宅街だけあって飲食物には困ることはありません。
この左手の川は比較的新しい川で江戸時代の道筋は今とは少し違うものになっていたようです。
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5/5 10:21
この左手の川は比較的新しい川で江戸時代の道筋は今とは少し違うものになっていたようです。
庚申さん。
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5/5 10:30
庚申さん。
今町の集落。街道沿いに軒を連なるように家並みが続いていました。1653年の時点では計30戸の家々があったようです。
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5/5 10:31
今町の集落。街道沿いに軒を連なるように家並みが続いていました。1653年の時点では計30戸の家々があったようです。
弥生が丘駅前。かつての街道は左手を弧を描くようにありましたが区画整理され痕跡が残っていません。
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5/5 10:40
弥生が丘駅前。かつての街道は左手を弧を描くようにありましたが区画整理され痕跡が残っていません。
鳥栖インター付近。インターが設置する以前は街道は右側に弧を描くようにありました。
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5/5 10:55
鳥栖インター付近。インターが設置する以前は街道は右側に弧を描くようにありました。
少し狭い道にも関わらず交通量多めなので注意しましょう。
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5/5 10:56
少し狭い道にも関わらず交通量多めなので注意しましょう。
この先を右へ。追分石があります。この写真の位置に足洗川が流れていて田代宿に入る旅人はここで足を洗ったと言われています。
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5/5 10:59
この先を右へ。追分石があります。この写真の位置に足洗川が流れていて田代宿に入る旅人はここで足を洗ったと言われています。
「右ひこ山道、左こくら はかた道」自然石の道標で記録では1802年以前からあったといいます。
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5/5 11:01
「右ひこ山道、左こくら はかた道」自然石の道標で記録では1802年以前からあったといいます。
右へ。田代宿の入口です。
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5/5 11:03
右へ。田代宿の入口です。
田代宿は対馬藩の代官所が置かれた場所で江戸後期の記録では人家500、茶屋、宿屋多しとあります。
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5/5 11:07
田代宿は対馬藩の代官所が置かれた場所で江戸後期の記録では人家500、茶屋、宿屋多しとあります。
田代宿のすぐ横に轟木宿があります。轟木宿は肥前藩の管轄です。これほど近い距離にあるのは国境であることが一つの理由のようです。
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5/5 11:09
田代宿のすぐ横に轟木宿があります。轟木宿は肥前藩の管轄です。これほど近い距離にあるのは国境であることが一つの理由のようです。
田代宿はサロンパスの会社があります。街道の道筋はそれを大きく囲むようにありますが街道筋には人家が建ち並んでいたので何もない場所を選んで工場が立てられたということでしょう。
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5/5 11:16
田代宿はサロンパスの会社があります。街道の道筋はそれを大きく囲むようにありますが街道筋には人家が建ち並んでいたので何もない場所を選んで工場が立てられたということでしょう。
恵比寿様。このタイプはこの辺りに非常に多いですね。
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5/5 11:18
恵比寿様。このタイプはこの辺りに非常に多いですね。
田代代官所跡は田代小学校になっています。ちなみに代官所は廃藩置県で廃止になりますがその後も田代周辺は宗家(旧対馬藩主)が大地主として関わっていきます。
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5/5 11:19
田代代官所跡は田代小学校になっています。ちなみに代官所は廃藩置県で廃止になりますがその後も田代周辺は宗家(旧対馬藩主)が大地主として関わっていきます。
上使屋跡。
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5/5 11:20
上使屋跡。
ここを左へ。この角に高札場、問屋場、旅籠街がありました。
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5/5 11:22
ここを左へ。この角に高札場、問屋場、旅籠街がありました。
サロンパス工場の横を進みます。
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5/5 11:24
サロンパス工場の横を進みます。
右へ。追分道標があります。
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5/5 11:33
右へ。追分道標があります。
「右 さか 左 くるめ道」東口にもあった同じタイプの自然石の道標です。1802年以前からのものです。
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5/5 11:34
「右 さか 左 くるめ道」東口にもあった同じタイプの自然石の道標です。1802年以前からのものです。
右へ。
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5/5 11:39
右へ。
右へ。
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右へ。
左へ。
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左へ。
田代宿と轟木宿の中間にある瓜生野。3と6と9の付く日に市が立てられ賑わっていたそうです。しかも人家の数は轟木宿より多く、商家、酒屋はあるものの茶屋はなしという記録があります。
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5/5 11:58
田代宿と轟木宿の中間にある瓜生野。3と6と9の付く日に市が立てられ賑わっていたそうです。しかも人家の数は轟木宿より多く、商家、酒屋はあるものの茶屋はなしという記録があります。
秋葉町の町並み。
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5/5 12:11
秋葉町の町並み。
ここを右へ。
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5/5 12:15
ここを右へ。
長崎本線をくぐります。くぐった先の左手に姿見池があります。
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5/5 12:20
長崎本線をくぐります。くぐった先の左手に姿見池があります。
姿見池。菅原道真の子を養子に出した先がこの近くで、我が子に会うためにしばしば訪れて腰を下ろしたのが「腰掛石」です。そして自分の顔を水に映したのが「姿見池」
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5/5 12:26
姿見池。菅原道真の子を養子に出した先がこの近くで、我が子に会うためにしばしば訪れて腰を下ろしたのが「腰掛石」です。そして自分の顔を水に映したのが「姿見池」
腰掛石。
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5/5 12:25
腰掛石。
直進します。ここで交差していたのが高架前の長崎本線。
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5/5 12:27
直進します。ここで交差していたのが高架前の長崎本線。
橋を渡ります。橋の名前は境橋。
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5/5 12:28
橋を渡ります。橋の名前は境橋。
この轟木川を境に東が対馬藩、西が肥前藩になっていました。
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5/5 12:29
この轟木川を境に東が対馬藩、西が肥前藩になっていました。
川を渡ってすぐの場所に番所跡。国境の宿場の雰囲気があります。
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5/5 12:30
川を渡ってすぐの場所に番所跡。国境の宿場の雰囲気があります。
