街道歩き 藤枝から日坂宿


- GPS
- 64:00
- 距離
- 21.8km
- 登り
- 346m
- 下り
- 314m
天候 | 1日目:雨のち曇り 2日目:晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
コース状況/ 危険箇所等 |
街道歩き「東海道」 藤枝から日坂宿 1日目:上青島一里塚-島田宿-大井神社-川越遺跡-島田市博物館-蓬莱橋 2日目:大井川橋-金谷宿-金谷坂石畳-諏訪原城跡-菊川間の宿-小夜の中山-日坂宿-事任八幡宮 |
写真
感想
★今回の旅も盛り沢山です。島田宿大井川の川越遺跡と蓬莱橋、大井川対岸の金谷宿、金谷坂の石畳、更に続く過酷な小夜の中山峠と伝説、その先の日坂宿。街道は江戸時代の姿を今にとどめる旅籠などが数多く残っており、原風景の中の街道歩きを堪能する事ができました!
★小夜の中山「夜泣石物語」by滝澤馬琴。昔、菊川村に若い夫婦が住んでいた。ある日、身重の妻が家に伝わる名刀を質に入れてお金を借りようと日坂の町へと向かう途中、小夜の中山で日が暮れてきた。その時突然現れた男に襲われ持っていた刀を奪われ、切られて死んでしまうがその傷口から赤ちゃんが誕生する。事件後、日坂宿の小泉屋という茶店に女の人が水飴を買いにくるようになった。不審に思った主人と近くの久延寺の住職が後をつけてみると、どこからともなく赤子の泣き声。見回すと松の根元に大きな丸い石がありその間に挟まれるように、毎夜飴を買いに来ていた女人の着物に包まれた赤ん坊がいた。2人は赤ん坊を助け出し音八と名付けて寺で育てた。刀砥師となった音八、ある日刀砥ぎを頼みにきた男の刀の刃こぼれを問いただすと10数年前の妊婦殺害の折に石に当たったものだと云う。この男こそ捜し求めていた仇だと確信し、めでたく恨みを晴らした。その後出家して山にこもり母の菩提を弔った・・・というお話です。 「子育飴」の由来
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◆島田宿:日本橋から23番目の宿。難所の大井川、川留最長記録は28日とか。おかげで繁盛し、宿場は潤った。
◆大井神社:大井川の洪水を鎮め安座をもたらす神社。元禄年間に始まった「帯まつり」島田へ嫁いだ女性が晴れ着を着て街中を披露していたが、やがて持参の帯を大奴に託し披露するようになったのが始まり。3年に1度開催される。
◆大善寺:川越の一日の始まりと終わりを告げる時の鐘を打った寺。
◆川越遺跡:1696年川越制度ができる。
【川会所】その日の水深をはかり川越賃銭を決めたり、渡渉の割振、荷物の配分等日々の運営をはかる仕事が行われていた。
【賃銭】水深(股通/帯下通/帯上通/乳通/脇通)により48文から94文
【越し方】肩車、連台(平連台、高欄連台etc) その他、手引きや丸太に捕まる方法も。(丸太は手を離したら最後!です)
【川越人足】両岸の島田・金谷で約650人が班に分かれていた。集合場所は一番宿、二番宿と呼ばれる番宿であり、賃銭は公平に分配されていた。
☆ちなみに・・人足は裸で腰に二重廻しと称するものをしめ--とある。冬はさぞや寒かった〜のではないかな。。。。
◆蓬莱橋:明治12年に架けられた木造の橋。全長896.5m 通行幅2.7m ギネスブックに登録されている。
◆日本左衛門首塚:遠州の大義賊、白波五人男で知られる日本左衛門。京都で自首し江戸で処刑され見付宿にさらされていた首を金谷宿の愛人おまんが密かに持ち帰り宅円庵に埋葬した。
◆金谷坂の石畳:金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道。山石を敷き並べた。
◆諏訪原城跡:武田勝頼の命により馬場氏勝が築いた山城。扇状の形 甲州流築城の面影が見られ城址の9割が現存している。
◆菊川間の宿:名物「菜飯田楽」頼朝が京へ行く途中に立ち寄ったという記録あり。
◆久延寺:山内一豊が茶亭を建て家康をもてなした。
◆小夜の中山:菊川から日坂までの峠。東海道5難所、箱根に次ぐNo2の難所。また和歌、俳句の名所でもあり随所に歌碑・句碑が建てられている。
◆日坂宿旅籠「川坂屋」:精巧な木組みと細かな格子が特徴的。床の間付きの上段の間があることから身分の高い武士や公家も宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせる。また2階には7畳半の部屋・・(ながくはんじょう=永く繁盛)の意
◆日坂宿旅籠「萬屋」:屋号「藤文」川坂屋の大旅籠に対して庶民の旅人が利用した旅籠
◆事任(ことのまま)八幡宮:創建年代は不詳。坂上田村麻呂東征の際に桓武天皇の勅を奉じ、本宮山より現在地へ遷宮されたと伝えられている。 ご神木「大杉様」と、楠の大木 がある。
コメント
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おはようございます。mizukiです。
この辺りになると、子供の頃、教科書で勉強した内容が思い出されてきます。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と覚えていますが、江戸を出て、最初の難関が箱根越え、次にやってくる難関が大井川越えだったそうですね!
暴れ川の名を欲しいままにした大井川も、今ではすっかり改修され、立派な橋も架かって、誰で何時でも渡れるようになりましたが、ほんと、昔は大変だったんですね!
幕府の政策上、架橋しなかったのですが、それに伴い、川を渡らせるための仕組みが整えられ、それぞれの分担を担って商売に従事して、その賃金で暮らせた人々がたくさんいたわけですから、今で言う「雇用創出」になっていたのですね。
「蓬莱橋」は写真で見て知っていました。今でも渡れるのですね。増水にも耐え、日本の架橋技術の高さが忍ばれます。
美味しそうにお団子をほおばっていらっしゃる旦那様! 今度は、新年が明けてからですね!
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