記録ID: 1982279
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ハイキング
関東
佐渡奉行街道(新町〜新前橋)
2019年08月18日(日) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 06:41
- 距離
- 22.3km
- 登り
- 40m
- 下り
- 9m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2019年08月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
ここを左折するのが、新町からの佐渡奉行街道への分岐と思われる。
ちなみに右折したのが、鎌倉街道?新町〜群馬藤岡〜山名〜倉賀野https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1557030.html 2018/8/15
ちなみに右折したのが、鎌倉街道?新町〜群馬藤岡〜山名〜倉賀野https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1557030.html 2018/8/15
「毘沙土村/1846大洪水/村が新町下河原に移る」
中山道経路変更は1651/1653
新編武蔵風土記稿は1830年完成
新編武蔵風土記稿に寛政3年(1791年)の神流川の洪水の記述がある。
合わせて推定すると、
中山道旧路は毘沙土村を経由して神流川を渡らず烏川を渡っていた。当時の旧三国道分岐は玉村?
中山道経路変更(新町宿)で三国道の分岐は金久保村に
寛政3年の洪水で三国道は神流川/烏川両川を渡る形に
1846大洪水で三国道は再度烏川のみを渡るように?
となるが、迅速測図には神流川を渡り、新町側の”毘沙土村”を経由して烏川を渡るルートが書かれている
中山道経路変更は1651/1653
新編武蔵風土記稿は1830年完成
新編武蔵風土記稿に寛政3年(1791年)の神流川の洪水の記述がある。
合わせて推定すると、
中山道旧路は毘沙土村を経由して神流川を渡らず烏川を渡っていた。当時の旧三国道分岐は玉村?
中山道経路変更(新町宿)で三国道の分岐は金久保村に
寛政3年の洪水で三国道は神流川/烏川両川を渡る形に
1846大洪水で三国道は再度烏川のみを渡るように?
となるが、迅速測図には神流川を渡り、新町側の”毘沙土村”を経由して烏川を渡るルートが書かれている
笠付き庚申塔道標
「正徳二年」(1712)
「従是右本庄宿」
「これより左加し加い道」
新町宿は出来ているので中山道上の道標では無い。
で、「加し加い」何処?
「安政七年(1857)まで神流川の東にあった」
洪水による流路変更については無視して、”今の”神流川の流路の東にあった、と言っていると思われる。
「正徳二年」(1712)
「従是右本庄宿」
「これより左加し加い道」
新町宿は出来ているので中山道上の道標では無い。
で、「加し加い」何処?
「安政七年(1857)まで神流川の東にあった」
洪水による流路変更については無視して、”今の”神流川の流路の東にあった、と言っていると思われる。
岩倉橋の由来と歴史
「明治九年(中略)前橋から東京へ至る最短距離の道路として(中略)渡船は廃止され(以下略)」
なるほど。だから迅速測図に自新潟縣至山梨縣道は旧三国道のラインではなく、前橋を通るラインで書かれている訳だ。
「明治九年(中略)前橋から東京へ至る最短距離の道路として(中略)渡船は廃止され(以下略)」
なるほど。だから迅速測図に自新潟縣至山梨縣道は旧三国道のラインではなく、前橋を通るラインで書かれている訳だ。
日光例幣使道
「1646年日光東照宮へも派遣を決め」
中山道経路変更より前。その時点で旧々中山道を利用していたかが不明
「例幣使道分間絵図」(多分1806頃/毘沙土村移転前)
「中山道三国道本庄宿へ出る道」
「藤ノ木河岸へ三十町」
「上ノ手村へ三町半」
「角淵村へ二十町」
藤ノ木河岸への距離から当時の渡しの位置が推定可能ではある。
根拠はないが、烏川北岸の毘沙土飛び地辺りではないかと
「1646年日光東照宮へも派遣を決め」
中山道経路変更より前。その時点で旧々中山道を利用していたかが不明
「例幣使道分間絵図」(多分1806頃/毘沙土村移転前)
「中山道三国道本庄宿へ出る道」
「藤ノ木河岸へ三十町」
「上ノ手村へ三町半」
「角淵村へ二十町」
藤ノ木河岸への距離から当時の渡しの位置が推定可能ではある。
根拠はないが、烏川北岸の毘沙土飛び地辺りではないかと
ここでは車道と川の間に公園があるが、この公園が滝川改修前の水路後の模様(国土画像74-78)。
その意味で言うと国道354号と交差してからしばらくは、改修前の流路は今より西なので、改修により、厳密には古道ラインは消失していると思われる。
その意味で言うと国道354号と交差してからしばらくは、改修前の流路は今より西なので、改修により、厳密には古道ラインは消失していると思われる。
「之よりひだり江戸みち 之より右ち〃ぶみち」
さて、この位置に道しるべがあると言うことは、
右が三国道として推定して来た道で、左は利根川沿いの道と思われる。利根川沿いが三国道か。そこは迅速測図優先主義で無視
さて、この位置に道しるべがあると言うことは、
右が三国道として推定して来た道で、左は利根川沿いの道と思われる。利根川沿いが三国道か。そこは迅速測図優先主義で無視
撮影機器:
感想
佐渡奉行街道は、中山道本庄又は新町から分岐して渋川で三国街道に合流する三国街道古道、というのが大体で。
新町宿が中山道としては新しい道なので、そもそもは本庄からでしょうが、その時は本庄から分岐する道自体が旧々中山道だろうと。
佐渡奉行街道は玉村を通る、とされているが、烏川を渡った旧々中山道が倉賀野に向かうラインはどこかはっきりしない。日光例幣使街道が整備される前の玉村を必然性が感じられず、烏川北岸沿いに倉賀野に最短距離で進んでいた可能性がある。その場合は、その当時の佐渡奉行街道と旧々中山道の追分までのルートも現状とは異なるだろう。(しかし、迅速測図でも推定できない)。逆に、旧々中山道が烏川沿いに進んでいたなら、例幣使街道が川から離れた玉村を通る様になった理由は?とかあるが。
中山道側からの起点は、ルートがはっきり見えて、烏川渡りに使える橋が一番近くにある新町からのラインを採用した。
日光例幣使街道が整備された跡のラインと思われる玉村宿を通るルートを取ったが、烏川を渡って北上、玉村宿を西進、例幣使街道から分かれて北西へ、という線として違和感のあるラインになる。本庄から北西に進み烏川を渡り、その方向性を保ったまま進めば、一直線ぽい綺麗なラインになるのだが。
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