石尊山・官ノ倉山(外秩父七峰)夕方東方からピストン


- GPS
- 01:34
- 距離
- 3.4km
- 登り
- 294m
- 下り
- 293m
コースタイム
天候 | 曇(遠方に夕日) |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
整備されたハイキング道です。石尊山の東面に露岩の急登がありますが、鎖があって問題ありません。 |
写真
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
飲料
地図(地形図)
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
予備電池
GPS
筆記用具
ファーストエイドキット
保険証
携帯
時計
タオル
ストック
カメラ
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感想
●外秩父七峰の一座目「官ノ倉山」
この日、晴れていれば、外秩父七峰の、愛宕山、皇鈴山、登谷山を周回しようと計画してました。が、朝起きてみたら、雨が降ってました。曇だったら晴れる可能性があったのですが、あきらめて寝てしまいました。
しかし起きてみると、どこか山に行きたい気持が収まらず、ふと、外秩父七峰のなかでも低山で、ちょっと場所が街に近く さくっと登れそうな官ノ倉山に、いつかは登ってみたいと思っていました。その思いがむっくと立ち上がり、低山なので午後からでも大丈夫だろうとルートを調べました。が、どうも周回は無理なので、石尊山も含めてピストンで登れるルートを探すと、笠原熊野神社の近くにある公衆トイレの横に駐車場があることがわかりました。そこから登るルートに決めました。
●やってはいけない夕方登山のタブー破り
さて、でかけようかとすると、なんと休日なのに電話が二本、三本鳴り、仕事を少しこなしました。ということで、出発が14時過ぎになり、登山口の到着が、15時半近くになってしまいました。これから日が暮れようとしている11月の秋、本来は下山を終える時間でしたが、これから登るなど、低山とはいえ、山をあなどってはいけません――と思いながらも、なんだかとにかく登ってみたい気持が急いて、いい歳をして、いけないことをしてしまう後ろめたさを感じつつ、車を登山口まで運転して行ってしまいました。いい歳をしているのに、困ったものだと今は自戒しています。
「行きはよいよい」まだ明るいですからすいすいと歩けました。しかし懸念したとおり、下山は暗くてちょっと心配でした。それでも、難所は明りがあるうちに乗り越えることができ、歩きやすくなってから日が暮れたので、無事に戻れて感謝しています。
ありがとう、官ノ倉山・石尊山の山神様。あとで写真の説明を書いているときに、石尊の意味がある程度わかりました。この名、茨城県の天狗で有名な愛宕神社がある愛宕山などにもあり、どういう由来なのか気になっていたからです。いまさらですが、石尊権現、つまり、私の登山のきっかけとなった天狗に関係するものでした。石尊から導き出されるキーワード、阿夫利神、大天狗、小天狗となると、栃木の大小山のことを、懐かしく思い出します(途中でプチ遭難し、リベンジしたことなど……)。
夕方登山や台風接近登山はやってはいけないことだと自戒しますが、今回は、ある意味でとてもよい思い出や気づきがあり、結果、行って良かったということにします(自分勝手な言い訳ですが)。
●汗かきの悩み、今回も解消できず
ところで今回は、標高差も距離も短く、体力はまだ余っていますが、ある程度寒いのに、半袖で登り、戻ってみると、上半身は汗でびしょびしょで、着替えなければならないほどでした。登山では、いつもいつも汗の処理で悩みます。今回は大丈夫だろうと思い、ミレーのアミアミはなしで行ったのですが、やはり大汗をかいてしまいました。
●北向不動尊の由来
下を向いていたり薄暗いと、見落としてしまうかもしれません。道の左側になにやら立派な解説板があります。「ここが北向不動尊?」と見ても見あたりません。細長い、しかもかなり急な階段があり、見上げると、社らしきものがありました。北向きという位置関係が、どうもよく理解できません。あるブログによると、付近の磁場が歪んでいるというのがありました。北向きというなら、南を背にしていることになりますが、その背の方向は、これから登る石尊山に向いている気がします。だとしたら、その方角は西なのでは? というのが、その時にふと思ったことです。磁石で調べてはいないので、単なる私の思い違いかもしれません。
