日永追分:東海道と分岐。伊勢参宮道。伊勢湾に沿って南下して伊勢神宮へ至る。距離約十八里。幕府により脇街道として整備。
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日永追分:東海道と分岐。伊勢参宮道。伊勢湾に沿って南下して伊勢神宮へ至る。距離約十八里。幕府により脇街道として整備。
伊勢信仰の広がり。庶民参宮の一般化。江戸期には年間数十万人〜百万規模の旅人。御師の全国的布教活動・伊勢講の組織化。本参り、抜け参り。おかげ参り。
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伊勢信仰の広がり。庶民参宮の一般化。江戸期には年間数十万人〜百万規模の旅人。御師の全国的布教活動・伊勢講の組織化。本参り、抜け参り。おかげ参り。
追分南東の大治田(おばた)の密蔵院関係道標四基と地蔵。江戸期は小村だが、高寺(たかでら)、神明社・山ノ神など社寺残る。東の川尻集落にも寺社多い。
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追分南東の大治田(おばた)の密蔵院関係道標四基と地蔵。江戸期は小村だが、高寺(たかでら)、神明社・山ノ神など社寺残る。東の川尻集落にも寺社多い。
大治田。密蔵院の別名・かに薬師。往古は寺の東まで伊勢湾海浜。不思議な蟹と堂宇と薬師如来像の伝説が伝わる。
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大治田。密蔵院の別名・かに薬師。往古は寺の東まで伊勢湾海浜。不思議な蟹と堂宇と薬師如来像の伝説が伝わる。
河原田集落口。内部川支流の小川に又兵衛橋。味わいのある親柱。石橋は村の自慢だったらしい。
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河原田集落口。内部川支流の小川に又兵衛橋。味わいのある親柱。石橋は村の自慢だったらしい。
河原田道標を右折。丘陵手前に常夜灯(1843)と庚申・役行者・山ノ神。内部川袂より当地移築。西に丘越えで東海道・采女集落。(采女道)
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河原田道標を右折。丘陵手前に常夜灯(1843)と庚申・役行者・山ノ神。内部川袂より当地移築。西に丘越えで東海道・采女集落。(采女道)
河原田道距離標。左折すれば内堀・小倉集落や伊勢湾沿の磯津漁港や楠集落に。神宮公認の伊勢湾本警固5ヶ所の一つ。海上中継要衝。内部川と鈴鹿川が交わり、漁業と農耕に恵まれたデルタ地帯。
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河原田道距離標。左折すれば内堀・小倉集落や伊勢湾沿の磯津漁港や楠集落に。神宮公認の伊勢湾本警固5ヶ所の一つ。海上中継要衝。内部川と鈴鹿川が交わり、漁業と農耕に恵まれたデルタ地帯。
河原田小学校・南西角空地は参宮道一里塚跡。丘陵上に河原田神社。「忘歸處」。付近で弥生後期住居遺跡発掘。「三神山」丘陵では「河原田みかん」栽培。
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河原田小学校・南西角空地は参宮道一里塚跡。丘陵上に河原田神社。「忘歸處」。付近で弥生後期住居遺跡発掘。「三神山」丘陵では「河原田みかん」栽培。
河原田神社堤防下に自然石の庚申塔8基や山ノ神4基群が並ぶ。103号線(四日市鈴鹿線)と交差。右手に丸い山(高岡城址)が明確に。麓に大福田寺や高岡神社。
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河原田神社堤防下に自然石の庚申塔8基や山ノ神4基群が並ぶ。103号線(四日市鈴鹿線)と交差。右手に丸い山(高岡城址)が明確に。麓に大福田寺や高岡神社。
昔は高岡橋北詰にあった北の常夜灯(1799)。暴れ川・鈴鹿川はこの東で本流と分流に分岐。三角州には「楠」の町が捕鯨などで繁栄、14世紀には楠城築城、江戸期は桑名藩領で伝統文化生きる。
