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Yamareco

記録ID: 3064418 全員に公開 無雪期ピークハント/縦走 東海

浜石岳(興津駅から由比駅へ周回)

情報量の目安: A
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日程 2021年04月10日(土) [日帰り]
メンバー , その他メンバー1人
天候晴れ
アクセス
利用交通機関
電車車・バイク

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GPS
07:08
距離
14.9 km
登り
909 m
下り
897 m

地図/標高グラフ


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コースタイム [注]

日帰り
山行
6時間25分
休憩
43分
合計
7時間8分
Sスタート地点07:3508:03さった峠登山口08:0408:24薩埵峠(さった峠)展望台08:29薩埵峠10:42立花分岐11:22但沼分岐11:2311:54野外活動センター・薩埵峠分岐12:14浜石岳12:4913:01野外活動センター・薩埵峠分岐13:0213:19浜石野外センター13:2113:30三本松登山口駐車場13:41三本松道分岐14:15休憩所(由比西山寺)14:1614:31曙大橋14:3214:42由比漁港14:4314:43ゴール地点G
コースタイムの見方:
歩行時間
到着時刻通過点の地名出発時刻
過去天気図(気象庁) 2021年04月の天気図 [pdf]

写真

10日、直売所は営業していましたが生桜えびの水揚げはありませんでした。「浜のかきあげや」再開したら行きたいです
2021年04月10日 06:56撮影 by SO-02G, Sony
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10日、直売所は営業していましたが生桜えびの水揚げはありませんでした。「浜のかきあげや」再開したら行きたいです
稚魚が泳いでるのが見えました
2021年04月10日 06:58撮影 by SO-02G, Sony
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稚魚が泳いでるのが見えました
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由比駅 由比にいなば食品の静岡本社があるらしい。海の幸、好物ばっかり
2021年04月10日 07:14撮影 by SO-02G, Sony
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由比駅 由比にいなば食品の静岡本社があるらしい。海の幸、好物ばっかり
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海岸寺百体観世音
2021年04月10日 07:57撮影 by SO-02G, Sony
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海岸寺百体観世音
観応の擾乱の時尊氏は長引く薩埵山の合戦の合間に此の地に舞台を設け愛妾の萬城姫(京の白拍子)が舞を舞い軍属兵士の慰労の宴を開いたとされる。村人は此の地を舞台と名づけた。なお尊氏は厳しい戦況のため姫をこの土地の名主に預け直義軍を追って東征する。その後姫はこの地に永住することとなる。また萬城姫の舞を「萬城の舞」ともいい「マンジョウマエ」(萬千代前)の地名も近くに残っている(水土里の会)
2021年04月10日 08:00撮影 by SO-02G, Sony
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観応の擾乱の時尊氏は長引く薩埵山の合戦の合間に此の地に舞台を設け愛妾の萬城姫(京の白拍子)が舞を舞い軍属兵士の慰労の宴を開いたとされる。村人は此の地を舞台と名づけた。なお尊氏は厳しい戦況のため姫をこの土地の名主に預け直義軍を追って東征する。その後姫はこの地に永住することとなる。また萬城姫の舞を「萬城の舞」ともいい「マンジョウマエ」(萬千代前)の地名も近くに残っている(水土里の会)
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観応元年兄尊氏と弟直義の足利幕府は兄弟対決により全国的な争乱となった観応の擾乱である。尊氏軍三千騎は磐城山に布陣し直義軍一万騎は富士川河原に陣取り薩埵山周辺では幾重もの合戦が起こった。尊氏軍がこの地に本陣を張ったため後の人達がこの地を「殿ノ入」をいい訛ってその後「トンノリ」が通用していた。
2021年04月10日 08:02撮影 by SO-02G, Sony
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観応元年兄尊氏と弟直義の足利幕府は兄弟対決により全国的な争乱となった観応の擾乱である。尊氏軍三千騎は磐城山に布陣し直義軍一万騎は富士川河原に陣取り薩埵山周辺では幾重もの合戦が起こった。尊氏軍がこの地に本陣を張ったため後の人達がこの地を「殿ノ入」をいい訛ってその後「トンノリ」が通用していた。
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『薩埵峠ハイキングコース』案内板。
「薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、
近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。
山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と呼びかえられたと伝えられています。
薩埵越えは、東の箱根峠越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩埵峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)朝鮮通信使のために
山腹を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。」
2021年04月10日 08:04撮影 by SO-02G, Sony
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『薩埵峠ハイキングコース』案内板。
「薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、
近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。
山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と呼びかえられたと伝えられています。
薩埵越えは、東の箱根峠越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩埵峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)朝鮮通信使のために
山腹を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。」
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『薩埵峠歴史』(右)
「鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられたさった地蔵をこの山上に
お祀りしたので、それ以後さった山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)ここに道が開かれたのは
1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を
波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、
そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、
安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。」
『薩埵山の合戦』左
「薩埵山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。
「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。 
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って
敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が
三ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。」
2021年04月10日 08:12撮影 by SO-02G, Sony
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『薩埵峠歴史』(右)
「鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられたさった地蔵をこの山上に
お祀りしたので、それ以後さった山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)ここに道が開かれたのは
1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を
波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、
そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、
安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。」
『薩埵山の合戦』左
「薩埵山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。
「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。 
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って
敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が
三ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。」
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「さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、
箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない
慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通は
ずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、
中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は
峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。」

『風光明媚な絶景の地』
「その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。
万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
『田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり』   
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、
小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った
狂歌がさった峠の名を有名にしました。
『山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ』 」
2021年04月10日 08:18撮影 by SO-02G, Sony
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「さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、
箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない
慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通は
ずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、
中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は
峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。」

『風光明媚な絶景の地』
「その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。
万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
『田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり』   
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、
小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った
狂歌がさった峠の名を有名にしました。
『山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ』 」
『由比地すべり対策事業』説明ボードより
清水区由比西倉沢において、年超過確率1/100規模の豪雨や地震に伴い発生する地すべりから、
住民の生命や財産、及び日本の 大動脈である国道1号・東名高速道路・JR東海道本線の
重要交通網の被害を防止するのが目的であるそうです
2021年04月10日 08:22撮影 by SO-02G, Sony
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『由比地すべり対策事業』説明ボードより
清水区由比西倉沢において、年超過確率1/100規模の豪雨や地震に伴い発生する地すべりから、
住民の生命や財産、及び日本の 大動脈である国道1号・東名高速道路・JR東海道本線の
重要交通網の被害を防止するのが目的であるそうです

感想/記録
by yukko

浜石岳(興津駅から由比駅へ周回)
密を避けて朝早くの空いてる電車に乗りました。
乗ってる時に一駅が長くて「こんなに歩くの?!」とビビりました。
KenGさんがベストペースを作ってくださり今回も完歩できました。
風が冷たくて寒かったけどお天気良くて最高でした♪
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