轟木宿。ここを左へ。江戸時代の記録では人家140、茶屋、宿や多しとあります。
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5/5 12:31
轟木宿。ここを左へ。江戸時代の記録では人家140、茶屋、宿や多しとあります。
長閑な轟木宿。
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5/5 12:36
長閑な轟木宿。
国道34号を横断します。昼食はここのインド料理屋で頂きました。
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5/5 13:09
国道34号を横断します。昼食はここのインド料理屋で頂きました。
ここは右へ。
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5/5 13:14
ここは右へ。
左へ。
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5/5 13:17
左へ。
九州新幹線の高架をくぐります。新鳥栖駅はすぐ近く。
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九州新幹線の高架をくぐります。新鳥栖駅はすぐ近く。
新幹線高架下の旧道。
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5/5 13:22
新幹線高架下の旧道。
安良地区。右手は山城の朝日山があり戦略的な拠点として位置付けられていました。人家40軒茶屋多しという記述があるように間の宿の位置づけで轟木宿で宿泊客があふれた場合はここにも分宿していたそうです。
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5/5 13:30
安良地区。右手は山城の朝日山があり戦略的な拠点として位置付けられていました。人家40軒茶屋多しという記述があるように間の宿の位置づけで轟木宿で宿泊客があふれた場合はここにも分宿していたそうです。
ゴルフ場の中を進みます。ネットには多くのゴルフボールがひっかかっていました。
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5/5 13:32
ゴルフ場の中を進みます。ネットには多くのゴルフボールがひっかかっていました。
国道を交差。
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5/5 13:40
国道を交差。
村田地区。村田鍋島家の城下町でもあり恵比寿様が2体あることから商業の町の一面もあったそうです。
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5/5 13:43
村田地区。村田鍋島家の城下町でもあり恵比寿様が2体あることから商業の町の一面もあったそうです。
国道を横断して右横の旧道へ。
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5/5 13:55
国道を横断して右横の旧道へ。
再び合流します。
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5/5 13:59
再び合流します。
佐賀競馬場を横目に進みます。
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5/5 14:13
佐賀競馬場を横目に進みます。
左へ。
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5/5 14:17
左へ。
競馬の馬でしょうか。
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競馬の馬でしょうか。
太刀洗峠への道。峠では当時、峠を進む旅人を襲う山賊が出没して襲撃に使った刀を洗っていたので「太刀洗」と呼ぶようになったと言われています。
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5/5 14:30
太刀洗峠への道。峠では当時、峠を進む旅人を襲う山賊が出没して襲撃に使った刀を洗っていたので「太刀洗」と呼ぶようになったと言われています。
昭和40年代の光景ですがちょうどこの交差点付近から撮影したものでしょう。
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5/5 14:30
昭和40年代の光景ですがちょうどこの交差点付近から撮影したものでしょう。
太刀洗峠。
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5/5 14:35
太刀洗峠。
左へ。
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左へ。
中原宿入口。宿場の扱いでしたが轟木宿と神崎宿と挟まれた場所柄規模は小さかったようです。旅籠は6軒。
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5/5 14:40
中原宿入口。宿場の扱いでしたが轟木宿と神崎宿と挟まれた場所柄規模は小さかったようです。旅籠は6軒。
祇園社。
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祇園社。
中原宿は明治に大火があり殆どの家が失なわれてしまっています。左の建物は岡崎屋。
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5/5 14:55
中原宿は明治に大火があり殆どの家が失なわれてしまっています。左の建物は岡崎屋。
岡崎屋の二階の手すりには「中原駅岡崎屋御定宿」の透かし彫りの看板が残されています。
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5/5 14:56
岡崎屋の二階の手すりには「中原駅岡崎屋御定宿」の透かし彫りの看板が残されています。
旧道は左へ。草道になっています。この辺りが西の木戸。
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5/5 15:03
旧道は左へ。草道になっています。この辺りが西の木戸。
若干藪ってましたが大したことはありません。
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若干藪ってましたが大したことはありません。
川を渡った先に再び旧道入口があります。
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川を渡った先に再び旧道入口があります。
右へ。
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右へ。
この区間は発掘調査が行われ地面の下から当時の路面や公衆トイレだった甕が発見されています。
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この区間は発掘調査が行われ地面の下から当時の路面や公衆トイレだった甕が発見されています。
昔のままの街道の風情です。
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昔のままの街道の風情です。
ここで合流して右へ。
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ここで合流して右へ。
右手に小川を見ながら。
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右手に小川を見ながら。
切通しの集落。恐らく切通しが由来でしょうがそれっぽいものは見当たらず。
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切通しの集落。恐らく切通しが由来でしょうがそれっぽいものは見当たらず。
ここを右へ。
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ここを右へ。
交通量が多いので注意しましょう。
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交通量が多いので注意しましょう。
左へ。
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左へ。
狛犬が乗った珍しい常夜灯。
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狛犬が乗った珍しい常夜灯。
目達原宿という間の宿。今も商店があり賑わってるように見えます。
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目達原宿という間の宿。今も商店があり賑わってるように見えます。
自衛隊横を進んで右へ。
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自衛隊横を進んで右へ。
今回のゴール。吉野ヶ里公園駅はすぐ近く。
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今回のゴール。吉野ヶ里公園駅はすぐ近く。
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