街道歩き 草薙から府中宿


- GPS
- --:--
- 距離
- 11.8km
- 登り
- 61m
- 下り
- 49m
コースタイム
天候 | 晴れ、曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
感想
◆草薙神社:祭神 日本武尊 東国蝦夷平定の為吾嬬国(あづまのくに)に赴く途中原野に放たれた火を剣で草を薙ぎ払い難を切り抜けた
◆草薙球場:沢村栄治 vs ベーブ・ルース の像 日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月に開催された日米野球大会で、当時日本チームのエースで後に読売ジャイアンツの初代エースとなる沢村栄治がベーブルースを三振に打ち取るなど、アメリカ大リーグ選抜相手に8回で9奪三振無失点、失点は最終回のルー・ ゲーリックのホームランによる1失点のみと球史に残る快投を見せた場所でもあり、球場前にはその史実を伝えるべく、対峙する沢村とルースの像が建立されている
◆旧東海道記念碑:東海道線で分断され線路下の地下道となっている
◆護国神社:静岡県民の総氏神様 明治維新以来、国事に倒れた静岡県出身、縁故ある戦没軍人軍属を奉斎、爾来日清・日露、満州事変より大東亜戦争に至る殉国の御霊を逐次合祀奉斎してある
◆西宮神社:祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)大国主命の子で託宣を司る神
◆華陽院:徳川家康の祖母源応尼の菩提寺 幼い頃の家康が住職の知短上人に文筆を学んだ
*家康の祖母源応尼について・源応尼(華陽院殿)の実名は「お富の方」又は「お万の方」今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗った 竹千代(後の徳川家康)の生母である於大の方の実母で、竹千代の実の祖母 源応尼は天文20年(1551)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに住む 源応尼の親身の愛情は幼くして肉親と別れ淋しく暮らしていた竹千代の心を大いに和ませたと言われている 永禄3年(1560)5月6日、成人した家康が今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、源応尼は駿府で逝去し、知源院に埋葬された
◆西郷・山岡会見の地:1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討するために、有栖川宮熾仁親王を大総督、西郷隆盛を参謀とする東征軍(官軍)を江戸に向けて進発させた 当時、慶喜護衛のために結成された精鋭隊の頭だった旧幕臣山岡鉄舟(鉄太郎)は、慶喜から恭順の意思を新政府に伝えるよう依頼され、勝海舟の指示を受け、勝の手紙を携えて益満休之助とともに駿府にいる西郷隆盛のもとに急いだ 1868年3月9日、山岡は駿府に到着し、上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に滞在していた西郷との会談に至った ここで、西郷は慶喜助命のために7つの条件を示したという この会談は有名な3月13,14日の西郷・勝会談につながるものであり、慶喜助命、江戸城無血開城の素地をつくった
◆駿府城:築城は今川義元の時代 家康は1585年浜松城から駿府に移り築城 1590年秀吉の小田原征伐に出陣、以後江戸へ移る 1605年将軍職を秀忠に譲り隠居の地として普請する 晩年の10年を家康はここで過ごす
*巽櫓 二ノ丸東南角に設けられた三層ニ重の隅櫓。辰巳の方角に位置する
*東御門 桝形門 石落し、鉄砲狭間、矢狭間等をもつ堅固な守りの実践的な門
◆静岡浅間神社:国需要文化財
神部神社、浅間神社、大歳御祖神社 の3社を総称して静岡浅間神社(おせんげんさま)
*神部神社(かんべじんじゃ) 駿河国総社 延命長寿・縁結び・除災招福
*浅間神社(あさまじんじゃ) 冨士新宮 安産・子授け・婦徳円満
*大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ) 奈吾屋大明神 農・漁・工・商業等 諸産業繁栄
*麓山神社(はやまじんじゃ)
*八千戈神社(やちほこじんじゃ) スポーツ・武道・開運
*少彦名神社(すくなひこなじんじゃ) 医薬・技芸上達・智恵の神
*玉鉾神社(たまほこじんじゃ) 受験・学問
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