新潟焼山 慰霊登山

天候 | 雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年09月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
14年間気になっていた 焼山へやっと行くことができました。この山へ行くきっかけとなった大学の会報に掲載されていた I氏の文章をまず紹介したいと思います。
「32年間思い続けた金山に登る」
長年、気になる山があった。いつかは登りたいと思いつつ30余年が経ってしまった。そこは長野と新潟の県境で、妙高、火打、焼山の西方にある金山(かなやま・2245m)。
昭和49年7月28日未明に焼山(2400m)が突然、噴火した。前日に山頂付近でテントを張った、1学年下の3名が巻き添えとなる。このうちの1人とは何回か山に行った。
焼山からはもくもくと噴煙があがり、周りの樹林は火山灰で白くなっていた。ヘリが近づけないため、人力で遺体を下ろすことになった。私は途中から加わった。毛布に包まれた遺体を手作りの担架に乗せて沢沿いに下るが登山道が狭くて難儀した。それに、死後1週間が経ち、死臭が体に染みついた。
ふと見上げると、きれいな緑の稜線が目に焼き付いた。地図で確認すると、天狗原山から金山の稜線あたりか。焼山とは対照的に穏やかな稜線が印象に残った。
林道下の川原で3名を囲んで検視が始まった。毛布を取ると想像を絶する姿にショックを覚えた。・・・・ そんな変わり果てた息子を抱く母親の姿に胸が詰まった。
事故以来、焼山は入山禁止が続いている。その後、積雪期に周辺の山から焼山を見ると、相変わらず煙が上がり、地肌が露出して黒々としていた。対照的に、金山あたりは真っ白な稜線で、ますます魅力的な存在となった。
昨年(平成18年)8月に念願の金山に登った。樹林帯を抜けて天狗原山に近づくと、シナノキンバイやミヤマキンポウゲの咲く明るい草原に変わる。金山の手前の湿原には、雪解けのところからハクサンコザクラの群落が花盛りだった。彼らのメモによると、亡くなる前日に金山に登っている。植物好きの彼らのこと、きっと同じ場所で花に感動したものと想像する。間近に焼山が見え。黒々とした印象とは異なり、山肌が緑で覆われている。噴煙も見られず、なんと穏やかな山になったことか。担架で降ろした沢と、その先の検視場所まで見渡せる。あの時見上げた稜線に32年経って来ることができた。
遭難から数年後に、周辺の山から撮った焼山の写真を静岡の御実家に送り、丁重なお礼の手紙を頂いた。
彼のお母さんはご健在だろうか。 ( I氏 記 )
以下は私とのかかわりです。
今から47年前のこの年に大学に入学しましたので当時のことはよく覚えています。この日は私は渓流釣り部の夏合宿で早池峰山の閉伊川へ行ってたので噴火のことは知らず、実家へ帰省して初めて知りました。3名の先輩方とは直接の面識はありませんでしたが、新入生歓迎会で同じ場所にいたのではないかと思います。
そしてI氏の文章を読んで14年目にしてこの山域へ登ることができました。
(行動記録)
9月25日の夜11時頃 金山登山口に着き車中泊をするが、夜中から雨が降り出し3回ほど雷鳴も轟いた。4時半に目覚ましで起きると雷はおさまったようだが雨は降っている。明るくなるまで様子を見ようとウトウトとする。明るくなってきても雨はやまないので食事をしてコーヒーを飲みながらどうしようかと思案する。雨が少し小降りになってきたので登山道の様子を見に行く。草が刈りこまれて整備された道だし少し雲が薄くなってきたようなので登ろうかという気になった。合羽を着て出発する。
初めはブナの巨木の森を折り返しながら登って行く。途中から右側が切れ落ちたやせ尾根をのぼるが雨と霧で何も見えないが、下山時には霧が薄れて妙高から戸隠のあたりの眺望がいい場所のようだった。
急坂を登ったところが天狗原山。傾斜の緩やかな頂上部は低木とお花畑の庭園のような趣。それが金山まで広がっている。そして右前方に山頂部がごつごつとした焼山。
樹林帯から草原へ出ると雨と風でかなり寒い。靴の中は水浸しだし手がかじかんでしまった。金山の頂上で先輩方に挨拶をして 花を供えて 折り返すことにした。
下山しながら考えた。
雨で登山を中止しようと思っていた時に雨が止んだこと。でも登り始めると雨が降り出しほぼずっと雨。これで誰も登山者がこない状態になった。雨と霧で周りの景色も見えないし紅葉も鮮やかには見せてくれなかった。でも頂上の庭園の素晴らしさは想像できた。
『また遊びに来なさい』 という先輩方の意思かなと思った次第でした。
違う時期にも是非とも訪れたいと思いました。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する