西坂部城攻城(三重県四日市市)


- GPS
- 00:31
- 距離
- 2.5km
- 登り
- 48m
- 下り
- 39m
過去天気図(気象庁) | 2020年07月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
西坂部城址
西坂部には城跡が二カ所あって、小字名「城」に鎌倉時代の三日平氏の乱において若菜五郎とともに平賀朝雅のために滅亡した萩原小太郎が拠点とした城があった。室町時代に朝明郡の中野城に拠った赤堀藤太郎がその前にここを居城としたとも伝えている。
もう1カ所は、この地で小字名を「城の谷」と言い、永禄年中(一五五八-一五六九)に山本豊前がここに居たという。
城域は南北に、北ノ丸、本丸、二ノ丸、三ノ丸と名づけ得る小区域があり、それぞれに土塁が巡らされていたと思われる。
土塁は二ノ丸(南端)、三ノ丸、西南端のフェンスで保護された部分に残っている。
この城跡は、四日市市開発公社により三重団地造成に際し、公園として残され、市民にとってかけがえのない文化遺産としてまた憩いの場として整備されたものである。
昭和四七年三月三十一日
四日市市教育委員会
感想
標高76.9mの丘に作られた山城。城を西端として南北と東に大規模な団地が広がる。登り口は北西、南西、南東に一箇所ずつある。駐車場はないようだが、路駐はできそう。
北西の登り口は左右二股に分かれていて右の坂道を取る。
主郭の西尾根に築かれた曲輪があり、その南端部に案内板があった。南端部に東西に伸びる土塁も確認。ネット情報では西側にも土塁があったとのこと。
曲輪からは東の主郭方向に向かう遊歩道と南側に下る遊歩道があり、東の主郭に上る。主郭は南端部が少し盛り上がっていて三角点を示す石柱が埋まる。
主郭は北側を角にして、南側に開けた「へ」の字状の形をなす。明るければ西の尾根に築かれた曲輪が見下ろせ、その南西端を取り囲む土塁も確認できたかと思うが見られず。その代わり南方向に展望が開け、綺麗な夜景が見られた。
主郭から東方向に下る遊歩道に進む。途中で南に転じ東南側の登り口に降りるが、手前で裾をなぞる遊歩道があり、4時の方向から10時の方向に反時計回りに等高線をなぞると最初の北西登り口に出合う。公園の周囲を取り囲む住宅地の車道に出て時計回りに公園の外側を回ると南端あたりにトイレがあり、少し進むと南西端の登り口に出合う。登ってみると曲輪にもう一度出た。最初の北西の登り口に下りて戻ろうとしたが、車道を挟んだ北側に平坦地があり入ってみたところシューズが汚れただけで城とは無関係のよう。
攻城は西側から取り付いたが、東に隣接する三重西小学校の南端沿いを走って帰還する。
案内板
西坂部城址
西坂部には城跡が二カ所あって、小字名「城」に鎌倉時代の三日平氏の乱において若菜五郎とともに平賀朝雅のために滅亡した萩原小太郎が拠点とした城があった。室町時代に朝明郡の中野城に拠った赤堀藤太郎がその前にここを居城としたとも伝えている。
もう1カ所は、この地で小字名を「城の谷」と言い、永禄年中(一五五八-一五六九)に山本豊前がここに居たという。
城域は南北に、北ノ丸、本丸、二ノ丸、三ノ丸と名づけ得る小区域があり、それぞれに土塁が巡らされていたと思われる。
土塁は二ノ丸(南端)、三ノ丸、西南端のフェンスで保護された部分に残っている。
この城跡は、四日市市開発公社により三重団地造成に際し、公園として残され、市民にとってかけがえのない文化遺産としてまた憩いの場として整備されたものである。
昭和四七年三月三十一日
四日市市教育委員会
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