景信山、甲州街道-3


- GPS
- --:--
- 距離
- 20.4km
- 登り
- 782m
- 下り
- 752m
コースタイム
天候 | 曇りのち晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
感想
2月下旬に小仏BS-小仏峠開通。で、甲州街道トレースを伸ばすことにしました。まぁ。景信山を回ったので、通行止めは関係なかったようですが。日影BSから小仏BS迠と、美女谷から底沢BSのトレースがありません。ここにトレースを入れないと甲州街道が繋がらない。
1月からフラフラ平地を歩き回って足慣らし。3月になった事だし、どれ位登れるか?、景信山でお試ししてみよう。小仏BS-小仏峠は昔のトレースがあるから無理に通る事もないし、三角点訪問にもなることだし。と言う訳で、今回はほこりを被っていた登山靴が久々に出動。雨具などは省略した平地歩き装備ながら、足回りだけはお山仕様にしてみました。
登りは結構快調。登山口から山頂まで特に我慢した訳でもなく小一時間を休み無し。ホイホイ登れました。おっ、基本的に行けるんでね?もうお山でも大丈夫では?。と思ったのは甘かった。景信山から甲州側の小仏峠登山口まで450m程の降り、結構足に来ました。そうだよねー、降りの方が足に来るんだったーと昔を思い出す。これじゃぁ丹沢大山の石段降りなんかやった日にゃ玉砕だなーと思いつつ降って来たのでありました。
で、底沢BS迠来れば、その先は国道20号沿いだからと思ったのも甘かった。殆ど平坦のつもりでいましたが、結構登り降りがあるのネン。最高所と最低所の標高差100m程、細かい登り降りが続く。ちょっち足に来た身には辛いっす。
まぁ、なんだかんだ言いながらも、一応。日本橋-吉野宿は繋がり、ちっちゃいお山なら充分行ける。そういう感触を持ちました。3月はお山も織り交ぜてもう少しレベルアップしようと思ったのでありました。取りあえず、一杯降らないと登れないようです。が、果たしてコロナは大丈夫か?。
三等三角点「景信山」(内44)の点ノ記から。
・撰定:明治19(1886)年7月19日、内藤勉一
・構造:明治19年7月24日、内藤勉一
・観測:明治19年9月2日、内藤勉一
・順路:小仏峠頂ヨリ小徑ニ沿ヒ北折シ、山嶺ヲ通過(?)スルコト約八町余ニテ達ス。
陸軍参謀本部陸地測量部の発足が明治21年なので、明治19年はまだ測量局と言っていた頃。改埋された記録は見当たらないので、標石は当時のものでしょう。刻印面は南向きでした。
相模野基線実測が明治15年、内務省地理局の統合が明治17年。明治19年設置の三角点は最も古い部類。この辺りから丹沢東部大山位までの三等点が、明治19年に内藤氏が設置したもの。氏の肩書きは明治18年は御用掛、景信山の点ノ記には記載なし。陸地測量部発足時の職員表には陸地測量手として載っています。私の見た内藤氏の点ノ記の最も古いものは明治17年(伊豆半島)のもの。国土基本図作成黎明期に従事されていたようです。
写真の通り、結構お疲れの標石ですが、この当時の標石は測量官が現地調達していたそうで、この標石は甲州産とのこと。標石が三河産か小豆島産の花崗岩をまとめて調達し、規格に沿って一括製作されて測量官に支給されるようになったのは明治29年の標石委員発足後だそう。初期の様子を伝える標石の一つのようです。
で、測定の答え合わせ。
・当方測定:北緯35°38.759、東経139°12.952、標高738.0m
・国土地理院:北緯35°38.7600、東経139°12.9529、標高727.25m
南に2m弱、西に1m強、合わせて東南に約2mズレました。略ピッタリと言って良いでしょう。標高が10mもズレたのは残念。(測定はYAESU VX-8D + GPSユニット使用。国土地理院値は表記を合わせる為、公表値から算出。ズレ量は単純な粗いモデルで測位系補正なし。目安レベルの参考値です。)
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