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昔は高岡橋北詰にあった北の常夜灯(1799)。暴れ川・鈴鹿川はこの東で本流と分流に分岐。三角州には「楠」の町が捕鯨などで繁栄、14世紀には楠城築城、江戸期は桑名藩領で伝統文化生きる。
高岡城址と鈴鹿川。築城年代不明だが、神戸(かんべ)城主・神戸友盛の家老・山路弾正が修復利用。神戸の町と鈴鹿川を見下ろす要衝。信長伊勢攻略では1567年と68年に滝川一益の攻撃を受けたが、落城せず。
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高岡城址と鈴鹿川。築城年代不明だが、神戸(かんべ)城主・神戸友盛の家老・山路弾正が修復利用。神戸の町と鈴鹿川を見下ろす要衝。信長伊勢攻略では1567年と68年に滝川一益の攻撃を受けたが、落城せず。
高岡:鈴鹿川右岸堤防。集落北堤防には印象的な古民家。西に進むと壬申の乱隊列通過の河曲。古代豪族・大鹿氏古墳や伊勢国分寺も近い。東の池田町には大鹿三宅神社や都波岐神社・奈加等神社・長太漁港など。
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高岡:鈴鹿川右岸堤防。集落北堤防には印象的な古民家。西に進むと壬申の乱隊列通過の河曲。古代豪族・大鹿氏古墳や伊勢国分寺も近い。東の池田町には大鹿三宅神社や都波岐神社・奈加等神社・長太漁港など。
南詰常夜灯(1807)。戦況不利の神戸家は信長三男・信孝を養子受諾。神戸友盛に隠居命令。弾正は乗っ取られた神戸城討伐謀叛を試みるが失敗・自刃。信孝異母兄弟・小島氏が高岡城主。本能寺後は小島氏が神戸城へ移動、高岡城廃城。
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南詰常夜灯(1807)。戦況不利の神戸家は信長三男・信孝を養子受諾。神戸友盛に隠居命令。弾正は乗っ取られた神戸城討伐謀叛を試みるが失敗・自刃。信孝異母兄弟・小島氏が高岡城主。本能寺後は小島氏が神戸城へ移動、高岡城廃城。
十宮(とみや):高岡集落を南に抜け古代条里制を示す田園が広がる。十の古墳に由来地名。鈴鹿川から伊勢湾には弥生期の環濠集落跡や古代遺跡が点在。往時の北勢文化中心地だった可能性。
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十宮(とみや):高岡集落を南に抜け古代条里制を示す田園が広がる。十の古墳に由来地名。鈴鹿川から伊勢湾には弥生期の環濠集落跡や古代遺跡が点在。往時の北勢文化中心地だった可能性。
幼稚園横の三軒屋入口の常夜灯(1817)を過ぎ「神戸見附」。旅人監視の番所。夜間は木戸を閉じ治安維持。石垣・土塁。阿自賀神社への誘導石柱あり。
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幼稚園横の三軒屋入口の常夜灯(1817)を過ぎ「神戸見附」。旅人監視の番所。夜間は木戸を閉じ治安維持。石垣・土塁。阿自賀神社への誘導石柱あり。
神戸に入り旧旅籠、商家に付随する連子格子や二階手摺。江戸文化の雰囲気が漂うが人はいない。
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神戸に入り旧旅籠、商家に付随する連子格子や二階手摺。江戸文化の雰囲気が漂うが人はいない。
東に森の阿自賀神社。本殿は4世紀頃の古墳丘に上に建つ。鎌倉期以前の創祠?本殿横には山ノ神などが異様に並ぶ。同名神社が神戸・安塚にもある。
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東に森の阿自賀神社。本殿は4世紀頃の古墳丘に上に建つ。鎌倉期以前の創祠?本殿横には山ノ神などが異様に並ぶ。同名神社が神戸・安塚にもある。
六郷川大橋親柱。この北が旧常磐町。橋を渡ると十日市町。14C中期、北勢豪族・関盛政が「亀山(東海道)・神戸(参宮道)・峰(巡見道)・鹿伏兎(大和街道)・国府」に5人の息子配置。長男盛澄は神戸祖として「澤城」を築城。
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六郷川大橋親柱。この北が旧常磐町。橋を渡ると十日市町。14C中期、北勢豪族・関盛政が「亀山(東海道)・神戸(参宮道)・峰(巡見道)・鹿伏兎(大和街道)・国府」に5人の息子配置。長男盛澄は神戸祖として「澤城」を築城。