さて、その不動尊に書かれていた文面、調べてみたら、ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」に、その文言を書き写したものが掲載されていました(http://glassesmaiden.blog81.fc2.com/blog-entry-3497.html)。そこから、その文面を引用させていただきます。
『北向不動と三十六童子神社
所在地 比企郡小川町大字笠原
北向不動は笠原の里を、見おろすように北向きに建っている。
祀られている不動明王は、五大明王の一つで密教の中心的仏像であり、大日如来が悪魔を降伏させるために化身したものである。特に修験道の本尊として山伏とともに広まり、庶民の信仰の中に浸透した。
また、三十六童子については次のような伝説が残っている。
昔、笠原の里は、水利も悪く不自由な土地であったそうであり、土地の庄屋は里人から年貢を取り立てず、庄屋持ちの不動様の山の財産で立て替えていた。ところがとうとう年貢が納められなくなり、村から逃げ出そうとし村を去るにあたって何か記念を残したいと思い、居住していた三十六戸の戸数を童子にみたて、三十六童子を建立したそうである。
不動様、三十六童子、雨乞いが行われたといわれる不動の滝などがあるこの地は、里人にとって信仰のよりどころであったことがうかがえる。
昭和五十九年三月』
●「石尊」について
「石尊」とはどういう由来のものだろう? という疑問は、茨城県の愛宕山を訪れたときからです。そのときは、そういう場所があることに謎を感じながらも、「天狗との関わりだろう」くらいなものでした。さて、今回はじめて、「石尊」という名の山に登り、その名の由来が気になって調べてみました。するとウィキに「大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、不動明王を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、相模国雨降山大山寺から勧請されて全国の石尊社で祀られた。石尊大権現、大山石尊大権現ともいう」とありました。
ここから、修験道の関係と大山祇の神の関係が深いことが分かりました。しかも、この解説の「相模国雨降山大山寺」の「雨降」は「アフリ」と読むことがわかり、つまりは、阿夫利のことだとすぐに推察できました。
さて、ここに出てきた「相模国雨降山大山寺」とはなんでしょうか?
大山寺は、神奈川県伊勢原市にある真言宗の寺で、「寺格は石尊大権現の神宮寺・別当寺、本尊は鉄造不動明王」だとあり、創建は天平勝宝7年(755年)、開基は良弁、正式名が雨降山(あぶりさん)大山寺(別称:大山不動、大山不動尊)とあり、高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共にしばしば「関東の三大不動」に数えられる名刹です。
さらに「大山」の名称について「山頂に大山祇神を祀ったためとされるが、大山祇神はかつては『石尊大権現』と呼ばれていた」とあり、「10世紀前期の『延喜式』神名帳には、相模国十三座の一つとして、大山の『石尊大権現』を祀る『阿夫利神社』の記載」があるとあります。
どうも「石尊」の由来は、大山祇の神に通じ、その信仰は古代、縄文時代に遡ることが見えてきました。大山祇、阿夫利(大天狗、小天狗)、石尊権現は、縄文期まで辿れる、根の深い信仰の顕れとして伝承されたものだと理解できました。
もう一つ、伊勢原市の大山に「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」があります。御祭神として「本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る」とされますが、「ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた」とありました。さらに「摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた」と続きます。ここから「石尊権現」は,もっとも古くから伝えられた信仰対象であることが明らかになりました。
小川町の石尊山の由来は、遠く縄文の古代に及びます。近くには、穴八幡古墳(7世紀ごろ?)という大きな方墳もあり、古くから文化の拠点であったのではないでしょうか。(以上、Wikipediaから「石尊権現」「大山阿夫利神社」「大山寺 (伊勢原市)」「穴八幡古墳」を部分引用・参照))
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