記録ID: 2908947
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
大文字山の百人一首で白峯神宮〜京都御所を歩く。
2021年02月09日(火) [日帰り]


体力度
4
1泊以上が適当
- GPS
- 24:42
- 距離
- 41.0km
- 登り
- 2,515m
- 下り
- 2,484m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:16
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 1:16
8:06
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2021年02月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
白峯神宮
「自峯神宮」の祭神は、百人一首歌人崇徳院である。「保元の乱」で弟後自河院との皇位継承争いに敗れ、讃岐に流され悲憤のうちに崩じた崇徳院の霊を慰めるべく、孝明天皇の意志を継いだ明治天皇が、四国坂出市の白峯陵よりその霊を勧請して建立されたもの。この地は、代々和歌と蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の邸宅跡で、百人一首歌人藤原雅経は祖父よりこの二道を学び
宗家の基を作った。昨今はこの蹴鞠にあやかってサッカー等球技を楽しむ人たちの崇拝するところとして有名になっているが、元は百人一首ならではのゆかりを持つ神宮である。
「自峯神宮」の祭神は、百人一首歌人崇徳院である。「保元の乱」で弟後自河院との皇位継承争いに敗れ、讃岐に流され悲憤のうちに崩じた崇徳院の霊を慰めるべく、孝明天皇の意志を継いだ明治天皇が、四国坂出市の白峯陵よりその霊を勧請して建立されたもの。この地は、代々和歌と蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の邸宅跡で、百人一首歌人藤原雅経は祖父よりこの二道を学び
宗家の基を作った。昨今はこの蹴鞠にあやかってサッカー等球技を楽しむ人たちの崇拝するところとして有名になっているが、元は百人一首ならではのゆかりを持つ神宮である。
右大将道綱母旧居址
道綱母の著作「蜻蛉日記」が書かれたところとする。それによると、兼家と結婚した十九歳の頃に父は陸奥守として任国に下って、悲嘆に暮れたことや、同居の姉が転居したり、兼家の来訪も途絶えがちで、道綱を相手に寂しく過ごしたりしている。
道綱母の著作「蜻蛉日記」が書かれたところとする。それによると、兼家と結婚した十九歳の頃に父は陸奥守として任国に下って、悲嘆に暮れたことや、同居の姉が転居したり、兼家の来訪も途絶えがちで、道綱を相手に寂しく過ごしたりしている。
宮中歌合せで、小野小町が自分の歌を六歌仙の一人、大友黒主から「万葉集」の盗作と言われ、証拠の草子を突き付けられた。よく見るとその文字に疑義ありと感じた小町は、その草子を水洗いしたところ、書かれた文字はたちどころに流れ落ち、後で書き加えられたものと解かり、身の潔白を明かしたというもの。当地はこの草子を洗った地、井戸水のあったところと伝えられている。
批把殿跡は、貞信公藤原忠平の兄仲平が、父基経から伝領した邸跡で後に道長の邸となり、=一条天皇の中宮となった道長の次女妖子の里内裏となったところ。この邸は三条天皇が道長より譲位を強要され、後一条天皇に皇位を譲ったところでもあった。
自雲神社は平安末期百人一首歌人西園寺公経が、北山第(現在の金閣寺)を建立した時、もともと琵琶の宗家であったため、信奉していた妙音弁財天を祀っていた。それを1769年この地に移したもの。
菅原道真公生誕の地とされる。祖父清公、父是善が住居とした地といわれ、室町通東、烏丸通西、下立売通南、春日通北に囲まれており、現在、地所は狭まっているが、産湯の井戸や遺愛の石燈籠なども伝えている。
道真公誕生の地として、下京区の菅大臣神社、南区の吉祥院天満宮などもあるが定かではない。
道真公誕生の地として、下京区の菅大臣神社、南区の吉祥院天満宮などもあるが定かではない。
感想
朝のウォーキング・・・。
百人一首歌人のゆかりの地を歩く。
土御門内裏跡が見つからなかった(-_-;)
該当する場所にはマンションがある。
なくなったのかなぁ(-_-;)
今朝は冷え込んで寒い。
うっすらと雪。
堀川には河津桜が咲いていました。
ブログは
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/b4b522921eb7a1dcf65470fc3d9d8e1d
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:484人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する