札の辻・高札場:黒塀の「油井」旅館の角。伊勢国司・北畠氏よりの養子4代目が16C中期に神戸城を築き勢力誇る。7代目神戸氏は織田伊勢侵攻で信孝に城を奪われた。本能寺の変後は、信孝も秀吉に追われ野間で自害。
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札の辻・高札場:黒塀の「油井」旅館の角。伊勢国司・北畠氏よりの養子4代目が16C中期に神戸城を築き勢力誇る。7代目神戸氏は織田伊勢侵攻で信孝に城を奪われた。本能寺の変後は、信孝も秀吉に追われ野間で自害。
油井旅館前の道路元標距離標。ここに1689年の道標があったが、今は南の観音寺庭に保存。神戸城は関ヶ原後は美濃の一柳直盛監物が入る。江戸期は亀山藩の石川氏や本多忠統直系が明治まで居城した。
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油井旅館前の道路元標距離標。ここに1689年の道標があったが、今は南の観音寺庭に保存。神戸城は関ヶ原後は美濃の一柳直盛監物が入る。江戸期は亀山藩の石川氏や本多忠統直系が明治まで居城した。
鈴鹿駅前の寿橋や33銀行隣に宝珠山地蔵院。十返舎一九「東海道中膝栗毛=安穏に火よけ地蔵の守るらん、夏のあつさも冬の神戸も」江戸中期に神戸で大火発生。地蔵院周辺は焼けず。本陣等はこの南の旧十日市町にあったが今は何もない。
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鈴鹿駅前の寿橋や33銀行隣に宝珠山地蔵院。十返舎一九「東海道中膝栗毛=安穏に火よけ地蔵の守るらん、夏のあつさも冬の神戸も」江戸中期に神戸で大火発生。地蔵院周辺は焼けず。本陣等はこの南の旧十日市町にあったが今は何もない。
観音寺。前述の1689年の道標。「右 京みち」「左 参宮かいどう」 江戸期の神戸藩主本多家菩提寺。開創は鎌倉期。1320年銘「光明真言板碑」 山門「補陀落山」の額。軒瓦に「本多葵」紋章残る。
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観音寺。前述の1689年の道標。「右 京みち」「左 参宮かいどう」 江戸期の神戸藩主本多家菩提寺。開創は鎌倉期。1320年銘「光明真言板碑」 山門「補陀落山」の額。軒瓦に「本多葵」紋章残る。
龍光寺。称光天皇勅願寺。伊勢国司・北畠実重が普請奉行建立。寝釈迦祭。「坐忘亭」は熊本・細川家お家取り潰し事件を防いだ神戸城主・本多忠統が贈られた東屋風書院で、芥川龍之介短編「忠義」に描かれる。
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龍光寺。称光天皇勅願寺。伊勢国司・北畠実重が普請奉行建立。寝釈迦祭。「坐忘亭」は熊本・細川家お家取り潰し事件を防いだ神戸城主・本多忠統が贈られた東屋風書院で、芥川龍之介短編「忠義」に描かれる。
神戸城。本丸石垣は野面積み。神戸(織田)信孝が五重六階で金箔瓦を用いた天守閣構築。天守は1595年解体。桑名城で三重櫓として移築。神戸櫓と命名された。付近に願行寺、神戸別院、萬福寺など寺社多い。
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神戸城。本丸石垣は野面積み。神戸(織田)信孝が五重六階で金箔瓦を用いた天守閣構築。天守は1595年解体。桑名城で三重櫓として移築。神戸櫓と命名された。付近に願行寺、神戸別院、萬福寺など寺社多い。
魚次鮮魚店前の曲り角。「立石餅」という一種のなが餅がこの付近で売られていたが、店は新築住宅となったよう。桑名や四日市にも同様のなが餅が存在。
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魚次鮮魚店前の曲り角。「立石餅」という一種のなが餅がこの付近で売られていたが、店は新築住宅となったよう。桑名や四日市にも同様のなが餅が存在。
浄願寺には立派な幹、枝振りの松が元気な姿を見せる。
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浄願寺には立派な幹、枝振りの松が元気な姿を見せる。
善昌寺に向かって南に入ると地子町子供公園。移設の道標1699年がある。「右 いなふ(稲生)道 左 志ろこ(白子)道」殆ど判読できない状態。
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善昌寺に向かって南に入ると地子町子供公園。移設の道標1699年がある。「右 いなふ(稲生)道 左 志ろこ(白子)道」殆ど判読できない状態。
地子町子供公園に移設の山神と国土安穏碑。この場所は旧熊野権現跡地らしい。他に常夜燈など。
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地子町子供公園に移設の山神と国土安穏碑。この場所は旧熊野権現跡地らしい。他に常夜燈など。
さいわい(幸)橋と巨大な常夜燈。大きさは大きいが築造は昭和5年。暫く進み矢椅神社には山ノ神が2基。少し進むと南(右手)に大日如来の誘導道標1851。南を見ると道路の向こうに小さな森があり大日堂跡。
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さいわい(幸)橋と巨大な常夜燈。大きさは大きいが築造は昭和5年。暫く進み矢椅神社には山ノ神が2基。少し進むと南(右手)に大日如来の誘導道標1851。南を見ると道路の向こうに小さな森があり大日堂跡。
肥田町入口。伊勢鉄道を潜り553号を渡り、左手に山ノ神。ここから玉垣集落に向かって街道は南下。
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肥田町入口。伊勢鉄道を潜り553号を渡り、左手に山ノ神。ここから玉垣集落に向かって街道は南下。
滝谷山不動院に入る口に古く美しい黒板塀が続く邸宅があったが・・・。不動院の方も全く新しく改築。仏像群も真新しい。
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滝谷山不動院に入る口に古く美しい黒板塀が続く邸宅があったが・・・。不動院の方も全く新しく改築。仏像群も真新しい。
右に緩やかにカーブするT字路に道標「若松 柳」伊勢若松集落へ向かう分岐。集落には近鉄線伊勢若松駅があり、神戸への鈴鹿線と名古屋本線の分岐。T字路前には豆腐屋がありその隣に山ノ神と鳥居。
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右に緩やかにカーブするT字路に道標「若松 柳」伊勢若松集落へ向かう分岐。集落には近鉄線伊勢若松駅があり、神戸への鈴鹿線と名古屋本線の分岐。T字路前には豆腐屋がありその隣に山ノ神と鳥居。
北玉垣集落。23号線のアンダーパスを通過。右に天白神社。大きな自然石の山神。表忠碑や鳥居なども。左に玉垣小学校を見て進むと大きな鍵の手となり正進寺の大屋根。
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北玉垣集落。23号線のアンダーパスを通過。右に天白神社。大きな自然石の山神。表忠碑や鳥居なども。左に玉垣小学校を見て進むと大きな鍵の手となり正進寺の大屋根。
西玉垣:正進寺前は大きな鍵の手で突き当たりの寺への小路右に自然石の道標1807。「右 さんぐう」。寺の彫刻や鬼瓦は見事。そして南前に巨大な大楠が聳える。
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西玉垣:正進寺前は大きな鍵の手で突き当たりの寺への小路右に自然石の道標1807。「右 さんぐう」。寺の彫刻や鬼瓦は見事。そして南前に巨大な大楠が聳える。
23号の西玉垣交差点。交叉点を越え西へ暫く歩くと「地蔵大松」と呼ばれる巨大松。赤と黒の合体松で珍しい。古代の蘇我と物部の仏教を巡る争いと地蔵信仰と深く関連。幹太7m、枝張32m、高20m。これは本当に立派。
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23号の西玉垣交差点。交叉点を越え西へ暫く歩くと「地蔵大松」と呼ばれる巨大松。赤と黒の合体松で珍しい。古代の蘇我と物部の仏教を巡る争いと地蔵信仰と深く関連。幹太7m、枝張32m、高20m。これは本当に立派。
もう一度交叉点に戻ると直角に東折れする街道に指差道標1865が建つ。「左 さんぐう」。中折れしつつあり、交通も激しい所なので保存に一考を。
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もう一度交叉点に戻ると直角に東折れする街道に指差道標1865が建つ。「左 さんぐう」。中折れしつつあり、交通も激しい所なので保存に一考を。
玉垣は瑞垣(みずがき)と同意。神社周囲に巡らされる垣。彌都加伎(みずがき)神社に由来?歴史は905年まで遡り延喜式内社。主神は大土御祖神。美しい花手水鉢で有名。少し南下すると神社への導入道標1819がある。
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玉垣は瑞垣(みずがき)と同意。神社周囲に巡らされる垣。彌都加伎(みずがき)神社に由来?歴史は905年まで遡り延喜式内社。主神は大土御祖神。美しい花手水鉢で有名。少し南下すると神社への導入道標1819がある。
フジクラ工場敷地、菅原社石標を左に見て、新興住宅団地内通過。「今昔マップ」で見ると江戸期はこの辺りは何もない丘陵だった。近鉄名古屋線を渡ると「北の端地蔵堂(六體地蔵菩薩)」東前には役行者祠。
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フジクラ工場敷地、菅原社石標を左に見て、新興住宅団地内通過。「今昔マップ」で見ると江戸期はこの辺りは何もない丘陵だった。近鉄名古屋線を渡ると「北の端地蔵堂(六體地蔵菩薩)」東前には役行者祠。
江島集落北端:六體地蔵菩薩。風化しているが地蔵は八百年前の鎌倉期のもの。石像下部の周囲に六体の菩薩を彫刻。五欲(財・色・飲食・名・睡眠)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)地蔵盆時は賑やか。
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江島集落北端:六體地蔵菩薩。風化しているが地蔵は八百年前の鎌倉期のもの。石像下部の周囲に六体の菩薩を彫刻。五欲(財・色・飲食・名・睡眠)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)地蔵盆時は賑やか。
江島本町北の鍵の手から左折。江島若宮八幡と松林群。北半分が江島村、南半分が白子村。合わせ10軒前後旅籠あり。宿駅は江島村と共同運営。人馬取扱は月前半を白子村が、後半を江島村が担当した。
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江島本町北の鍵の手から左折。江島若宮八幡と松林群。北半分が江島村、南半分が白子村。合わせ10軒前後旅籠あり。宿駅は江島村と共同運営。人馬取扱は月前半を白子村が、後半を江島村が担当した。
平安期より「白子浜」の名。応仁の乱で足利義視が北畠教具と共に湊着。1619年津藩から紀州藩に。紀州藩は交通要衝で白子港重視。代官所設立。伊勢商人も物流拠点重視。白子出港の千石船は紀州徳川家旗印を掲げ江戸に入港が許可。若宮神社には70近い廻船絵馬奉納。
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平安期より「白子浜」の名。応仁の乱で足利義視が北畠教具と共に湊着。1619年津藩から紀州藩に。紀州藩は交通要衝で白子港重視。代官所設立。伊勢商人も物流拠点重視。白子出港の千石船は紀州徳川家旗印を掲げ江戸に入港が許可。若宮神社には70近い廻船絵馬奉納。
参道入口「江戸両組」大常夜燈1820年。「江戸両組」は、伊勢から江戸に出店し大店となった「伊勢商人」大伝馬町組と江戸白子組を指す。白子と江戸との廻船業発達と伴に、廻船業者の海上守護神への信仰が深まった。
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参道入口「江戸両組」大常夜燈1820年。「江戸両組」は、伊勢から江戸に出店し大店となった「伊勢商人」大伝馬町組と江戸白子組を指す。白子と江戸との廻船業発達と伴に、廻船業者の海上守護神への信仰が深まった。
江島本町。左の清水看板辺り江島陣屋跡。右が紀州藩旗本領地説明。小笠原胤次。江戸中期紀州藩士で幕府旗本。紀州藩主・吉宗が8代将軍就任に伴い江戸に。幕臣御側御用取次。江島や河曲二千五百石拝領。
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江島本町。左の清水看板辺り江島陣屋跡。右が紀州藩旗本領地説明。小笠原胤次。江戸中期紀州藩士で幕府旗本。紀州藩主・吉宗が8代将軍就任に伴い江戸に。幕臣御側御用取次。江島や河曲二千五百石拝領。
白子本町。青龍寺。徳川吉宗作「紅梅白梅図」紀州藩領として吉宗との繋がり。第11次朝鮮通信使など貴重な文化財。積荷廻船問屋墓や能書家久住五左衛門三疑の筆塚も。街道東の雲心院は小笠原氏菩提寺。
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白子本町。青龍寺。徳川吉宗作「紅梅白梅図」紀州藩領として吉宗との繋がり。第11次朝鮮通信使など貴重な文化財。積荷廻船問屋墓や能書家久住五左衛門三疑の筆塚も。街道東の雲心院は小笠原氏菩提寺。
青龍寺の南の路地。「大宝殿跡」別名、江島の弁財天堂、御厨。8世紀初頭創設。空海の修道地830年頃。「弘法大師の手形」。空海が護摩修行で出た灰を固めたもの?現在は青龍寺所有。
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青龍寺の南の路地。「大宝殿跡」別名、江島の弁財天堂、御厨。8世紀初頭創設。空海の修道地830年頃。「弘法大師の手形」。空海が護摩修行で出た灰を固めたもの?現在は青龍寺所有。
伊達油屋。当主・代々忠兵衛。干鰯(ほしか)等で豪商に。江戸末期には小笠原藩財政を担う「賄い方」。明治に問屋衰退。小笠原藩への用立金は消えるが商売続行。
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伊達油屋。当主・代々忠兵衛。干鰯(ほしか)等で豪商に。江戸末期には小笠原藩財政を担う「賄い方」。明治に問屋衰退。小笠原藩への用立金は消えるが商売続行。
白子本町郵便局横の大きな鍵の手。この付近が高札場跡、旧河芸郡役所跡。東に一区画で白子漁港。丸上屋酒店付近、久住五左衛門三疑宅跡。書家で廻船問屋として活躍。
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白子本町郵便局横の大きな鍵の手。この付近が高札場跡、旧河芸郡役所跡。東に一区画で白子漁港。丸上屋酒店付近、久住五左衛門三疑宅跡。書家で廻船問屋として活躍。
白子漁港:本能寺の変後の家康伊賀越え道。堺〜宇治田原〜甲賀〜伊賀柘植〜加太〜関〜(長太〜白子?)〜三河大浜港〜岡崎?伊勢商人・角屋七郎次郎秀持の援助?白子漁師大黒屋光太夫。ロシアに漂流10年滞在、帰国。
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白子漁港:本能寺の変後の家康伊賀越え道。堺〜宇治田原〜甲賀〜伊賀柘植〜加太〜関〜(長太〜白子?)〜三河大浜港〜岡崎?伊勢商人・角屋七郎次郎秀持の援助?白子漁師大黒屋光太夫。ロシアに漂流10年滞在、帰国。
白子小学校、幼稚園。紀州藩白子代官所跡。藩主別邸御殿や代官所役人・手代の長屋、目付役所等。紀州藩が御三家になった時に、伊勢国には18万石ほどの所領があったよう。
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白子小学校、幼稚園。紀州藩白子代官所跡。藩主別邸御殿や代官所役人・手代の長屋、目付役所等。紀州藩が御三家になった時に、伊勢国には18万石ほどの所領があったよう。
寺尾家住宅。江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった寺尾斎兵衛家の住宅旧家。伊勢型紙資料館。
久住屋で和菓子「おはら木」を土産に買いましょ。次回の白子〜津方面へ続く。
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寺尾家住宅。江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった寺尾斎兵衛家の住宅旧家。伊勢型紙資料館。
久住屋で和菓子「おはら木」を土産に買いましょ。次回の白子〜津方面へ続く。
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